終)アリーと暗殺者

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

終)アリーと暗殺者

アリーの話に戻ろう、彼と、彼の暗殺者について。彼が暗殺者に示した優しさについて、卓越した彼の倫理と、ひときわ優れた彼の精神について。

彼(アリー)は言った、「昼となく夜となく、私の視界の片隅には、いつでもあの男 - 暗殺者の宿命を負う者 - がいた。私には、彼に対する怒りなど無かった。何故ならその時、すでに死は私にとって、まるでマンナのように甘いものとなっていたから。私の死は、復活の約束をいち早くその手に握りしめたのだ」。

私達にとり不死の死こそ合法。日々の糧が欠けようが、構うな、欠落こそが私達の糧となる。外側における死は内側における生だ。うわべを見るなら、死は断絶のように見えるだろう。しかし真実のところ、それは永続であり、果てなき生のしるしである。

子宮をただよう胚にとり、誕生とは、今ある存在の階梯から、もうひとつの、別の階梯への出発を意味する。誕生を通して胎児は世界に現れ、新たに咲いた一輪の花となる。だが同時に、胎児にとり誕生とは子宮における死でもある。

「私にとり死とは甘美なもの。死に対して私が抱くのは激しい愛と憧れだ。故に『破滅に身を投じてはならない(コーラン2章104節)』との御言葉が、私には深い意味を持つ。酸っぱく苦い果実なら、わざわざ禁ずるまでもない。皮の酸味、実の酸味それ自体が果実を食らうことを禁じている。しかし私にとり死とは甘い果実そのもの -

何故なら私は知ってしまったのだ、『否、主の御許で彼らは生きている(コーラン2章154節、3章169節)』と。だから遠慮無く私を殺せ、わが友よ。おまえに託そう、取るにも足らぬ卑しい私ではあるけれど。殺せ、永遠の生が私を待っている。私の生は死の中にこそあるのだ、年若きわが友よ。

私はどれほど長い間、わが故郷から引き離されていたことだろう。そしてこの先もどれほど長い間、私はこの地を彷徨い続けるのだろう?これが流浪でなくて何だというのか、これが放逐でなければ神も仰りはすまい、『われわれはなべて神へと還る者(コーラン2章156節)』、と。

自らの生まれ故郷に戻る者こそ『還る者』、そして私は紛れも無く『還る者』。私は還りたい、時間からも空間からも自由になって<ひとつ>へと還りたい。

- すると彼は言った。『ああ、アリーよ、私をこそ殺せ、さあ、早く殺してくれ。そんな恐ろしく苦しい瞬間に立ち会いたくなどない、見たくもない。私の血をこそ流せ、あなたの手によるものならそれは合法だ。あなたが私を殺してくれさえすれば、私の目は復活の日の恐怖を見ずに済む』。

私は言った - たとえ森羅万象を形作る微粒子の全てが殺人者となり、短剣をその手におまえに襲いかかろうとも、たった一粒さえもおまえを傷つけることは出来ないだろう、毛の一筋、血の一滴すら流れはしないだろう。何故なら神の筆によるおまえの宿命には、そのようなことは一行も書き記されてはいないから。

悲しむな、嘆くな。この私が、必ずおまえの仲介者となるから。必ずおまえを執り成すから。私は精神の主人であり、肉体の奴隷ではない。私の目には、この肉体には何の価値も無いものと映るのだよ。私は気高く貴き者の子。肉体を失ったところで、『アリー(高貴の意)』たる私の誉れに何の障りがあろう。短刀も剣も、私に触れれば香草となろう。訪れる死はわが祝宴、水仙の花を積み上げた臥所となろう」。

- この通り、彼(アリー)には自らの肉体を惜しむ気持ちは露ほども無かった。肉体を捨て切っていた以上、権威や、支配への欲が彼を揺り動かすことも無かった - どうしてこのようなおひとが、自らの王国を望むだろうか?どうしてこのようなおひとが、カリフの座に執着するだろうか?

面だけを見れば、彼は権力と地位を得んがために奮闘したようにも思えるだろう。だがそれもこれも、全ては後世に続く人々のため。統治者とはいかにあるべきか、正しい道とは何かを知らしめんがため - 彼はそれまでの統治や支配の在り方に、新たな精神の価値を加えようと試みた。そしてカリフ制という椰子の木に、多くの実りをもたらそうと努めた。