2巻:序

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

愛あまねく慈しみ深い神の御名において。

しばらくの間、このマスナヴィーは遅れるがままになっていた。血が乳となるためにも、時間をおく必要があったのである。新しい生命の出現を待たねばならなかった。赤子が生れぬことには、血も甘い乳にはなりようがない。私の言葉に、注意深く耳を傾けよ。神の光が –– フサームッディーンが彼の魂の引き綱を天の頂上から取り戻したとき、私は言った、彼が海原から浜辺へと帰って来たのだ、と。彼が精神の階梯を上昇する旅に出ている間というもの、彼という春の息吹無しに私の心のつぼみは花開くことが無かった。

5. 彼の帰還と共に、マスナヴィーに通じる詩心という名のリュートも調弦され再び音を鳴らすようになったのである。マスナヴィーは魂を清め、磨くもの –– 彼が戻る日、それは私にとりマスナヴィーが始まる日でもあった。私はそれにふさわしい時機を待ち続けていた。実り多きこの交流が再開されたのはヒジュラ歴662年のことである。かつてのナイチンゲールは飛び去り、そして再び還って来た –– 魂の真実を狩る鷹となって。王の腕こそ、この鷹の安息の住処となりますように!真実へと至るこの門が、探し求める人々の前に永遠に開かれて在りますように!

10. この門を破滅へと導くのは官能と情欲、それさえ除けば、この門においては、休む暇もなく次々と神的知識を見いだせるだろう。食道と口は、あちら側の景色からあなた方の視界を遮る眼帯となる。ああ、口よ。おまえは本当に災いの元、地獄へと至る入口だ。そして、ああ、世界よ。おまえは本当に、あちら側の景色との間に横たわって介在する。低きこの世界のとなりに永遠の光は輝き、、血の川のとなりに純粋な乳が流れている。何の準備も、予備知識も無く世界へと一歩踏み出せば、たちまち混じり合って純粋な乳も血となるだろう。

15. かつてアダムは官能の快楽へと一歩を踏み出した。それ以降、楽園のいと高き処からの離別が、彼の我欲に巻きつけられた首輪となった。まるで悪魔を避けるがごとく、天使達は彼を避けた。たった一切れのパンのために、彼はどれほど多くの涙を流しただろう!罪を犯したとき、彼は正しい方角へ進んでいると思っていた。しかし彼が見ていたものは、彼自身の髪であった。彼の眼を、伸びた髪が覆っていたのである。かつてアダムは永遠の光の眼そのものだった。彼自身の髪が、彼の視界にそびえ立つ巨大な山脈となった。その状態のままでいたなら、彼は決して改悛することも、悔悟の言葉を口にすることも無かっただろう。

20. 知性は、別の知性に出会い組み合わされることにより、悪しき行いを阻み、悪しき言葉を封ずるようになる。しかし我欲が別の我欲と関わり合って共寝するとき、一人ひとりの持つ個別知性はすっかり怠けて役に立たなくなってしまう。孤独のためにあなた方が絶望に陥ったならば、その時は友の庇護の影に身を寄せるが良い、たちまち太陽のごとく明るい輝きを取り戻すだろうから。行け、行って神の友を探せ。一度だけ、一人だけでも出会うなら、神があなた方の友となるだろう。隠遁を自らに定められた道とする者、そしてその道から視線を逸らさぬ者。神の友もかつては神の友を探し求め、習い、学んだのである。

25. 見知らぬ赤の他人を避けるのは構わぬ、だが友となれば話は別だ。毛皮の外套は冬のためにあるもの、春のためにあるものではない。知性が、別の知性と出会って交われば、光は増し道もなだらかなものとなろう。しかし我欲が、別の我欲と出会って浮かれていれば、闇は増し道は隠される。真実を狩る者よ、友人とはあなた方の眼そのものだ。友人の座をよくよく清めよ。枝の切れ端や藁くずを溜めたままにはしておくな。注意深くあれ!あなたの舌が箒となって、不要な塵や埃をまき散らすことのないように。あなた方の眼に、塵や埃を擦り込むことのないように。

30. 真に信じる者とは、真に信じる者を映し出す鏡である。その顔は、汚れからも傷からも守られて安らかな表情をしている。友人とは、悲しみの魂を映し出して見守る鏡なのだ。わが魂よ、鏡の顔に息を吐きかけるな!おまえが息を吐きかければ、鏡はその顔を曇らせて覆うだろう。どのような時でも一人の時と同じように振舞って良いわけがない。息を飲み込め、友の前にあっては控えめであれ。おまえは大地よりも低きにある者か?大地が友に出会うとき –– すなわち春の季節が訪れるとき、大地は無数の花々を咲かせる。木々が友と出会うとき –– すなわち春の甘い風と結ばれるとき、木々は頭からつま先まで花開いたようになる。

35. やがて秋が訪れ、不快な輩と出くわせば、それらは顔を引っ込めて頭からすっぽりと覆いを被り、いう、「悪しき友は災いのもと。やつがこちらへやって来たなら、寝所に引きこもり眠ってしまうのが何よりの算段。だから私はこうして眠ってやり過ごす、洞穴の、七人の眠りびとのように(コーラン18章)。デキアヌスとなるくらいなら、悲嘆の虜囚となる方がましというもの」。彼らが起きて過ごせば、時間の全てがデキアヌスの奢侈のために費やされてしまう。それを避けて、眠りの裡に過ごしたがために、彼らはその名を残すこととなったのである。知恵を伴う睡眠は、精神の領域においては覚醒である。身体の覚醒と精神の覚醒は別ものだ、しかし、ああ、 –– 無知と共棲みする者が眼を覚ましたところで何になろうか!

40. バフマンの月(1月)、カラス達が彼らの天幕を張る季節に、ナイチンゲール達はその姿を隠して沈黙を守る。薔薇の咲く花園が失われれば、ナイチンゲールも歌を失う。太陽の不在が、ナイチンゲール達の覚醒を奪い去るのである。ああ、太陽よ。汝は薔薇園を、大地を去った –– それもこれも、大地の下を光もて明るく照らし出すため。だが神的知識という名の太陽は不動だ。昇るところは他ならぬ精神と知性、中でもとりわけあちら側の –– 真実在の領域における完璧なる太陽は、昼となく夜となく輝いてあまねく照らし出す。

45. アレクサンドロス王たらんと自負する者よ、完璧なる太陽の昇るところ(コーラン18章)を目指せ。ひとたび訪れれば、それ以降はどこに在ろうとも光が溢れるだろう。ひとたび訪れれば、赴くところ全てが日の昇るところとなろう。全て日の昇るところは、汝を、日の沈むところを愛するようになるだろう。汝の蝙蝠のごとき感覚が、日暮れを追いかけて飛んでゆく。官能の全てが日暮れめがけてこぼれおちる、真珠をまき散らしたかのように。おお、騎士どのよ。身体の感覚と認識を頼りに道を進むなど、まるでロバのようではないか。恥を知れ、ロバごときと道を相争うとは。身体に備わる五感に加えて、精神に備わる五感があることを知れ。前者が銅なら、後者は赤く光る金だ。

50. 目利き達がたむろする市場へ行ってみるがいい。金の五感があるというのに、銅の五感を買い付けるやつがあるものか。身体の感覚は暗闇の食物を食べる。精神の感覚は太陽から滋養を得ている。おお、不可視の領域への意識を、大事な荷物のように抱きしめる者よ。汝の手を出せ、モーセのように、胸の中から(コーラン20章22節、28章132節)。おお、神的知識の太陽を自らの属性とする者よ。天の太陽は太陽以外の何ものにもなり得ぬ、だが汝はある時は太陽となり、またある時は海となる。ある時はカーフの山となってアンカー(不死鳥)を棲まわせ、またある時はアンカーとなってカーフの山に棲まう ––

55. 本質においてあなた方は「これ」でも無ければ「あれ」でも無いのだ、おお、全ての想像にも優る者よ、考えうる全てを超えた者よ!精神には、知識と理性とが与えられている –– これはアラビア語、あれはトルコ語といった言語の相違など、精神とは何の関わりも無いことだ。ムワッヒド(神の超越)を主張する者も、ムシャッビフ(神の内在)を主張する者も、汝を前にすればうろたえる他はない。おお、汝、外在するイメージを持たずして、しかもなお無数のフォルムを通じてその姿を顕す者よ。ムワッヒドの「真に存在するはただ神のみ」という主張は、時としてムシャッビフの「あらゆるフォルムに神は内在する」という主張を打ち砕く。時としてフォルムはムワッヒドを待ち伏せる罠となる –– あらゆるフォルムを超越する神に近づこうという者の道を、行く手を阻もうとする。酩酊したアブー・ハサン1のよう、時おり忘我の境地に達しては、あれやこれやと絡んでくる、「歯も生えそろわぬ若造め、骨も固まらぬひよっこめ!」と。あれと同じだ。

60. 時折、彼はああして荒れる。自分の面目を、自分の手でぶち壊す。彼が何もかもを台無しにしてみせるのは、愛する者(神)のまったき超越を主張せんがためだ。五感の眼、身体の眼による教義を掲げるのがムウタズィラの徒2。それに対して、スンナの徒3は理性の眼による教義を掲げる –– その「合一」に敬意を表して。神のヴィジョンを捉えるのは身体の眼ではない。精神の眼、理性の眼こそが合一をなし得るのだ。感覚認識の奴隷となった者、これすなわちムウタズィラの徒。どれほど自らをスンナの徒と言い張ろうとも見当違いというもの、感覚認識に縛られて取り残される者は誰であれムウタズィラの徒だ –– 本人は、その無知ゆえにスンナの徒を自称するかも知れないが。感覚認識の束縛から逃げおおせた者こそスンナの徒。精神の眼を授けられた者とは、すなわち理性と調和し甘やかな旋律を奏でる者。

65. 動物の感覚で王(神)に相見えるものならば、雄牛やロバでさえアッラーと相見えるだろう。もしも動物の感覚 –– 身体の欲求により条件付けられる感覚 –– 以外の感覚を持たぬなら、どうしてアダムの子らが誉れ高き者とされるだろうか?どうして他を差し置いて、数々の神秘を知らされる者でいられようか?あなた方は(神を)「(フォルムを)超越する者」、あるいは「(フォルムに)内在する者」と呼ぶ。だがそのような議論自体が僭越に過ぎる –– あなた方自身、未だにフォルムの域から解放されず、自らの感覚認識に留まり続けているではないか。(神が)「超越する者」であろうと「内在する者」であろうと、御方は、固い外殻を突き破る種子の核と共にこそ御座す。

70. もしも眼が見えぬならばそれはあなたのせいではない、「盲人や跛者や病人には、どんな罪も無い(コーラン48章17節)」。しかしそうでは無いのなら、行け、そして自らの浄化に励め。何故ならば成功の鍵は常に忍耐にあるからだ –– 忍耐という名の治療を施せば、眼を覆うヴェイルは燃やされ取り除かれ、胸は開かれ神的知識が示されることだろう。あなた方の心の鏡が磨かれ浄められた時、あなた方はイメージを捉えることだろう、水と土によるこの世界とは別の世界のイメージを。あなた方は視るだろう、イメージと、イメージを創りたもう者の双方を、精神の王国に敷き詰められた絨毯と、絨毯を敷き詰めたもう者の双方を。私はヴィジョンを捉え、その中に友の幻影を捉える –– わが友はハリール(アブラハム)の姿をしている。姿すなわちフォルムとは偶像に過ぎぬ、だが真実のところ、ハリールは偶像をことごとく破壊する者(コーラン21章51節〜70節)。

75. 神に讃えあれ、彼の出現無くしては、私の精神は彼の幻影を視ることも無かったろう。彼の幻影の裡に、私は私自身の幻影を視た。入り口に残された僅かばかりの塵が私の心を惹き付けたのだ –– 塵に耐えかね、入り口を避ける者の頭こそ塵にまみれるが良い!私は言った、「もしも私が美しき者ならば、僅かばかりのこの塵、神の慈悲と慈愛の残りものを頂戴することも叶うだろう。けれどそうでないならば、醜き者であるこの私を、彼は笑い飛ばすことだろう。最上の思案は、私が彼の残りものを頂戴するのにふさわしい者か否か、私自身を確かめることだ。さもなければ私はふさわしからぬ者として、一笑に付されることだろう。如何にすれば彼の愛を勝ち得ることが出来るだろうか?」。御方は美しく、また美しき者を愛したもう。うら若き美青年が、衰えた老婆を選ばねばならぬ道理は無い。

80. 美しきものは美しきものを引き寄せる、これを知っておけ、胸に刻んでおけ。書物を読め、「善き女は善き男のために(コーラン24章26節)」。この世にあっては、全てのものが何かしら引き寄せている。熱きものは熱きものを引き寄せ、冷たきものは冷たきものを引き寄せる。価値無きものは価値無きものを引き寄せ、時に耐えうる価値有るものは、同じように価値有るものと引き寄せ合って永い蜜月を楽しむ。炎に属するものは炎に属するものと惹かれ合い、光に属するものは光に属するものを探し求める。

85. 眼を閉じれば、あなた方は落ち着かず不快を感じるだろう。窓から差し込む光無くして、眼の光を得ることは出来ない。あなた方が感じる不快は、あなた方の眼の光が一刻も早く日の光を得ようとして引き起こされるものだ。もしもあなた方の眼が開いているにも関わらず、なおも不快が去らぬなら、それは心の眼が閉じているということの何よりの証しだ –– 心の眼を開け。あなた方の心の眼が、限りなき光を探し求めて苦悩していることを認めねばならぬ。身体に備わる二つの眼でさえ、はかない現世の光からの分離に苦しみもだえる。それであなた方は閉じていた眼を開く。永遠の光からの分離が心の眼にもたらす苦しみ、痛みは如何ばかりか –– これを忘れることの無いように!

90.  –– 私が自らを顧みるようになったのも、御方が私を差し招いたがため。招かれるがままに御方の許へ向かうほどの価値が、果して私には有るだろうか?それとも拒まれはしないだろうか?見る者全てを恍惚とさせる麗人が、醜い者を連れ廻すのは、なぶり者にして嘲ってやろうという魂胆からだ。しかし一体どうすれば、私は私の顔を見られるだろうか?私の顔色はどのようであろうか?昼の色をしているだろうか、それとも夜の色をしているだろうか?ずいぶんと長い間、私は私自身の魂を一目見ようと探し続けた。けれど私の魂は、どこの何ものにも映し出されることが無かった。私は嘆いた、「一体、何のために鏡があるのか。自分が何なのか、誰なのかを知るためではないのか」。

95. 鉄で裏打ちされた鏡は外殻を映し出すためのもの、外側に顕われるものの他には何ひとつ映し出さぬ。心の様相を映し出す鏡があったなら、その値打ちは計り知れぬ。魂の鏡と呼べるものは唯一つ、それは友の顔だ –– 時間も空間も超えた先にある、あちら側の世界に住まう友の顔だ。私は言った、「わが心よ、行け、とこしえの鏡を探して海を渡れ。川のひとつやふたつ越えたところで見つかろうはずも無い。海だ、あの海を渡らねばならぬ」。このようにして汝(神)のしもべは道を歩み始め、やがて旅の果てに辿り着く、汝のおわします処に –– (子を産む)痛みによって、マリアがなつめやしの木の下へと導かれたように(コーラン19章23〜26節)。汝の眼こそはわが心を見る眼。汝の眼に射抜かれて、わが盲いた心は砕け、私は汝の裡に溺れ、視たものの裡に溺れた –– 汝こそは、探し求めたとこしえの鏡。

100. 汝の眼の裡に、私はわが姿を視た。私は言った、「ついに私は、私自身を見つけ出した。ついに私は、輝ける道を見つけ出した –– 汝の眼の裡に」。「気をつけろ!」、狂ったわが本能は私に警告する、「そんなもの、おまえ自身が生み出した妄想に過ぎぬ。おまえは幻を見ているのだ、現実と幻の区別もつかないのか」。しかし汝の眼に映るわが像は言う、「我は汝なり、汝は我なり –– これぞ完全なる合一、もはや『汝』と『我』の別も無い」。輝けるこの眼、真実を映し出してやまぬこの眼に、どうして幻が紛れ込む隙があろうか?

105. 汝の眼に映るわが像は言う、「汝、もしも汝の姿をわが眼以外の眼に見るならば、それこそが幻、捨て置くべき虚像であると知れ。我の他に、真の汝を映し出す眼を持つ者は無いと知れ。何故なら誰もが、その眼の周囲を虚偽という名のコフルで縁取り、悪魔の醸す虚偽のぶどう酒を飲んでいるから –– 彼らの眼こそ、妄想と非現実とが生み出される処。現実と幻の区別がつかないのはむしろ彼らの方だ。だが汝を映し出すこの眼は、栄光の御方のコフルで縁取られている。以来この眼は真実のみを映し出す、妄想でも、幻でも無く」。目の前に一筋の前髪が被されば、真珠と碧玉の区別もつかなくなる。前髪をはらえ、妄想を払い落とせ。空疎な幻を完全に捨て切った時、あなた方は知るだろう、真珠と碧玉の違いを。

110. さあ、いよいよ物語の始まりだ。真珠の鑑定家諸君よ、物語に耳傾けよ –– 憶測と、確信とを見分けながら。

 


*1 「アブー・ハサン」
アブー・ハサン・アリー・イブン・イスマーイール・アシュアリー(873/4-935/6)
神学者で、スンナ派の支配的な神学となったアフアリー学派の創始者。はじめはバスラのムウタズィラ学はの指導者であったアブー・アリー・ジュッバーイーの弟子であったが、912-3年頃ムウタズィラ学派を離れ、従来から同学派を批判していたイブン・ハンバルなどの伝承主義者たちに近い独自の神学を打ち立てた。
(『岩波イスラーム辞典』p13. 岩波書店)

*2 「ムウタズィラの徒」
ムウタズィラ学派
イスラーム史上再穂の体系的神学を形成した神学派。8世紀前半にバスラで発生し、イスラーム思想史上最初の体系的思想運動を起した同学派は、9世紀初頭から10世紀にかけてイスラーム世界に大きな影響を与えた。アッバース朝初期の827-48年に、”クルアーン創造説”(”神の言葉”はアッラーが創造したとする)が時のカリフの支持を得て、いわゆる御用学派となり、33年には異端審問ミフナを引起した。
(『岩波イスラーム辞典』p959. 岩波書店)

*3 「スンナの徒」
スンナ派
イスラームの主流派。スンニー派とも言う。[スンナとジャマーア]字義的には、”スンナとジャマーアの民”で、ムハンマドの慣行(スンナ)と正統な共同体(ジャマーア)を護持する人びとを意味する。邦訳では”派”と付けるが、宗派や分派を含意するものではない。むしろ、初期における分派の登場(ハリージュ派やシーア派)に対して、イスラーム共同体の団結を重視し、コンセンサス形成に重きを置くことで、結果として多数派を形成したと考えられる。当人たちの主張では、スンナとジャマーアという2点がイスラーム共同体の最大公約数であるし、またそうあるべきだとの認識がある。逆にいうと、より根本的な信仰箇条、つまり神の唯一性や聖典としてのクルアーンについては、スンナ派やその他の諸派の間で目立った違いはない。
(『岩波イスラーム辞典』p550. 岩波書店)