「現世は屍に過ぎぬ」 - いと高き預言者の言葉

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

「現世は屍に過ぎぬ」 - いと高き預言者の言葉

かつて在りし日の預言者(ムハンマド)もまた、そのようではなかったか。彼のメッカ征服を、現世への執着によるものだなどと疑う者があるなら、彼らは何も知らないのだ - 審判の日、彼(ムハンマド)の両眼が閉じられているだろうことも。彼の両眼もその心も、天の宝庫に向かって開かれることは無いだろう。

七層の天は際から際まで、彼を一目見ようと押し掛けたジンとフーリーで一杯になろう。けれど彼の両眼を、心を、捉えて離さぬのは最愛の御方のみ。愛する者と愛される者の間には、天界の住人ですら割り込む隙も無いだろう。

愛する者と愛される者が、分かち難く<ひとつ>となるならば、そこには預言者が遣わされる隙も無ければ、天使達、精霊達の入り込む隙も無い - この意味が分かるだろうか。告げる声がある、「これぞ『má zágh』」、と。

すなわち互いに互いを探して視線を走らせる必要が無い、カラスのように屍肉を探して「zágh」(うろつく)必要が「má」(無い)だということ - 「われらは神に酔うた、神の庭では無く神に酔うた。われらは神に染まった、神の庭に咲く花では無く神に染まった」。

預言者は、いと高き楽園の宝物に眼を奪われることが無かった。楽園の宝物も天界に関わる種々も、預言者の眼には藁ほどの価値も無きものと映っていた。「しかしそれはそれとしても、彼はメッカを、シリアを、イラクを、欲したではないか?手に入れようと、奮迅努力したではないか?」

- このような問いを発する者をこそ偽善者というのだ、彼と己とを同列に並べるとは。欲深な己を基準に物事を判断するから、そうした愚問が飛び出しもする。黄ばんだガラス越しに太陽を見れば、太陽の光あるところ全てが黄ばんで見えるだろう。青や黄色のガラスを壊せ、砂塵と人間とを見分けるために。

馬上の騎士が砂塵を巻き上げやって来る。だが人々は、砂塵は見ても騎士を見ない。イブリースは砂塵を - すなわち泥土で出来た肉体を - それのみを見て言い放った、「泥土より生じた泥土の子(アダム)が、火炎の子である私に優るはずがない」。神の愛した神の友を「たかがヒトの子」と見るのはイブリースの悪しき遺産だ。

何故に相続するのか、イブリースの子でも無かろうに。あるいはここに居るのは野良犬(イブリース)の子か?

- 「我は野良犬の子に非ず。我は獅子の子、神の獅子なり。神の獅子は肉体の檻に収まらず、自由を求めて檻を破る。現世の獅子は餌食を求めて獲物を狩るが、主の獅子が求めるものとは自由だ - そして獅子は完璧なる自由を死の裡に見出す。神の獅子は死の裡に無数の生を見る - そして己の存在そのものを消滅せしめる、炎に身を投ずる蛾のように」。

死への渇望は誠実な者の胸を飾る勲章だ。ユダヤの民にとっても、それは大きな意味を持つものであったはず。書物において神は告げたもう、「ユダヤの民よ!(コーラン62章6-8節)」と。もし神のみもとの来世の住まいが誰も入れない純粋におまえたちだけのものであるのなら、死を願えばよい。もしおまえたちが真実を語っているのなら(コーラン2章94節)」と。

利を求めればきりが無い。利を得んがために人の命も奪うようになる。命で利が得られるものならば、いっそ己の命を差し出せ。誠実な者達の眼は、たとえ心中に利を求める欲があろうとも、その欲を、死を克服し死に打ち勝つために費やすことをこそ善きものと見る。

「ユダヤの民よ、死を願って見せよ、もしもあなた方が真実を語っているのなら」、ムハンマドが旗を高く掲げてそう言った時、ただの一人もこれに答える勇ましき者は無かった。替わりに彼らがした事は、財に係る税を納め、土地に係る税を納めること。

彼らは言った、「どうか照らし出してくれるな、私達に恥をかかせるような真似はなさるな」。 - さて、長話はこの辺りで切り上げよう。友よ、手を貸しておくれ。どうやらあなたの眼にも、『友』が見え始めたようだ。