2巻:序の序

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

序の序(散文による)

愛あまねく慈しみ深い神の御名において。

(『マスナヴィー』)第2巻が後回しにされていた理由の断片をここに記す。1

もしも御方の神聖なる知恵の全てが、たちどころにしもべに対して開示されるならば、それがもたらす益を前にして、しもべは何ひとつ行為を起こすことも無くなるだろう。また神の無限の知恵はしもべの理解力を破壊し、行為と名のつくものから遠ざけることだろう。

それ故に、いと高き神は神聖なる知恵の、ほんの小さな部分のみをお示しになる。そしてこれを引き輪とし、ラクダを引くようにしてしもべを行為へと引き寄せたもう。

もたらされる益について、もしも御方が微塵も伝えずにいたならば、しもべは微動だにしないであろう –– 何故なら私達ヒトを動機づけるものは益である。自分にであれ、他人にであれ、益がもたらされると知って、それで私達は初めて、益に応じた行為を起こすのである。

一方で、(行為を起こすことでもたらされる益に関する)知恵の全てを、もしも御方が余すところ無く開示したもうならば、それでもやはりしもべは微動だにしないであろう –– 否、出来ないであろう。引き輪が無ければラクダを動かすことは出来ないが、同時に、引き輪があまりにも大き過ぎれば、ラクダは横たわったまま動かないであろう。ラクダの鼻に見合った大きさの引き輪でなくては、立ち上がることもままならぬであろう。

「何一つわれらの手もとに貯蔵されていないものはなく、それを下げわたすときには、かならず一定の分量をもってする(コーラン15章21節)」。水が無ければ、土から煉瓦を作り出すことは出来ない。同様に、水が多過ぎれば、土から煉瓦を作り出すことは出来ないのである。

御方は、「天を高く揚げ、秤を設けたもう(コーラン55章7節)」。御方は、あらゆるものに対してそれに見合ったものを授けたもう、計算されず、また均衡の裡に無いものは何ひとつ無い、「神は欲したもうものには計算ぬきで授けたもう(コーラン2章212節)」と、書物において名指された『それ』と、『それ』を授かった者を除いては –– しかし味わったことの無い者は、決して知り得ぬだろう。

尋ねる者がある、「愛とは何か?」。
私は答える、「知りたければ、私と共に在れ」。
計算し得ぬもの、愛こそは『それ』である。

真の愛は測ることは出来ぬ –– 神のしもべにとり、愛はファンタジィであると云われる由縁である。彼らは、愛のリアリティを神の性質の裡にのみ見出す。「神に愛され、愛し(コーラン5章54節)」 ––

「神に愛され(yuhibbuhum)」、これぞ完璧、何ひとつ欠けることも無き状態。だが「愛し(yuhibbúnahú)」たと言う時、主語はどこへ消えたのか。そも、愛「した者」が実際に在り続けることなど可能だろうか。

 


*1 『精神的マスナヴィー』第1巻完成後に、口述筆記者であるフサームッディーン・チェレビーの妻が死去した。そのために執筆作業は2年ほど中断され、第2巻は喪の季節が終わったのちに着手された。