『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
ヤフヤの母とマルヤムの邂逅、あるいは問いと答え
ヤフヤ(洗礼者ヨハネ)が、未だ胎児のマスィーフ(メシア)にひれ伏したことについて。ヤフヤの母が彼を産む前のこと。彼女はこっそりとマルヤム(マリア)に打ち明けた、「私にははっきりと分かります、あなたの身ごもったそのお子が王者であることが。あなたのお子は果たすべき使命を担う者、全知の御方から遣わされた者。あなたに会うたび、私のおなかの荷(子)がたちまちひれ伏すのです。
3605. この子があなたのお子にひれ伏すものだから、そのたびに私のおなかが痛んでたまらないのですよ」。するとマルヤムは答えて言った、「ええ、知っていました。私のおなかを通して、あなたのお子がひれ伏すのを私も感じ取っていました」。
さて、この物語にはある問題がつきまとう。すなわち、(この物語を聞いた)愚か者たちの抗議である。「それは嘘だ!」と彼らは叫ぶ。「その物語を取り消せ、それは間違いだ。正伝によればマルヤムは、誰とも会わず一人きりで身ごもったはずだ。身ごもったと知るやマルヤムは、そのまま町へ戻らなかった。甘いおとぎ話で飾ろうとも、かの婦人は決して戻ることなく町の外で子を産んだのだぞ。
3610. そして子が生まれた後、彼女は子を包んで抱きかかえた。自らの親族の許へ戻ったのはその後の話だ。さあ、一体いつヤフヤの母がマルヤムに会ったと言うのか。一体どこでそのような言葉を交わしたと言うのか」。
こうした問いに対する答えはこうである。「誰であれ(神について)思考する者ならば、自らが知覚できることのみが世界の全てだなどとは決して思うな」。神を思索するということは、肉眼では捉えられぬ領域を思索するということである。マルヤムには、ヤフヤの母が「見えて」いたのだ、たとえ彼女からは遠く離れていたとしても。ある人々は、目を閉じていてさえ友を見る。彼らは、肉体的感覚の鎧を極限まで脱ぎ捨てた人々。その肌はあたかも格子窓のように、外側の景色(精神的事象)を 内側へ招き入れる。
3615. 「それでもなお、外側からも内側からも「彼女らの邂逅」が「見えない」と言うのか。ならば愚か者よ、せめて(今この場で説明した)意味を持って立ち去れ!「naksh(物語)」のshの文字のごとく、綴りの尻尾にぶら下がる者にはなるな。物語を聞くときに、言葉という形式にしがみつく者にはなるな。彼らは言う、「一体どうしてカリーラは、言葉も無しにディムナの言うことが分かるのか。仮にけだもの同士が互いを理解できたとしても、はっきりとした言葉にもなっていない彼らのやり取りを、どうして人間が知り得ようか。一体どうしてヒョウのディムナが、ライオンと雄牛の使節となり得ようか。
3620. 高貴な雄牛が、ライオンの宰相となり得たのは何故か?どうして象が、月を怖れるだろうか?『カリーラとディムナ』は、全て作り話の絵空事に過ぎない。でなければコウノトリとカラスの諍いなど、起こりえることではない」。 ー ああ、わが友人たちよ。物語とは器のようなもの。そして意味とは、器の中に入った小麦のようなもの。知性ある賢き者ならば中身の小麦を選び取り、器は気にもかけないだろう。肝心なのは小麦であり、決して器ではないのだから。バラとナイチンゲールの間にどのようなやり取りが交わされているか、耳傾けてみるが良い ー これもまた、「声無き語らい」の範疇であるが。
「バラとナイチンゲール」:「バラとナイチンゲール」はペルシャ語圏の人々や、その文学に親しむ者には非常になじみ深い比喩である。バラは美しい恋人(愛される者)を、ナイチンゲールはその恋人に愛と忠誠を誓う者(愛する者)、あるいは愛される者の美を歌う詩人を表わすとも解される。メヴラーナは「これ(バラとナイチンゲール)が文学的表現として受容できるなら、『カリーラとディムナ』も同様に受容できないはずがない」と主張する。これはメヴラーナの、宗教学者としてというよりも表現者・文学者としての見解と捉えることもできるだろう。
ところで原語に厳密に従えば、これは「ナイチンゲール(hazal)」ではなく「ヒヨドリ(bolbol)」と訳すのが正しいとする説も存在する。しかしここでは(メヴラーナの言う「言葉という形式にしがみつく者」になるのを恐れ、)慣例に従い「ナイチンゲール」と表記することとした。