イブラーヒーム・イブン・アドハム ー 神よ、彼のいと高き魂を聖なるものとなしたまえ ー による海辺の奇跡

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

イブラーヒーム・イブン・アドハム ー 神よ、彼のいと高き魂を聖なるものとなしたまえ ー による海辺の奇跡

3210. 我らがシャイフ、アドハムの子イブラーヒームについて。語られたところによると、その時、彼は一日の旅路を終えて海辺に座り休んでいた。彼はスーフィーの外套を繕っていた。すると、海辺を散策していた一人のアミールが、不意にその場へ現れた。そのアミールは、かつてシャイフ ー 放浪の身となる以前の、王子であった頃のイブラーヒーム・アドハム ー に仕えていた者の一人だった。すぐに彼の正体を見抜き、深々と一礼した。それから、改めてシャイフの身なりを見て驚いた。彼のまとうスーフィーの襤褸に ー 彼の本質も、彼の姿かたちもすっかり変容を遂げていた。愕然とする他はなかった。あのような偉大なる王国を捨て、このような精神の謙譲を選び取るとは、一体何ということだろう。

3215. 七つの土地にまたがる王国を捨て去り、王座を捨て去って、手にしたのはスーフィーの外套。そしてその外套に、物乞いがするごとく針を突き刺すとは。 ー シャイフは、そうした(アミールの)心の動きを察知した。シャイフはあたかも獅子のよう。そして人々の心は、獅子に属する密林のよう。彼(シャイフ)は彼らの心に入り込む、希望や恐怖がそうするように。この世の秘密も、彼に対しては明かされる。おお、未熟な人々よ。あなた方の心の動きに目を凝らせ、ことに聖なる者、聖なる師の前に立たされている時には。現世に囚われた人々は、形式を整えることに躍起になる。彼らにとり、敬意とは外側に現れる姿かたちに関する事柄である。それもそのはず、彼らに対し、神はその秘密を隠したもうのだから。

3220. しかし心の人々にとり、敬意とは内側において示されるものである。彼らは、心によって神秘を知覚しているのである。あなた方はその逆だ。現世における地位を、居場所を得ようと、精神の領域については全く見る目を持たぬ輩に敬意を示し、屋敷へと出向いて門口に座る。それでいて、見る目を持つ者の前では傲慢な態度で振る舞う。そのようにして、自らを欲望の炎にくべる薪とする。精神の知覚も、導きの光も持たぬ者であれば仕方がない。せっせと顔を洗い、世辞に磨きをかけ続けるがいい ー 見る目を持たぬ者のために!そうやって手入れをした顔に、泥を塗られるがいい ー 見る目を持つ者の眼前で!傍若無人に振る舞うがいい、自らの放つ悪臭にも気付けぬままに!

3225. シャイフは、手にしていた針を素早く海へと投げ入れた。それから、大声で針を呼ばわった。すると無数の、神の魚たちが水面へと集まった。魚たちは、それぞれ口に黄金の針をくわえ、神の海から頭をのぞかせて言った、「受け取って下さい、おお、シャイフどの、神の針をお持ちしました」。彼はアミールの方を向き、語りかけた、「おお、アミールよ。尊ぶべきは心の王国であろうか?あるいは、私がかつて所有していた王国を卑しむべきか?これ、このような奇跡には何の意味もありはしない。外側に顕われるしるしに過ぎぬ。内なる聖跡に入れ。そして待て、そこに顕われるものを目にする時まで」。

3230. とえ庭園を訪れたところで、持ち帰ることが出来るのはせいぜい枝の一本に過ぎない。庭園も果樹園も、丸ごと持ち運ぶことなど出来はしない。ましてやそれが、あちら側の庭園ならば ー その葉の一枚一枚が、こちら側の空ほどの庭園ならば。否、むしろこちら側こそが枝葉である。あちら側こそが種子の核。こちら側はその殻に過ぎない。かの庭園へと道を急ぐ者もあれば、そうでない者もある。急ぐ理由が無いなら無いで、せめてもう少しでも芳香を求めるよう努めよ。風邪を治せ。鼻をかめ。そうすれば、自然と芳香を嗅ぎ分けられるようにもなろう。魂が、芳香の漂うところへと惹き付けられるようにもなろう。がてはその芳香が、光となってあなた方の目に宿るようにもなろう ー 芳香(による開眼)のために、預言者の一人、ヤコブの子ヨセフも言っている、「私の上衣を、父の顔に投げかけよ(コーラン12章93節)」と。

3235. この芳香を愛したが故に、アハマド(ムハンマド)は説教において常々こう語った、「わが目の喜び、わが目の光は、礼拝の祈りの裡に在る」と。精神の五感は、その一つひとつが互いと結び付いている。五感の全てが、同じひとつの根を共有している。感覚のうちひとつが鍛えられ力を増せば、その力は他の感覚にも行き渡る。感覚同士、互いに互いの酌人となり、それぞれの杯を満たし合う。ものごとを見る目が養われれば、発せられる言葉の力が増す。言葉を解する耳が養われれば、見る目もますます鋭くなる。中でもとりわけ識別の力、ものごとを見通す力は、全ての感覚を目覚めさせる。より鋭敏にし、より聡い働きをもたらす。それ故に、識別力、判断力といった精神における知覚は、全ての感覚に共通して必要不可欠なのである。


不可視の領域を見通す光によって、神秘主義者が目覚めるとき

3240. 感覚のひとつが、成長するに従って自らを繋ぐ鎖を断ち切るとき、残りの感覚全てもまた変化を遂げる。感覚のひとつが、知覚では捉えられないものを捉えたとき、不可視の領域は残りの感覚全てにも明らかとなる。羊の群れの中から、一匹でも川を越える者があれば、残された群れも一匹、また一匹と順番に川を超えてゆく。あなた方の羊 ー 感覚という名の羊 ー を、牧草地へと連れてゆけ。「牧野を現される御方(コーラン87章4節)」に属する処で、あなた方の羊に草を食ませよ。ヒヤシンスと野バラを食べさせよ ー そうするうちに、緑したたる真理の草原に至る道を見出すだろう。

3245. 感覚の全てが、互いに互いを導く使者となり、やがてひとつ残らず楽園へと導かれよう。感覚の全てが、あなたに秘密を告げるようになるだろう ー 言葉も、意味も、暗喩も直喩も用いること無しに。「意味」なるものを厳密に追求すれば、異なる解釈の余地が生じる。推量も、度が過ぎれば無益な妄想の原因になる。だが内的な感覚によってじかに会得した真理には、何ひとつこれに干渉し得ない。全ての感覚があなたに従い、全ての感覚をあなたが御するとき、諸天もあなたの命ずるところを拒めない。

3250. 外殻の所有者としてふさわしいのは誰か?議論するまでもない。核心を所有する者にこそ殻は従う。一山の藁の、真の持ち主は誰か?討論するまでもない。小麦を所有する者は誰なのかを考えれば良いことだ。諸天が外殻なら、精神の光は核心である。こちらは視覚で捉えられる。あちらは秘され隠されている。だが案じるには及ばない。うろたえることはない、この身体は表わされており、その精神は隠されている。この身体は袖のようなもの、その精神は袖に覆われた腕のようなもの。知性は、更にその奥深くに隠されている ー 知性に辿り着くよりも、精神の動きを感じ取る方が、あなたの意識には容易かろう。

3255. 動きを感知できたなら、知れ、動くものとはすなわち生けるものである、ということを ー だが時として、あなたには察知できない動きというものもある。あなたが未だ知らぬ知性を得ている者の動きがそれである。その者の、実際の行為を目にしない限り、あなたにはそれが何かを知ることは出来ない。会得した知性を行為に移すということは、銅を黄金に変化させるようなもの。それはまさしく知の錬金術である ー 行為が成就し、それが理に適っているのを目にして初めて、あなたはその行為の背後に知が隠されていたことを感得する。そして知性の、更に奥深くに隠されているのが天啓の霊知である。それは不可視の領域に属する事柄である。アフマド(ムハンマド)の知性は、誰に対しても開示されている。しかし彼の、天啓の霊知については、全ての魂がこれを感知出来るわけではない。

3260. 預言者の精神から生じる行為には、理性に合致するものもあれば、そうでないものもある。理性は霊知に遠く及ばない ー 魂は、理性では捉えきれぬほどに高い処にある。合理を旨とする者は、霊知を旨とする者の行為を狂気として解するだろう。あるいは、目を逸らし視界から消し去るか ー いずれにせよ、自らもまた霊知の者となり、消え去る他に解するすべは無い。たとえば、モーセとハディルをご覧。モーセの知性は、ハディルの行為に戸惑うばかりだった。ハディルの行為は、モーセの目は不可解なものと映った。モーセは、ハディルが得ていた霊知の階梯には及ばなかった。秘匿された霊知が相手では、あのモーセの知性でさえ手も足も出せなかったのだ ー で、あるならば、読者諸賢よ。あちらこちら、齧り散らすだけが取り柄のネズミの知性など、一体どれほどのものであろうか?

3265. 陳腐な知識は売り買いのためのもの。従順に様式をなぞり、せっせと自らを売り込み、買い手がつけば万々歳だ。幾度となく試しを受け、それでもなお残る経験知ならばその買い手は神である。流行りすたりとは無縁のこの市場、常に輝きにあふれている。(真の知識の)売り手の唇は閉ざされている。自らの商いに陶然としている。後から後から買い手が現れるのだ ー 何しろ、「購いたもうは神(コーラン9章111節)」なのだから。天使たちはアダムから教えを買う。悪魔たち、ジンたちには、手にするのを禁じられた教えである。「アダムよ、それらの名を彼らに告げよ(コーラン2章33節)」、教えを与えよ、神の秘密を解け ー 髪ひとすじも余さずに。

3270. 視野狭き者、次から次へと刺激を求めるばかりで、一つ処に留まる気概も無き者。そうした者を、私はネズミと呼んだのだ。ネズミは地(物的領域)を這う。彼らの居場所は地にある。地こそが、ネズミの生きる世界だから。彼らは本当に多くの道を知っている、だがそれも地の上っ面だけのこと。彼らはあらゆる方向へと穴を穿つ。ネズミの本性とは、ただ齧り散らすことにある。故に与えられる知性も、それ相応のものとなる。ただ単に齧り散らすだけの者に、どれほどの知性が必要だろうか。全能の神は与えたもう御方 ー ただし必要なものを。主は不要なものを与えたまわぬ。

3275. この世に住まうあらゆるものにとり、もしも大地が不要であったなら、万有の主が大地をお創りになることもなかったろう。宙に釣られて揺れ動くこの大地に、もしも山々が不要であったなら、御方は山々をあのように荘厳な姿で創りたもうこともなかったろう。天空が不要であったなら、御方は無明の底から七層の天空を連れ出したもうこともなかったろう。太陽も月も星々も、必要無くして、どうして無から有に転じるだろうか。で、あるならば「必要」とは、森羅万象にくくりつけられた引き縄である。人間は、必要に応じて手段を与えられている。

3280. 急ぎ求めよ、要せよ、おお、窮する者よ ー あなた方に必要なものとは何か。それを求めよ、恩寵の海が沸き立ち、雅量で溢れるように。公道をさまよう物乞いたち、苦しみに喘ぐ者たちは、彼らに降り掛かった災難を人々に示す ー 盲いた目を、動かぬ四肢を、やまいを、痛みを。彼らの窮乏を見て、人々の慈悲の心が目を覚ます。欲するものがある時に、「パンをくれ、パンをくれ。私は金を持っている。小麦も、晩餐をたっぷり乗せた盆も持っているぞ」と言う者があるか?神はモグラに目を与えたまいはしなかった。何故なら彼らは、糧を見つけるのに目を必要とはしないから。

3285. モグラは、目も視力も無しに生きてゆける。湿った土の下、目に頼ること無しに生きてゆける。盗みを働くのでも無い限り、決して地上へ出ることもない。いつか創造の御方は、彼らから泥棒の気質を取り除きたもうだろう。そうして浄められた頃、彼らは翼を得て鳥となり、空高く飛んで神を讃えるだろう。神への感謝の薔薇園で、一瞬たりとも途切れることなく美しい調べを歌い上げるだろう、ナイチンゲールのように ー 「おお、悪しき気質より我らを解き放ちたもう御方よ!地獄を楽園と為す御方よ!

3290. 一塊の脂に光を点したもう御方よ、欠ける処無き唯一の御方、骨片に聴覚を与えたもう御方よ」。これ、この「視覚」「聴覚」なるもの ー これらと肉体との間に、一体いかなる連関があるのか?ものごとの性質、実体と、それらの名前との間に、一体いかなる連関があるのか?言葉は巣のようなもの、意味は鳥のようなもの。肉体は川床のようなもの、精神は流れる水のようなもの。それ(水)は動く、だがあなた方は動いていないと言う。それは流れゆく、だがあなた方は留まっていると言う。大地の裂け目、岩と岩との間を、水が走るのが見えないと言うのか ー 実際にはそれは動いている ー 水の上に浮かび、運ばれてゆく小枝も、藁くずも見えないと言うのか。

3295. 小枝、藁くずとは思考の断片。絶えず新たに生じ、繰り返し流れてゆく。思考の流れの水面は、流れ続ける限りにおいて、小枝や藁くずもまた運ばれ続ける。心地良い水面もあれば、目を背けたくなるような水面の場合もある。時たま、何かの殻が流れてくることがある ー 目には見えぬ庭園の、果実の断片。殻を見つけたなら、その核も必ずや見つかる。探せ、水面ではなくその水源を、庭園を探せ。何故ならこの水は、あちらの庭園からこちらの川床へと流れついたのだから。もしもこの命の水の流れが見えないのなら、流れの中を見よ、水草の動きに目を凝らせ。水量が増せば増すほど流れもまた早くなる。流れが早くなれば、殻、すなわち創意もますます早く流れ去る。

3300. 川が、水の流れが最も大きく早くなる頃、神秘主義者の意識には、不安も未練も残りはしない。満ち足り、かつ鋭敏な状態 ー そこには、もはや水の他には何ひとつ入り込む余地がない。


シャイフを侮辱した門外漢と、弟子の問答

ある男がシャイフを非難して言った、「やつは邪悪だ。正道を歩む者ではない。酒飲み、偽善者、極悪人だ。そんな男に、どうして弟子を救うことなどできようか」。すると弟子の一人が答えた、「慎め。敬いたまえ。

3305. 偉大なる人に対して、そのような邪念を差し向けるのは只事ではないぞ。高きにある者、聖化された者なら、その澄みきった精神が罪の泥で汚されることも無い。神に仕える者に対して、根拠無き悪しき言いがかりを投げつけるのはやめよ!おまえは、おまえ自身の妄想を語っているに過ぎぬ。改心せよ。おまえの言葉は真実ではない。仮に真実だとして、おお、家禽のごとく囲われし者よ、屠られるのを待つばかりの者に、紅海を害することなどできようか?シャイフは『水差し二杯か、桶一杯か』をはるかに越えておられる。ひとしずく足りない、と大騒ぎする程度の者とはわけが違うのだ。

3310. アブラハムである者を、炎が害することはない。忠告なら、ニムロードである者に対してするがいい」。欲まみれの自我はニムロード、知性と精神は神の友(アブラハム)。自我の者は証拠やしるしを求めずにはおれない。だが精神の者は既に解を得ている。道しるべは、道に迷う者のためにあるもの。いつの世も、砂漠に迷い込む旅人は大勢いる。だがすでに得るべき解を得ている者は何ひとつ必要とはしない ー 心眼に宿る光と、直観のランプの他には何も。道しるべにこだわることも無ければ、どの道を行こうか、などと案ずることもない。うした人々、(神との)知己を得た者が、仮に道しるべを残していったとしたら、それはおしゃべり好きな論説屋たちへの置き土産のようなもの ー しるしを解釈することで、知に至ることもあろうかと考えてのこと。

3315. たとえ父親が世界を知り尽くしていようと、それを赤ん坊に披露したところで何になろうか。学識豊かな教師でも、初めて学ぶ子供たちにはまずはアリフから教えるものだ。そのとき教師が「アリフは何も持たない」と言ったところで、その学識が減ったわけではない。舌足らずな者(子供)たちに何ごとかを教えようというとき、教える側にいる者たちは、自らの舌を捨て去らねばならぬ。自らのコトバを離れ、教わる側のコトバに合わせねばならぬ ー 教わる側にいる子供たちが、子供たち自身の力量において学び、知を得られるように。全ての人々は、その精神における導師の子供たちのようなもの。これについては、ひとにもの教えようという導師なら、いつでも心に留めておかねばならぬ。

3320. 信じぬ者には限界があり限度がある。だかシャイフと、シャイフの光にはそれがない。無限の前には、有限など無に等しい。「全ては消え去る、神の御顔を除いては(コーラン28章88節)」。信も不信も、かれ在る処では無に帰する。かれという核心の前には、それらは二つながら色に過ぎず殻に過ぎぬ。どちらも御顔を覆う儚きヴェイル、まるで升の下に灯明を置くかのよう。ならばこの身体に乗せられた頭とは、あの(精神の)頭、神秘を感知する意識を遮る幕ではないか。あの頭の前には、この頭は不信の徒ではないか。

3325. 不信の者とは何か?シャイフの信仰を忘れる者である。死せる者とは何か?シャイフの、精神の命を知らぬ者である。精神の命とは、試練に遭ってそれを試練と知る知に他ならぬ。この知を得れば得るほどに精神の命も増す。我らヒトの精神がケモノのそれに優るのも、全てこの知あるがゆえである。天使たちの精神が、われらのそれに優る所以がこれである。彼らは、われらヒトが得ている「ふつうの」感覚に囚われるところがない。そして天使たちの精神に優るそれを得ている者、それが神秘道を歩む者たちである ー うろたえるな!驚くにはあたらない。

3330. 彼ら天使たちが、アダムに平伏した理由がまさしくこれ(コーラン38章71,72節)。彼(アダム)の精神は、彼ら天使たちのそれよりもはるかに偉大だったのである。そうでなくて、どうして彼ら天使たちが、アダムに平伏するよう命じられただろう?より優れた者が、より劣る者に平伏するよう命じられるなどということでは筋が通らない。創造の御方の裁量と慈悲は、薔薇の花に対して、棘に仕えよなどと命ずるだろうか?(完成された聖なる人の)精神は、常人や天使たちが到達し得る限界をはるかに超越する ー あらゆるものの魂はその前にこうべを垂れて平伏する、鳥も魚も、ジンもヒトも ー 何故ならその精神が高きにあるから。それに比べて、こちらのそれは低きにあるから。

3335. 聖なる者の外套のために、魚は針をこしらえてその後を追う、針の後を追う糸のように。


イブラーヒーム・イブン・アドハム ー 神よ、彼のいと高き魂を聖なるものとなしたまえ ー による海辺の奇跡の結末

シャイフ(アドハム)の命ずるがままに魚たちが集まって来るのを目の辺りにして、アミールは恍惚となった。彼は言った、「ああ、魚たちは導師を知っている!あなたは何ということをしたのか、聖なる道を切り拓きし者よ!魚ですら、導師の何たるかを心得ているというのに。我らの、何と遠く離れ去ったことか!我らは愚かであったがゆえにこの幸運から遠ざけられ咎められ、彼ら魚たちは祝福を享受するのだ」。彼は深々とその場で一礼した。それから、悲痛な面持ちで涙を流しつつその場を去っていった。燃え盛り始めた愛の熱を抱いて ー 彼は探した、神と相見えるための扉が、何処かで彼のために開いていているのではないか、と ー

3340. さて、あなた方は?汚れた顔のままの者たちよ、あなた方は何処へ往くのか。あなた方は何を為すのか。誰かと争うのか。それとも、誰かを妬むのか。あなた方は獅子の尾と戯れ、天使たちから略奪せんと目論み、純粋なる善に向って悪態を吐く。用心せよ!そのような卑しき振る舞いが、あなた方を偉大にするだろうなどとは夢にも信じてはならない。悪とは何か。それは(善に)乏しく劣った銅である。では導師とは何か。それは永遠の錬金術である。たとえ銅が、錬金術によりその本質を黄金に転ずること叶わなかったとしても、銅によって、錬金術の本質が銅に転ずることはない。

3345. 悪とは何か。炎の如く振る舞う反逆者である。導師とは何か。永遠の海原の顕現である。火は常に水を恐れる。水が火を恐れたことがあっただろうか?あなた方は月を見ればその表面に疵を探し、楽園を見ればその中に棘を集める。棘の蒐集家よ、楽園に入ったなら、自分の他に棘など無いと知れるだろうに ー ほんの一片の藁が舞えば太陽が消えたと言いつのり、完全なる満月にさえ欠落を探そうとする者よ。

3350. 世界中を照らす太陽を、どうして蝙蝠が隠しおおせるものか。導師の承諾無ければ罪は咎となる。神秘は導師の配慮によって隠蔽される。たとえ遠く離れようとも、せめて敬意だけは捨て去るな。用心せよ、悔悛せよ。そうすれば、涼風もあなた方に向ってそよぐだろう。慈悲の水を、嫉妬で干上がらせるような真似はするな。たとえ遠く離れようとも、離れた処からでも尾を振れ、「どこへあってもその顔を向けよ(コーラン2章144節)」。

3355. ロバが駆け足で走りざまに泥へ落ちれば、ロバは起き上がろうと必死で動く。泥の中は、居続けるには不快な場所、居続ける場所ではないことを知っているのだ。あなた方の判断はロバにも劣る、あなた方の心は泥の塊を離れようとはしないのだから。泥の中に居続けることの不快を愚痴り、それを以て償いに変えようとする。実際には、心を泥から引き離したくないだけなのだが。抗いきれぬ何かによって、自分はこうして泥の中に居ざるを得ない ー このように解釈して泥の中に安住する。「私にはこれが相応しい。何しろ、そのように定められているのだから仕方がない。神はお優しい方だもの、私のような哀れな者を罰したりはしないだろう」。

3360. 実際には、神は既に罰を下したもうたのだ。だが自己欺瞞より生ずるハイエナゆえ、目は塞がれてその罰が見えない。猟師たちの声が聞こえる ー 「ここにハイエナはいないぞ。外を探そう、洞窟にはいないようだから」。彼らの言葉が、ハイエナをいっそう洞窟の奥に縛りつける。しかしハイエナはそのことに気付かない。否、気付けずにいる。そして欺いているのは自分の方だと思い込む。「あいつらは、おれがどこにいるのか分からずにいる。知っていたら、『ハイエナはどこだ』などと叫ぶはずがないだろう!」。


「神は私を咎めない」と言った男と、シュアイブの返答

シュアイブの時代のこと。ある一人の男が言った、「私が犯した多くの罪を、神はご覧になっている。

3365. 一体、いくつの罪と禁とを私が犯すのをご覧になったことやら!だが神はその慈悲により私を罰せずにおられる」。これに応じ、いと高き神は秘匿の道を通じてシュアイブの耳にはっきりと告げたもう。「彼に言え ー おまえは、自分がどれほど多くの罪を犯しても、神は慈悲により自分を罰せずにいる、と言った。おまえは真実とは全く逆の、反対のことを言っている。愚か者よ。おまえには、もはや惑いの道の他には何ひとつ残されていない。一体、われが幾度おまえを罰してきたことか、おまえは何ひとつ見なかったのか。今やおまえは、頭のてっぺんから爪先まで鎖に縛られている。

3370. 錆の上にも錆を重ねたその顔を見よ、おお、黒ずんだ壺よ。錆の層はおまえの心に沈潜した。そしてその錆ゆえに、おまえの心は魂の秘密から遮られた」。真新しい壺に煤がついたなら、それが大麦一粒より小さかろうが、はっきりと目立って見えただろう、何故ならそれらは正反対だからだ。しかし汚れきってすっかり黒ずんだ壺なら、その上に煤が一片重ねられたところで気付く者はいないだろう。

3375. エチオピアの鍛冶屋なら、煤の色は彼の色だ。だがギリシアの鍛冶屋なら、煤がつけばまだらとなる。彼はたちまちのうちに気付くはずだ。それと同じこと ー 常日頃より磨きあげていれば、どれほど小さな罪であろうがその影響にすぐに気付けたはず、そして「神よ!」と嘆いたはず。だが(罪に)執着し、悪に悪を重ね、瞑想の瞼に砂を投げ続ければ、もはや彼の脳裡を悔悟がよぎることも無くなる ー そうやって、最後には信仰を失うのだ。

3380. 悔悟が、「主よ!」の嘆きが、彼を見捨てて去ってゆくのだ。やがて五層に重なる錆と埃が、彼の心の鏡を覆うようになる。重なった錆は鏡を腐食して光沢を奪う。どんよりと曇った世界が映し出されるようになる。まっさらの白い紙なら、何が書かれているのか一目ではっきりと読めるだろう。だが既に何ごとか書かれた使い古しの紙の上に書いたなら、何が書かれているのか分からず文字を読み違えるだろう。ひとつの文字の上に、もうひとつの文字を重ねて書いたなら、それはただの汚れだ。最初に書かれたものも、後から書かれたものも意味を為さなくなる。

3385. その上に、更に三度めの文字を書いたなら、それが闇のごとく暗き信じぬ者の魂だ。一体、それのどこが「赦し」だと言うのか。一体、其処にいかなる救いがあるのか ー 救済の御方、神に助けを乞わぬ限りどうして救われ得ようか?失意が銅なら、それに対する錬金術が神の返報だ。あなた方の失望を御方の前に差し出せ、癒せぬ苦悩から逃れるために。こうして、深遠の言葉をシュアイブが語って聞かせると、彼の心の中に精神の風がそよぎ薔薇の花を咲かせた。彼の魂は音無き天上の声を聞いた。だがそれでも尋ねずにはいられなかった ー 「既に私を罰したと言うなら、どこにその証拠があると言うのか!」。

3390. シュアイブは叫んだ。「おお、主よ!彼は異議を唱えております。罰のしるしを欲しております!」。すると答えがあった ー 「われは犯されし罪を覆い隠す者。彼の秘密を暴き立てるようなことはしない。だがそれとは別のしるしを与えよう、彼を試みるためにも。わが罰のしるしとはこうだ ー この先、彼は敬虔な者のごとく振る舞うだろう。斎戒と祈願を行うようになるだろう。定められた礼拝、喜捨、その他の諸々を。だが彼は、精神が放つはずの芳香を一抹たりとも持ち合わせることがないだろう。どれほど徳高き振る舞いと美しき儀礼を行おうとも、彼の魂は何の喜びも感じぬことだろう。彼の崇拝は、その形だけは整うだろう。だが中身を伴わぬものとなろう。

3395. 多くの胡桃が実るだろう。だがどれも殻ばかりで、肝心の実は入っていないことだろう」。信仰が果実だと言うのなら、そこには魂の風味があるはずだ。魂の風味無き果実など、どうして信仰と呼べようか。果実には種子が無くてはならぬ、そうでなくては木々も育てられぬ。種子無き空っぽの果実に、どうして木々を生み出せようか? ー 魂なき器など、単なる妄想に過ぎぬ。


シャイフを侮辱した門外漢と、弟子の問答の結末

恥知らずの中傷者は、シャイフについて愚かな罵詈雑言を並べ立てた。嫉妬にかられた者というのは、常に物事を斜めに見てねじ曲がった理解を示す。「おれは見たぞ、彼が反逆者どもといるのを。彼は不純で、敬虔さに欠けている。

3400. 信じないなら、今夜そこへ行け。おまえのシャイフの堕落っぷりが見られるだろう」。その夜、男は弟子を連れてその場所へ行き、窓の外から覗くよう促した。そして言った、「見るがいい、大したお楽しみの様子を、この放埒を!あの昼の偽善と、この夜の堕落の凄まじさときたらどうだ。昼の間はムスタファ(ムハンマド)のように振る舞うくせに、夜ともなればアブー・ラハブだ。昼の名前はアブドゥッラー(神のしもべ)、夜の名前は…、神よ、ご加護を!そして、見ろ、彼の手に握られた葡萄酒の杯を!」。弟子はシャイフの手に満たされた杯が握られているのを見た。「おお、シャイフよ」、彼は言った、「悪徳は、あなたの中にさえもあるというのか。

3405. 「葡萄酒の杯には悪魔が放尿する」と言ったのは、あれはあなたではなかったか」。するとシャイフが答えて言った。「いやはや。こうもなみなみと注がれてしまっては、悲嘆の種子など、一粒も入り込む余地がない。さ、見るが良かろう。一体、これのどこに隙き間があると言うのだね。迷妄の只中にある者は、何を見ても悪しく解釈するものだ」。表象の酒杯、表象の葡萄酒から離れてものを見よ。不可視を見抜くシャイフの威厳から離れてものを見るな。葡萄酒の杯とは何か?それはシャイフその人自身である。シャイフその人自身の本質に、おお、愚か者よ、悪魔の尿が混じることなど出来はしない。

3410. 彼という名の杯は、神の光で満ちている。肉体の杯は粉々に砕かれ、もはや完全に純粋なる光そのもの。太陽の光が汚濁の上に注がれようと、光は光、汚されたと言うにはあたらない。シャイフは言った。「実際には、これも杯にはあたらずその中身も葡萄酒ではない。愚か者め、来るがよい、そして見るがよい」。彼が入ってそれを見ると、中身は上質の蜜であった。哀れな敵対者は恥辱と困惑に陥って狼狽した。そこへ導師が弟子に言った。「賢き者よ、立派なお大臣どのよ。わしのために葡萄酒を探して持ってきておくれ。

3350. 苦しくてかなわん、酒でも飲まねば収まらぬ、飢えるよりもなおつらい。迫られて止むを得ない者には不法も合法じゃ(コーラン16章115節)。これを否定する者あれば、その頭上に呪詛の埃降り掛からん!」。そこで弟子は酒場を一巡し、導師のために全ての壺を試した。ところがそこには葡萄酒はなかった。どの壺も、純粋な蜂蜜で満たされていたのである。彼は言った、「おお、酔漢ども。これは一体どうしたことか。何が起きたのか。酒などどこにも見当たらぬ」。

3355. 酔漢たちはシャイフの許に駆け寄り、泣いて自らの頭を打ちつつ、「高貴なるシャイフよ!あなたの仕業だ!あなたが酒場に来れば、酒も蜜に変わる。不浄も清浄となる。頼む、我らの魂も浄めてくれ。あらゆる汚れを取り除いてくれ」。 ー もしもこの世が淵の淵まで血に満ちているなら、神のしもべは何をどのように飲めばよかろう?授かったもののみで生きるには、どう振る舞えばよかろうか。

 


イブラーヒーム・イブン・アドハムについて、諸々からの引用集

アダムについて、当該箇所とそれに続く詩句における「アダム」とは、人類の始祖であり預言者として知られるアダムに、神秘主義者の文脈に沿った解釈を施した「完全なる人間」の象徴としての「アダム」と理解するのが妥当と思われる。

「水差し二杯か、桶一杯か」 ムスリム達が礼拝の前に行うウドゥ(浄め、洗浄)に最低限必要とされる水量を指す。シャイフは浄めようと思えばいくらでも浄められるほどの水を持っている、故にシャイフが不浄の状態になることは無い、というほどの意味でこの言葉が持ち出されている。

「アリフは何も持たない」 アリフはアラビア文字の最初の1文字であり、アルファベットのaに相当する。アラビア語の文字の中では、唯一母音としての音のみを持つ文字である。

「升の下に灯明を置く」 マタイによる福音書5章15節を典拠とする句。イスラム教は、その教義においてイエスを預言者の一人として捉えており、また福音書(インジールと呼ばれる)を彼に下された啓典と看做す。

シュアイブ コーランに登場する預言者の一人。彼が遣わされたとされるマドヤンの地は、旧約聖書でいうミデヤンに相当する。