忘恩の自惚れ屋たちについて

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

忘恩の自惚れ屋たちについて

預言者、聖者といった人々 ー 彼らの上に平安あれ! ー はまさしく神の恩寵のしるしである。ところがそれを忘れて自惚れた態度を取る者たちがいる。神の慈悲を声高に言いつつ、過誤について、罪について、石のごとく頑な心について、黒々とした魂について語る者がある。

3060. 御方の命ずるところを軽んじ、御方のもたらす明日を気にもせず、浮かれ女のごとく振る舞い、我欲の奴隷となって卑しむべき現世に愛着し、正しき者の顔を見ずに済むようこそこそと振る舞い、誠実な者の手厳しい批判から逃げまわる。精神と、精神を重んじる人々から遠ざかる。そして魂の王(聖者)に対しては、キツネのごとき態度で詐欺を働く。満足の状態にある聖者をつかまえて貪欲な物乞い呼ばわりし、心の中では密かに敵愾心と嫉妬の焰を燃やす ー

3065. 彼らは言う、「本心から満足しているなら、何を言われようが構わないはずだ」。評判高い聖者ともなれば、何でも受け入れるはずだとタカを括り、彼らは侮辱の言葉を投げる、「卑しき物乞いめ」。あてが外れると彼らは言う、「言い返すところを見ると、やはり悟っちゃいないらしいな。偽善者め、欺瞞の徒め、陰険な奴め」。聖者が世に交われば「貪欲な奴め」と罵り、世を捨てれば「高慢な奴め」と罵る。その上で、自らの偽善性については言い訳を用意する。「いやいや、私だってやろうと思えばやれるさ。しかし他にせざるを得ないことが山のようにあるんだよ。妻や子供らを養わないといけないし、痒いところを掻く暇も無いくらいだ。信仰にどっぷりつかっていられるような良いご身分じゃないんだよ。ま、そういうわけだから、ええと、どこの何という聖者だったかな。ひとつ私のことも祈っといてくれ、あんたの力で私も聖者になれるようにさ」。

3070. 批判するならするで真面目にやれば良いものを、彼らにはそうした一片の情熱も無ければ真剣味も無い。寝ぼけたままで寝言をほざき、再び眠りにつくようなものだ。「だってしょうがないだろう、働かなけりゃあやっていけない。きちんと法を守って生計を建てていくために、私は精一杯のことをしている」。合法だと?一体、そんな振る舞いのどこが合法だと言うのか。おお、道を外れた者よ。私の目には、おまえの血の他には何ひとつ合法なものなど見えない。糧無くしては生きられぬが、神無しでも生きられるのか。偶像無くしては生きられぬが、宗教無しでも生きられるのか。卑しき種々から自らを引き離せぬやつ、 この世無しでは生きられぬくせに、どうして「大地を打ち広げた(コーラン51章48節)」御方無しで生きられるなどと思えるのか。

3075. 快楽と華美を遠ざけられずにいながら、どうして恩寵豊かな神から遠ざかれたのか。あれは清らかだの、これは汚れているだの、いちいち事細かに裁かずにはいられぬくせに、そのいずれをも創りたもう御方から、よくもそこまで遠ざかれるものだ ー いったい、(神の)友はどこにいる?虚妄の洞窟から抜け出して、「これぞわが主(コーラン6章77節)」と言った者はどこにいる?注意深く見渡してみよ!全てを創りたもう創造の御方はどこにおられるのか?ある者は言うだろう ー 「私は二つの世を見ない、二つの世を統べたもう唯ひとつの御方を見る。私はふたいろに分けはしない、どちらをも統べたもう唯ひとつの御方を見る。神の下さったものとして見ること無しにパンを口に運べば、きっと私の喉に詰まってしまう」。

3080. 御方が見守って下さればこそ、一匙の食物もこなれるというもの。御方の薔薇と薔薇園を見ずに、どうして飲み食いなぞ出来ようか。神に希望を持たずして、どうしてこの世を生きられようか。牛かロバでも無い限り、どうしてこの沼を飲み干せようか。家畜のごとき者よ。否、道を踏み外した者よ(コーラン7章179節)。狡猾に満ち、悪臭を放つ者よ。その狡猾さがやがてその者自身を破滅に導く。狡猾も、その持ち主も真っ逆さまだ。ほんの少しばかりの時が過ぎ、やがて終わりを迎えよう。頭の中は空っぽ、心の中も空っぽ。まるでアリフの文字のように単純な一本線。人生の終わりに何もない、崩壊の他には何もない。

3085. 彼らは言う、「これでもちゃんと考えているんだよ」。またぞろ始まった、彼らの我欲が言わせる欺瞞だ。加えて彼らはこうも言う、「神はお許し下さるさ、何しろ慈悲深い御方だもの」。これに至っては、明らかに我欲が働く詐欺以外の何ものでもない。両手がパンで塞がっていない限り、不安で不安で仕方が無くなる者よ。何をそう不安がるのか。何をそう怯えるのか。たった今、自分で言ったばかりではないか ー 「神はお許し下さるさ、何しろ慈悲深い御方だもの」と。