『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
ジョハーと、父の棺の傍で泣く子の話
子供がひとり、父親の棺の傍に自分の頭を打ちつけながら悲しげに泣いていた。「お父さん、どうして?あの人たちはお父さんを固い土の下に埋めて、一体お父さんを何処へ連れて行こうとしているの?あの人たちは、お父さんを狭苦しくって汚らしいところへ連れて行こうとする。敷物も無ければ、寝床も無いようなところへ。夜にともすランプも無ければ、朝に食べるパンも無いようなところへ。食べるものの、匂いもしなければ影もかたちも見当たらないようなところへ。
3120. きしまずに開く扉も無い。屋根に登ることもできない。逃げ出したくても、迎え入れてくれる隣人もいない。あなたの体は、人々の接吻を受けるのにふさわしい場だったのに。それなのにその体を、窓も無く暗い小屋に押し込んでしまうだなんて。こんなにみじめで狭苦しいところに閉じ込めるだなんて。あなたの顔も見えなければ、あなたの匂いも残らないだなんて」。こうして子供は、父の置かれたその場所についてひとつひとつ数え上げ、その両の目からは血のような涙を流し続けた。ジョハーは、子供の父に語りかけた。「ご立派な父御どのよ。神の御名において、人々はあなたの亡骸を、我らが館に運ぶだろう」。
3125. すると父がジョハーに返答した。「何を馬鹿なことを!」。「いやいや、親父どの」、ジョハーは言った、「それにはちゃんと理由があるのだ。あなたのお子が言ったことのひとつひとつは、間違いなく我らが館の特徴なのだよ。ひとつづつ、ご説明さしあげよう。そこには、絨毯も無ければランプもない。食べ物なんて、もちろんありはしない。扉は修繕されておらず、壁も屋根もひどいものだ」。自分勝手な者たちを見よ。彼らの特徴を数えれば、百でもいくつでも挙げられる。しかし彼ら自身には、自らの特徴は見えているだろうか?「館」、すなわち心だ。神の太陽が放つご威光の差し込まぬ心は、
3130. かつてのユダヤの民の魂のよう。暗く狭苦しく、慈愛あふるる王の、精神の味わいに欠けている。そうした心には、太陽の光も差し込まず、何かが入る余地も無ければ、そもそも開くべき扉もない。このような心に比べれば、墓の方がましというもの。さあ、「墓」から出て来い ー 閉ざされた心を、あなたの墓にしていてはいけない。あなたは生きている。あなたは、生ける者から生まれた者。楽しき者よ、好ましき者よ。こんなにも陽気なあなたが、そんな狭苦しい墓にいては息が詰まるだろう?あなたはヨセフだ、天に輝く太陽だ。洞穴から出て来い、監獄を抜け出せ。あなたの顔を見せてくれ。
3135. あなたの裡にヨナがいる。抑圧され、鯨の腹の中で呻き苦しんでいる。彼を解放する方法は唯ひとつ ー 神を賛美すること。もしも彼(ヨナ)が神を賛美せずにいたなら、復活の日が訪れるまで、魚の下腹が彼の監獄となっていたことだろう。賛美することで、彼は魚の下腹から解放されたのである。賛美とは何か?アラストの日を見よ、しるしはそこにある。精神が、意識が、神への賛美 ー 感謝するということ ー を忘却させてしまったのなら、その時は魚たち ー 預言者たち、聖者たち ー が為す賛美に耳傾けよ。神を見た者は、誰であれ神の有である。かの海を見た者は、誰であれかの海の魚である。
3140. この世は海のようなもの、体は魚のようなもの。そして魂は、夜明けの光を待ち望むヨナだ。神への賛美が、魚からの解放をもたらす。でなければ、魚の下腹でこなれて消え失せる。この世の海を、数多の精神の魚たちが泳いでいる。だが彼らがあなたのすぐ傍を泳いでいても、あなたには彼らが見えていない。魚たちはあなた目がけて泳ぎ近づいてくる。目を開け、彼らをしっかりと瞼に焼きつけろ。どうしても魚たちの姿が見えないなら、その時は耳を澄ませ、聞け、彼らが賛美しているのを。忍耐を学べ。賛美の核となるもの、それは忍耐である。
3145. 忍耐を身につけ習慣とすること ー それこそが真の賛美だ。あらゆる賛美のうち、忍耐ほどに価値ある賛美はない。忍耐せよ、それこそが苦痛からの解放、救済の鍵なのだから。忍耐とは、あちら側(の火獄)と楽園を繋ぐスィラートの架け橋のようなもの。威張り散らす醜い学者ほど、美しい小姓を連れているもの。あなたが学者を嫌って避ければ、小姓と相見える機会も失われる。美しい小姓と近づきになりたければ、学者とも親しく交わらねばならぬ。もろき心を持つ者よ、忍耐の深く快い味わいについて、あなたに何が分かるのか。チギルの民を目にしたことも無いのだろう ー 一度目にすれば、忍耐の意味が分かるだろう。
3150. 一目でそれと分かる競争を、名誉を、虚飾を人は喜ぶ。真実の人ならば、目には見えぬ愛のための戦を喜びとする。色を好む者の喜びは股間と直結している。悦楽も哀願も、彼らにとってはただ股間を満たすためだけにある。そうした思案が、彼らをより低き淵へと引き摺ってゆく。彼らがどれほど有頂天になっていようが、何も恐れることはない。彼らが知ったのはただ堕落への愛であり、それは「学んだ」などと呼べる代物ではない。彼らは鐘を打ち鳴らし、自分は高次へと駆けているのだと主張する。だが実際には、彼らは低次へと馬を走らせている。物乞いの振る旗印に、何を怯えることがあろうか?彼らは、ただ一口のパンを欲しているに過ぎないのだ。
ジョハー ジュヒー、ジョーハーなどとも呼ばれる。トルコでの呼び名は、現在ではナスレッディン・ホジャが一般的になっている。小咄、頓知話にしばしば登場する人物。参照
アラストの日 偽善者たちと、彼らが建てた倒錯のモスクの物語註2参照。
チギルの民 テュルク系の一民族の呼称。美男美女の多いことで有名。