アリーと暗殺者

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

アリーと暗殺者

かつて預言者が、信者の長アリーの馬引く者に告げた。「汝に言っておこう。アリーは汝の手によって殺められるだろう」。

- 「私(アリー)の寛容は蜜のように甘い。たとえ私を殺す者が相手だろうと、その蜜が毒に変わることは無い。かつて預言者が私の従者の耳元で言った、いつの日か、彼がその手で私の首を討ち取ることになるだろう、と。神の御使いとして、預言者はわが従者にそう知らしめたのだ。

わが従者、わが友は言った、『私を殺して下さい!憎むべき罪を、私が犯さずに済むように』。私は答えた、『わが友よ、私に死をもたらすのがおまえに課せられた宿命なら、この私とて神の定めたもう宿命から逃れ得るはずがないだろう』。

すると彼は私の前に身を投げ出して言った、『優しきおひとよ、神かけてあなたの剣を取ってくれ。お願いだ、私をまっぷたつに断ち割ってくれ。そんな恐ろしい結末は嫌だ、私には耐えられぬ。この悲痛から私の魂を救ってくれ、あなたは私の命なのだ』。

私は言った、『行け、もはや神の筆のインクも乾いた。その筆は、実に多くの驚くべき出来事をいと高き処に書き留めてきた。私の胸の内にはおまえに対する憎しみなど無いよ、おまえだって、選り好んでそうするわけではないのだから。神が書き記したもう出来事の、おまえは道具立てなのだもの。どうして神の道具立てを打ち壊すことなど出来ようか。何がしかの事が起きるとき、本当にそれを為したもうのは神なのだよ』、と」。

それを聞いて、彼(異教の騎士)は尋ねた。「それでは一体、報復とは何なのでしょうか」。アリーは言った、「それもまた、神の仕掛けたもう不思議のひとつよ。神ご自身が為したもう御業を、打ち壊しめるのもまた神ご自身のみ。御業の上にも御業を重ね、そのようにして御方は全き庭を育てたもう、というわけだ。

何の不思議もあるまい、神とは復讐と慈悲との二つをひとつに束ねたもう御方。御方はあらゆる現象を生起せしめ、また世界の全てを統べたもう。ご自身が壊したもう道具ならば、再び御手ずから直したもうだろうよ」。

書物にもある通りだ、「われらがいずれかの啓示の文句を抹消したり、あるいはわざと忘れさせたりする場合は、それよりよいものか、またはそれと同等のものを授けるようにしている(コーラン2章106節)」、と。いかなる法であれ、御方が打ち消したもう後には、下草と引き換えに薔薇の花が咲く。

昼の喧噪も夜の静寂によって打ち消される - 見よ、静寂が真の知の光を分け与えるのを。だが日の光が差し込めば、夜は昼に打ち消され、静寂は火遊びを好む者達によってたちまち消費されてしまう。睡眠も休息も闇に属するもの、そして生命の水もまた - そして心もまた、闇にあって甦るものではなかったか。声と声、息と息との間に挟まれる小休止こそが、暗誦の美しさを際立たせるのだ。

あらゆる事象には相反する極があり、一方の極は、反対にあるもう一方の極によってこそ明らかにされる。心の中心、この黒い核に、御方は永遠の愛の光を生じさせたもう。預言者が戦ったあまたの戦は、平和をもたらす軸となった。後の世の私達が享受しているこの平和も、彼の戦を根として生じたもの。

我らが心を魅了してやまぬかのひとは、数え切れぬほどの首を討ち取ったが、そのために更に多くの人々が命拾いをしたのだった。庭師は邪魔な大枝を切り落とす、なつめやしの木がまっすぐ高く育つように、多くの実りをつけるように。雑草は根元から掘り起こして引っこ抜く、彼の庭がより良く育つように、より多くの収穫をもたらすように。医者は悪くなった歯を引っこ抜く、患者から痛みと病を取り除くために。

損失や、欠落であるかのように見えるものの中にこそ、実に多くの恩恵が隠されている。殉教者を見よ、彼らは死を通して新たな生を得る。日々の糧を飲み込んできた彼らの喉は切られた後は、別の糧が彼らの喉を通る。彼らは「主のみもとで扶助を賜って生きている(コーラン3章169節)」。

定められた法に従い家畜の喉が切られれば、それを食したヒトの喉は育ち、恩恵に浴してより優れたものとなる。だが切られた喉がヒトのそれであったならどうなるか?考えてみよ。譬え話から、何がしかの解を導き出してみよ - そう、第三の喉が生じる。甘く涼やかな神の飲み物と、神の光を飲み下す喉が。

切られた喉を通るのは神の水、その喉は「そうです!(コーラン7章173節)」と、肯定の裡に死を受け入れた者のそれであり、「否!否!」と拒否する者のそれではない。 - いい加減に終わりにしたらどうか、臆病者よ。まるで子供のよう、一体いつまで日々のパンで魂を養おうなどと試みるつもりか。

白く柔らかなパンを求める限り、まるで柳の木のよう、果実を得ることも無ければ、実も名も得ることが無いだろう。身体の欲がパンから離れることを拒むなら、魂の錬金術を用いよ、自己という銅を金に転じるために。洗濯という仕事から目を背けて、どうして衣裳をきれいさっぱり清められるだろうか。

わが友よ、あなた方の断食がパンで解かれようと、再び結びたもうのが御方である。これ、この通り。解くも結ぶも御方なら、壊すも直すも御方。あなたが何かを壊せば、御方は告げたもう、「さあ、直せ」。手も足も出るまい。直す術を知りたもうはただ御方のみ、それ故に壊すことが許されるのも御方のみ。

縫い合わせる術を知るのも、引き裂く術を知るのも御方のみ。引き合わせたもうのも、隔てさせたもうのも御方のみ。仕入れた品物よりも、更に良い品物を売りたもうのが御方。御方の手にかかれば、館は屋根も砕かれ床から逆さにひっくり返る。しかし建て直された時には、以前よりも優れた館になっている。

もしも御方が一人の命を取り上げたもうとしても、すぐさま幾万もの命がその跡に運び込まれるだろう。そしてもしも犯された罪に対し、御方の報復が為されなかったとしても、 - 御方はこうも命じたもうたではないか、「この報復の法は汝らの生命ともなろう(コーラン2章179節)」、と。

振り下ろされる剣を神の思し召しとわきまえて、自ら進み前に出てその腹を差し出す者 - 神によってその目を開かれた者ならば誰もが知っていよう、剣を振り下ろし殺害する者もまた、神の定めたもう宿命に繋がれている身なのだ、と。誰であろうが、その首を宿命の襟によって縁取られた者ならば、自らの子にでさえ剣の一撃を加えることすらあるのだ。

神を畏れよ、邪な者の轍を踏むな。自らの無力さを知っておけ、神の命じたもう罠に出会ってしまう前に。