真実は自ずから姿を顕すことについて

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

真実は自ずから姿を顕すことについて

もしもあなたが私の魂にとり近しい友なら、多くの意味を含む私の言葉を、単なる表現のひとつとして扱うような真似はしないだろう。私が真夜中に「私はあなたの近くにいる。来たれ、夜を怖れるな。私はあなたに似た者なのだから」と言ったとしたらどうだろう。

3575. そこにある二つの意見は、いずれもがあなたにとり現実以外の何ものでもない。あなたはあなたに似た者の声を、きっと聞き分けられるだろう。「近い」ということと「似ている」ということ、ここには二つの表現があるが、物事を良く理解する力をもってすれば、どちらも本物であることが分かるだろう。近しき者の発する声は、聞く者にそれが確かに友の言葉であることを知らしめる。自分に似た親しき者の発する声は、聞く者に喜びをもたらし、愛する者の愛の深さを感じせしめる。けれど未だ理解を得ない愚かな者には、見知らぬ者の声と親しき者の声の違いが分からない。

3580. 彼にとり、話しかける者の言葉は単なる表象でしかない。彼の不信の原因となっているのは、彼自身の無知である。だが聡明さを備え、既に光を得ている者ならば、話しかける者の声それ自体が真実の証明となる。ここにアラビア語を母語とする者がいて、「私はアラブの言葉を知っている」とアラビア語で言ったとしたらどうだろう。この場合、「私はアラブの言葉を知っている」という言葉は単なる表象に過ぎない。だが彼がそれをアラビア語で表現したということ自体が、その表象が真実であることを示している。あるいはここに物書きがいて、「私には書くことも読むこともできる、私にはそれだけの教養がある」と一片の紙に書き付けたならどうだろう。

3585. 書かれた言葉は単なる表象に過ぎずとも、彼がそれを書いたということ自体が、彼の書き記したことが真実であることを示している。あるいはここにスーフィーがいて、「昨晩あなたは眠っている間に、肩に礼拝用の絨毯を担いだ者と出会っただろう。あれは私だ」と言ったとしたらどうだろう。「夢の中で、眠りこけるあなたに私は告げただろう、この夢の暗示するところは何かを ー わが言葉に耳を傾け、耳飾りのごとく耳に飾れ。わが言葉を、あなたの心の導きとせよ」。以来その夢を思い出すたび、彼の言葉はあなたに新たな奇跡といにしえの黄金をもたらす。

3590. これもまた表象のひとつに過ぎない。だが魂の見る夢を知る者は言うだろう、「然り、それは真実である」と。知恵とは、心から信じる者たちの失われしラクダである。彼らは「それ」がいかなるものかを知っている。故に「それ」について、「誰が」語ったのかは問題とはならない。そして自らがまさしく「それ」の前に立ったなら、「それ」を見間違えるはずもない。喉が渇いている者に、「早くはやく、急いでこの杯を受け取れ。それには水が入っている。さあ、一気に飲み干せ」と言ったとしよう。これに対して渇いた者が、「いやいや、それはおまえの意見に過ぎない。立ち去れ、私に近づくな」などと答えるだろうか?

3595. 「おまえの意見など求めてはいない。立ち去らないなら、その杯にある液体が嘘偽りなき『湧き出る水(コーラン67章30節)』である証しを立てて見せよ」などと答えるだろうか? ー あるいは母が乳飲み子に「おいで、私はおまえの母さんだよ。さあ、乳を飲んでゆっくりおやすみ」と言ったとしよう。これに対して乳飲み子が、「母と名乗る人よ。それが本当かどうか証拠を見せて下さい、でないと安心して乳を飲むことも出来ません」などと答えるだろうか?あらゆる人の輪の中心に、神の授けたもう精神の味覚が存在する。この味覚の証しとなるのが、預言者の、御顔と御声という奇跡である。人の輪の外側から預言者が一声叫べば、人の世の内側から魂が賛美もてひれ伏す。

3600. 何故なら人の世にあって、魂はこれと同じ叫びを耳にしたことが無かったからだ。魂は知るのだ、その未知なる者の叫びが、かつて神の舌から聞いた「われは近くにいる(コーラン2章186節)」と同じ響きを持つことを。