合一について

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

合一について

想いびとは男に告げた、「お入りになって、わたくしそのもののあなた。庭に揺れる薔薇の花と棘のように、どうして離ればなれでいられるかしら」。かつて二筋であった糸が、こうして一筋になる - さあ、正しい読み方を教えよう。「كن(kun:在れ)」。この先、決して忘れることのないように。

「كن(kun:在れ)」。これを、「ك (k)」と「ن (n)」の二つの文字として読んでしまっては誤りだ。「ك (k)」と「ن (n)」の間に、輪のように引き合う絆がある。輪の中に引き寄せられれば、無さえもたちまち有に転ずる。輪とは不思議なもので、ある視点からは二筋に見える。だが別の視点から見れば、輪は間違いなく一筋である。

「كن(kun:在れ)」という語が、「ك (k)」と「ن (n)」という二つの文字でありながら、その意味はひとつであるのとも似ている - ふむ。生きるものの、脚が二本であろうが四本であろうが、歩く道は一本であるのとも似ている。はさみの歯は二枚揃って一枚の紙を切り、洗濯屋は二人揃って一枚の布を洗う -

一言で洗濯屋と呼ぶが、あいつとこいつの間には明らかな違いがある。あいつは布を水の中へ突っ込む。こいつは水から布を引き上げて干す。もう一度、あいつが布を水の中へ突っ込み、こいつが水から布を引き上げて干す。繰り返し、繰り返し、互いに相手の正反対の動作をしている。知らぬ者には、まるで互いにいがみ合い、意地悪く争っているかのようにも見えるだろう。けれど実際には、洗濯屋は互いに助け合い、一緒に同じひとつの仕事をしている。

全ての預言者達、全ての聖者達が、それぞれに自らの道を歩んだ。それぞれの宗教哲学、それぞれの宗教実践があった。しかしそれら道の全ては、やがてはひとつの神へと至る。道は数多くあり、それぞれに異なっているかのように見えるだろう。だが真実のところ、全ての道はひとつなのだ。

- さて、お集りの諸姉諸兄もお疲れのご様子。うつらうつら、皆が挽く理解という名の石臼を、そら、水が運び去ってゆく - 水は石臼のはるか彼方から流れ来る。神がそうと思し召せば、眠りから醒めた頃合いに、石臼は皆の手元に返されるだろう。そして水もまた、元の流れへと帰って行くだろう。

知に基づく言葉、真理のロゴスの目的は教育にある。教え合い、学び合うためにロゴスは舌に届けられる。それ以外を目的としても、ロゴスが届けられ語られる機会は来ない。それはいつも静かにたゆたっている。喧噪からも、雑音からも遠く離れて、「下を河川が流れる楽園(コーラン2章25節)」に -

神よ、魂に知らせてはくれまいか、言葉の在り処を。隠さず、ありのままを見せてはくれまいか、字も音も伴わぬ、語そのものの在り処を。字も伴わず音も伴わぬ、そのような語であれば、どこまでも大きく、どこまでも遠く、どこまでも広く届くだろうに。そのような語によって育まれるならば、魂もまたどこまでも大きく、どこまでも遠く、どこまでも広く飛べるだろうに。

リアリティの領域はかくも大きく、遠く、広く - あらん限りの想像力を駆使してもその全体を知ることは出来ぬほどに。あちらこそがリアリティだ。私達が今いるこちらこそがファンタジィだ。そしてこちらのファンタジィは、あちらのリアリティの支え無しには存在し得ない。既知の領域と未知の領域を比べ得ようか?思考によって飛べる範囲などたかが知れている。未知の領域の広大さは推して知るべしと言う他は無い。

想像力を働かせるというのは、痛みや悲しみの原因となる。働かせれば知らずにはおれぬ、こちらも、こちらの私達も儚いファンタジィに過ぎぬという事を。やがては欠けてやせ細り、点よりも小さくなって消えゆく月のよう - そして肉体に備わる感覚によって感知出来る世界は、それよりもなお狭い。まるで牢獄のようだ。

こちらの世界は牢獄だ、そして肉体は私達を繋ぐ独房だ。肉体の感覚が、独房の壁のように私達を阻む。肉体の感覚がもたらすものは分離と多元だ。タウヒード(統合)の領域は肉体の感覚を超えたところにある。そちらへと進まねばならぬ、<ひとつ>に帰することを望むのならば。こちらを去らねばならぬ、<ひとつ>に帰することを望むのならば。

神は命じたもう、「كن(kun:在れ)」と。<ひとつ>の意味を伝えたもう、「ك (k)」と「ن (n)」というふたつの文字を用いて。 - 語っても語っても、なお語り尽くせるものではない。名残惜しいがここまでとしよう、そしてあのオオカミがどうなったのかを見に行くとしよう。