偽善者たちと、彼らが建てた倒錯のモスクの物語

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

偽善者たちと、彼らが建てた倒錯のモスクの物語

2825. もうひとつ、他の話を聞かせよう。耳を澄ませて聞くならば、それがあなた方のためになろう。コーランに叙述されている、ひねくれ者についての物語である。偽善者達が、預言者を向こうに回して丁だ半だと歪んだ遊戯に興じていた。イブリースが、ムアーウィアに仕掛けたのと同じように。そして言った、「我らはモスクを建立しよう、ムハンマドの宗教の誉め讃えよう」。しかし実のところ、彼らが得ていたのは背信であった。彼らが建立したモスクは、実際には彼(預言者)のモスクなどでは無かった。彼らは、実に忌まわしい遊戯に溺れていたのである。床も、天井も、そして天蓋も、彼らは実に素晴らしきものを建てた。しかし彼らが望んでいたのは、共同体の分裂であった。

2830. 狡猾にも、彼らは預言者に哀れっぽく嘆願してみせた。彼らは、彼の前でにラクダのごとくひざまずき言った、「おお、神の御使いよ。どうかあなたの御慈悲をもって、あちらのモスクまでご足労頂きたい。あなたの訪れによって、その場所が終末まで祝福されるように。復活のその日まで、あなたの日々に栄光あれ!そのモスクは、暗雲垂れ込める日々のためにあり、喪失の痛み、失意の悲しみの日々のためにある。哀れな異邦人が慈善と隠れ処を得られるように、 ー そうした奉仕を受け取り、差し出す館なのだ。

2835. そうすれば、宗教の儀礼もますます盛んに富むことだろう。苦き困難も、友と分かち合えば甘きものとなる。ほんの短い間だけでも、あなたが訪問したとなればあの場所の誉れも増すだろう。私達の誠実さを、世に知らしめてくれ。私達が、善人であることを知らしめてくれ。モスクと、モスクの建立者達への好意を示してくれ。あなたが月なら、私達は夜だ。ほんの束の間でも、私達と共に過ごしてくれ。そうすれば、あなたの美によって夜も昼のようになるだろう、おお、夜をも照らす太陽のごとく美しき者よ」。ああ、そうした言葉の数々が、真に彼らの心から来るものであったなら!そうであったなら、彼らの望みは叶えられただろうに!

2840.  ー 友人達よ、心でも無く魂でも無く、舌によってはらわれる敬意など、灰溜めに埋もれた香草のようなものだ。近寄ることなく、ただ遠くから眺めるに留めておけ。それらは食べるにも、香りを楽しむにも値しない。不実な者の世辞になど近づいてはならない。何故ならそれは朽ちかけた橋だから ー 注意深く耳傾けよ。愚か者が一歩でも足を踏み入れれば、橋は壊れてその者の足をへし折るだろう。大軍を壊滅させるのは、常に少数の臆病者達である。

2845. 彼(卑怯者)は最前線の兵士のごとく武装する。それを見た他の兵士達は彼に信頼を寄せ、「彼こそは洞窟の同胞だ」と言い合う。しかし(戦闘が始まり)負傷を目にするとたちまち踵を返す。彼の振る舞いは、あなたを背後からうちのめす。 ー この話は長く広がる。従って解釈はまだ先の話となる。


彼らはまじないを ー 欺瞞の言葉を ー 神の御使いに向けて繰り出した。狡猾と策謀の馬を疾走させた。心優しく情け深い御使いは、言い返したりはしなかった。ただ微笑んで「なるほど」とだけ言った。

2850. 彼は、彼らが寄越した使いの者に感謝の意を示した。彼が示した賛同は、使いの者を喜ばせた。彼には、彼らの欺瞞は、まるで乳に浮いた髪のように余すところ無く明白であった。だが思いやり深いかのひとは、髪については見ぬふりをした。かのひとは、乳をのみ見て礼儀正しく「素晴らしい」と言った。虚偽と欺瞞の無数の髪を、はっきりと目に捉えたその時、彼はそれら全てに目を閉じた。恩寵の海のごときそのひとは、偽ることなく誠実に語った、「私は、あなた方にとってはあなた方自身よりも優しく情け深い。

2855. 私は炎の間近に座している ー はなはだ不快な火炎のすぐ傍に。そしてあなた方は、まるで蛾のように火炎に向かって先を争っている ー 私の両の手が、蛾を追い払う蠅たたきとなる間にも」。預言者が、(そのモスクへと)足を運ぼうと決めたとき、神の斟酌が叫んだ、「悪鬼に耳傾けてはならぬ!その邪悪な者どもは、虚偽と奸計を用いている。その者どもが差し出しているのは、真実とはまるで逆だ。彼らが意図するところとは、汝にどす黒い恥辱を与える以外には何もない。一体、かつてキリスト教徒やユダヤ教徒が、汝の宗教の繁栄を求めたことなどあったろうか?

2860. 彼らは、地獄への架け橋の上にモスクを建立したのだ。彼らは神を相手に、策略の遊戯を仕掛けたのである。彼らの目的は、預言者の胞輩の間に亀裂を生じさせること。虚栄心の強い愚か者に、どうして神の恩寵が理解できようか ー 彼らは、シリアよりとあるユダヤの民1を彼らの陣に招こうと企んでいる。かの者の説教は、ユダヤの民を陶酔させる。そのために、彼らはそのモスクを建立したのだ」。それで預言者は彼らに伝えた。「私はあなた方が望む通りに(そのモスクへ)行こう。だが今日ではない。これから、私は戦いに向かわねばならぬ。遠征から戻り次第、そのモスクへ向かうとしよう」。

2865. そのようにして、彼(預言者)はひとまず保留し、彼らを残して戦場へと急いだ。詐欺師を欺いてのけたのである。やがて彼が戦場から戻ると、彼らは再びやって来て、かつての約束を果たすよう求めた。すると神は彼に告げたもう、「おお、預言者よ、彼らの不実を暴露せよ!もしも戦う必要が生じたならば、その時は言え、『なるがままになれ』と!」。彼(預言者)は言った、「黙れ、虚偽の者どもよ!静かにせよ、あなた方が隠している意図を明かされたくないのなら」。彼らが奥深くに隠していた陰謀を、彼がひと言、ふた言明かすと、彼らはたちまち窮地に陥った。

2870. たちまち、彼らは預言者に背を向けて引き返した、「神よ、ご加護を!神よ、ご加護を!」と叫びながら。偽善者は誰しもがこのように振る舞う ー 誤摩化すために、その腕にコーランを抱えて。そうして、いそいそと預言者の許へとやって来る、何ごとかを誓うつもりで。彼らにとり誓いとは、ただ保身のためにするもの。邪悪な者にとり、誓いとは昔から生き存えるための手段に過ぎない。邪悪な者は、宗教においても誠実であろうと努めない。自らの誓いなど、いつでも破ってのける。正しき者なら、誓う必要など無い。何故なら彼らには、澄んだ両の眼が備わっている。

2875. 契約や誓約が破られるのは愚かさゆえである。神を畏れる者ならば、誓いを守り、自らの言葉に忠実であることが身の習いとなっている。預言者は言った、「あなた方の誓いを真実と取るべきか、それとも神の誓いをか」。再び彼らは、その手にはコーランを、その唇には斎戒の印をもって別の誓いを立てた、「神聖かつ真理たるこの御言葉の真実にかけて。我らは誓う、かのモスクを建立したのは、ただ神のためであると。かの場所には欺瞞の入り込む余地は無く、ただ神への想いと、誠実と、主への招きのみがあると」。

2880. 預言者は答えた。「私の耳に、神の御声がこだまのように響いている。神はあなた方の耳を封じたもう。それ故に、あなた方の耳は神の御声の方へと急ごうとはしない。本当に、神の御声は私の耳には明瞭に響く。濾過され、澱を取り除かれ、純粋そのもの御声が」。かつてモーセも、茂みの中から響く神の御声を聞いた、「おお、汝、祝福されたる幸運の持ち主よ!」と呼ぶ声を。茂みの中から、彼は(御言葉を)聞いた、「われは神なり(コーラン28章29,30節)」。そして御言葉と共に、御光が顕われた。

2885. しかし偽善者にとって、御光はただ彼らを困難の只中に放り込むものでしかない。そこで彼らは、再び誓いの上にも更に新たな誓いを重ねた。誓いは身の守りであると神が定めたもう以上、どうして論争の者どもが、自らの身の守りを手放すだろうか?預言者もまた、再び彼らを「嘘つき」と呼んだ。言葉を飾ることなく、きっぱりと言い切った、「あなた方は嘘をついた(コーラン9章107節参照)」。


彼らの願いが無惨にも退けられるのを見て、預言者の同胞の一人が、心中に穏やかならぬものを感じた。「彼らのような、白髪混じりの敬われるべき年長者を ー 預言者たるおひとが、彼らに恥辱を味わわせるとは。

2890. 寛容はどうした?罪とは、覆い隠すべきものではなかったか?他者への思いやりは、礼節は何処へ行ってしまったのか。いずれの預言者も、無数の過ちを庇っていたではないか」。しかしその後すぐに、彼は心の中で神に赦しを請うた。(預言者の振る舞いに)異議を唱え、自らが恥辱に陥ることを彼は畏れた。偽善者と友情を交わせば、それが堕落の一歩となる。真の信仰者も、彼らと交わればたちまち彼らと同じ邪悪な反逆者となる。繰り返し、彼は祈りつつ泣いた、「おお、深奥の意識を知る御方よ、私を不信から引き離して下さい!私の視覚と同様、私の心を制するのは私自身ではありません。私の意のままならば、今すぐにでも私の心を怒りで燃やし尽くしてしまうのに!」

2895. 彼がそう念じているところへ、眠気が訪れて彼を連れ去った。(夢の中で)、彼はかのモスクを見た。彼の目には、そのモスクは、糞便に満ち満ちていると映った。腐敗したその場所は、壁石のひとつひとつが堕落に侵蝕されている。壁石は、しゅうしゅうと黒煙を吹き上げていた。彼は煙を吸い込んだ。喉の奥に入り込んだ煙のおかげで、彼は我に返った。苦い煙に怖れおののいて彼は目を覚ました。すぐさま彼は顔を伏し、跪拝してすすり泣いた。「おお、神よ!これが彼らの不信のしるしですか。彼らに対しては、自粛よりもむしろ怒りの方がふさわしい。彼らのような輩を相手に、自らを信仰の光から引き離してまで寛容である必要があるものか。そのような寛容より、怒りを表明することの方がどれほど良いか」。

2900. 虚偽を追い求める者たちの行為をつぶさに観察してみるといい。一皮、また一皮と剥ぎ取るたびに、玉葱のように臭うのが分かるだろう。彼らのやることなすこと、どれを取っても脆弱で実りが無い。一方で、誠実な者たちの積み重ねる努力は、他の誰よりも優れている。彼ら(偽善者)は、クバーの民のモスクを破壊しようと、外衣の上から百の腰帯を締め(重装備を施し)た。象を従えたアビシニアの王侯のごとく振る舞い、カアバに神殿を築いたが、神はその場所へ火を投げ入れたもうた。復讐のために彼らはカアバを破壊しようと企てた。彼らの行いについては、神の御言葉(コーラン)の裡に学べ(コーラン105章3節参照)!

2905. 宗教を道楽とする浮かれた者ども。彼らが手にしている道具立てなど、実際のところはせいぜい狡猾さや嘘、裏切り、誤摩化し程度のものである。仰々しくそれらを身につけ、することと言えば難癖をつけたり、議論を吹っかけることばかり ー 飽かず論争に明け暮れている。(預言者の)同胞たちは、それぞれに(眠りの中で)かのモスクの、偽り無き光景を視覚に捉えた。隠されていた意図も、彼らには明白な確信として知らされることとなった。彼らが捉えた光景を、ひとつひとつ克明に語って聞かせたなら、疑念を抱く者たちの目にも、(同胞たちの)純粋さが明らかとなろう。しかしそれこそ、私が恐れることでもある ー 彼らの秘密を暴き、彼らの代弁者たろうと振る舞うなど、高慢な者のすることだ。彼らのような人々については、慎重にも慎重を重ねて語るべきだろう。彼らは神に愛された人々。庇護者は彼らであって我らではない。彼らは、粗製濫造された模倣と盲従に隔てられる事無しに、神からじかに法を授かった人々である。彼らは、試金石を用いる事無しに、純粋な貨幣を受け取った人々である。

2910. コーランの知恵こそは、真に信ずる者が探すべき失われた駱駝である。誰しもが、見失った何かをその中に見出すことだろう。


駱駝を探し求める者

あなたが駱駝を失ったとしよう。あちこち、駆けずり回った末にようやく見つけたとしよう。その時、それがあなたの駱駝かどうか、あなたに分からないはずがないだろう。失せものは何であったか?あなたが失ったのは雌の駱駝だ。あなたの許から離れて、隠蔽のヴェイルのあちら側へと逃げてしまった。カラヴァンの者たちは荷を積み始めたが、あなたの駱駝はカラヴァンの中から姿を消してしまった。あちこち、走り回って探したせいで、あなたの唇は乾き切ってしまった。今となってはカラヴァンもはるかに遠ざかり、代わって夜が近づいて来る。

2915. あなたの荷は地面に置かれたままだ。刻々と危うさを増す路上に、投げ出されたままになっている。あなたは駱駝を探して方々を走り、叫んだ、「おお、ムスリム達よ!今朝、厩舎から逃げ出した駱駝を見た者はいないか?私の駱駝について手がかりを知る者は、何でもいい、私に教えてくれ。知らせてくれれば、その御礼にたっぷりとディルハムを払おう」。あなたは、誰かれ構わず手がかりを尋ねてまわる。野卑な者どもは皆、揃いも揃って同じようにあなたを侮る。そして言う、「駱駝なら見たぞ、あっちへ走って行ったぞ。赤毛の駱駝だよ、牧草地の方へ行ったに違いない」。

2920. すると別の者が言う、「耳の切れたやつだろう?」。そしてまた別の者が言う、「刺繍の入った鞍を背に載せていたっけなあ」。更に別の者が言う、「片目の駱駝かい」。更に、更に別の者が言う、「ダニにやられて、毛が抜けていたぞ」。 ー こうしていい加減な者どもが、報酬欲しさにいい加減な見聞を、延々とあなたの耳に吹き込み続ける。


教理どうしの不調和がもたらす惑いと、惑いからの出口と救済について

目には見えない何かについて語るのと同じく、神の知識に関しては、誰しもがそれぞれに異なる語り口をもって語る。哲学者が、ある種の命題について見解を述べれば、別の神学者が彼の説を論破する。

2925. ある者は、そのどちらをもあざ笑う。またある者は、自分こそは真に神の知識を得た者、と売り込みに必死だ。もっともらしく振る舞い、そのために自らの首を絞める羽目に陥っている。誰しもが、自分こそはかの村に属する正統な者、と思われたがり、それぞれに「これぞかの村に至る正しき道である」と主張する。真実はこうだ ー こうした様々な者たち、彼らの全てが全て正しいというわけではない。しかしかと言って、彼らのような群れの全てが、完全に道を誤っているというわけでもない。何故なら真実無しには、どのような虚偽も示されようが無いからだ。愚か者が贋金をつかまされるのは、それが本物に良く似ているからだ。愚か者は、それが本物の金貨であると期待して贋金を買い求める。この世には、贋金ではなく本物の金貨も確かに存在している。でなければ、贋金作りの仕事も成り立ちはしない。

2930. 真実無くして虚偽は無い。虚偽は、真実が放つ輝きを、その名声を、その評判を盗み取ることで存在している。人々は、それが本物であると期待して偽物に手を伸ばす。たとえ毒が混じっていようが、砂糖だと言われれば砂糖だろうと期待してそれを口に詰める ー そのようにして、毒を食べることになる。もしも、口当たり良く食するに値する小麦を、見たことも聞いたことも無ければ、大麦を売る者が「これは小麦だ」と偽ったところで何を得られるものだろうか。 ー 言うな、全ては偽りだ、何もかもまやかしだ、などと。虚偽とは、真実への希求に根を張った、心を捉える罠である。言うな、全ては過誤だ、まぼろしだ、などと。この世に幻想がはびこるのも、真実がしかと存在するがゆえなのだから。

2935. 真実とは、その他無数の夜に紛れたカドルの夜(註:http://buff.ly/1aqsoh1 )のごときもの ー 一体、どの夜がその夜か?魂は夜毎に試される。年若き友よ。夜という夜の全てが、カドルの夜であるはずが無かろう。かと言って、夜という夜の全てが、カドルの夜では無いはずも無かろう。ダルヴィーシュの衣を纏う者の群れがあれば、そのうち一人くらいは真のダルヴィーシュだ。彼らを試せ。その上で、真実の者を受け入れよ。「聡明かつ、洞察力を備えた信仰者(預言者ムハンマドの言葉)」はどこにいる?優柔不断と真の雄々しさを、見分ける者はどこにいる?もしもこの世の品物が、全て完璧であったなら、たとえどれほど愚かであろうが、誰でもいっぱしの商人になれていたことだろう!

2940. 全てが完璧であったなら、価値あるものを見出すことなぞ雑作も無いだろう。瑕瑾が存在しなければ、鑑識眼などというものも不要になる。誰が無能な者か、誰が有能な者か、などと思い煩う必要もない。だが逆に、全て間違っている、全て欠陥があるとするなら、今度は知識など何の役にも立たない、となる。ここにあるのは全て同等の、どれも同じ木材だ、となってしまえば、伽羅の香木(価値あるもの)も消え失せる、というわけだ。「全ては真実である」、このように言う者はある意味において間違っている。「全ては虚偽である」、このように言う者は単なる愚か者だ。預言者たちを選んで取引をする者は益を得る。色や香りに(感覚に)惑わされ、現世の虚栄を選んで取引する者は、未だ目の開かぬ者、損を蒙って青ざめる。mar(蛇)は、あたかもmal(富)のように目に映る。あなたの目をこすり、よくよく凝らしてものを見よ!

2945. この世の取引、この世の利益から得られる幸福など考慮している場合か。むしろファラオの、サムードの破滅をこそ考慮せよ。


物事は全てよくよく試みよ、内側に隠された善と悪を見極めるために。美しく輝くあの空を見よ ー 神は告げたもう、「いま一度、汝、よく目をあげて見よ(コーラン67章4節)」。この光の天蓋を、たった一度きり見ただけで満足しているようではいけない。何度も、何度でも見るがいい。さあ、何か瑕瑾は見つかっただろうか(コーラン67章3節参照)。この善き天蓋を、御方は何度でも見よ、瑕瑾を見出すがごとく ー 何ひとつ見逃すな ー と命じたもう。それと同じような目をもって、我らは暗い大地をもまた隅々まで探求せねばならない。

2950. そして何かあれば、それを認めるべきか認めぬべきか、よくよく確かめねばならない。そのようにして分別を身につければ、やがては濁った澱から純粋なるものを引き出せるようになるだろう ー しかしそのために、我らの知性が耐え忍ばねばならぬ苦悩ときたら!冬と秋は試練の季節だ。そして夏の灼熱。春は生命に贈られる息吹。風、雲、雷光、それらは全て、あれとこれとの違いを知り、ものごとの分別を身につけ、認識の力を高めるために送り届けられている。やがてくすんだ塵の色した大地も、隠していた紅玉や貴石を、胸の奥底から差し出すようになるだろう。豊穣の海と神の宝庫から、この暗き大地がどれほど多くを盗み隠していることか ー

2955. 神聖なる統治者、神の摂理が告げる、「真実を語れ!汝が持ち去ったもの全て、髪の毛一筋たりとも漏らさずに明かせ」。盗人、すなわち大地が言う、「いえいえ、何も御座いません。何ひとつ持っておりません」。そこで統治者は大地を責める。時には砂糖のように甘く優しく語りかけ、時には吊るし上げてひどい目に合わせもする。権能と慈愛の狭間から、怖れと望みの炎をくぐり抜け、隠されていた何かが我らの視界に現れるように ー 春は全能の統治者が送り届ける慈愛である。秋は神の警告であり、脅威である。

2960. そして冬とは、隠れた盗人 ー すなわち我ら自身 ー が、隠し通そうと目論んでいた真実を明らかにするために訪れる、いわば心奥における磔刑である。 ー こうした精神の戦場へと立ち向かう者は、少しづつ、また少しづつ心の広がりを得る。時には歓喜と共に、時には辛苦と痛み、また悩みと共に。この泥、この水。我らの身体を形作るそれらが、同時に我らの魂から光を奪う盗人なのだ。人間よ、不屈の精神を持つ者よ!いと高き神は、我らの身体に灼熱を、極寒を、悲哀を、苦痛を、恐怖を、飢餓を、欠乏を、衰弱を味わわせたもう。それもこれも、全ては我らが魂の貨幣もて取引するよう導くため。

2965. 御方が脅威と約束とを共に差し出すのは、御方がその中に善と悪とを混ぜ合わせたもうたが故である。真実と虚偽は混在している。旅の荷袋には、良質な貨幣と悪質な貨幣、いずれもが等しく注ぎ込まれている。選び抜かれた試金石が必要だ、幾度となく試され、その度に確かな真実を告げてきた試金石が ー 欺瞞を見抜き、真の摂理、真の天命を見極めるための規範が。おお、モーセの母よ、彼に乳を与えよ!そして彼を水の流れに委ねよ ー 恐れることなく、彼を試練に委ねよ。

2970. 「Alastuの日」2に乳を飲んだ者なら誰であれ、乳とは何かを知っている、モーセが母の乳を知っているように。もしもあなたの子に分別の力を与えたいと愛もて望むなら、「乳を飲ませよ(コーラン28章7節)」、おお、モーセの母よ。彼が母の乳を知り、悪しき乳母の乳を求めずに済むように。


続・駱駝を探し求める者

おお、親しき友よ。あなたは駱駝を失った。そして誰もが、駱駝についての手がかりをあなたに与えようとする。あなたは、駱駝が何処にいるのかは知らない。しかし与えられた指標が、どれも誤りであることは聞けばすぐに分かる。

2975. 加えて、駱駝を失っていないにも関わらず、競い合うがためにらくだを捜し、本当に失ったかのように言う者がある、「私も駱駝を失ったんだ。誰でも、探し出してくれた者には報酬を与える準備があるぞ」。このように言っておけば、駱駝が見つかった時には所有権を主張し、駱駝の分け前を受け取れると考えている。他人の駱駝欲しさに、そうした欺瞞を働くのだ。もしもあなたが、誰かに向かって「その手がかりはでたらめだ」と言えば、駱駝を失ったふりをする者も、あなたを真似て同じことを言う。駝の、真の所有者でなければ、どの手がかりが正しく、またどの手がかりが間違っているかが見分けられない。こうした模倣者にとり、あなたの言葉は都合のよい手がかりなのだ。

2980. 正しい手がかり、それらしき手がかりが差し出されれば、「疑う余地なき(コーラン2章2節)」確信があなたの許を訪れる。確信は、あなたの痛む魂のなぐさめとなる。あなたの頬に血の色を与え、あなたの健やかさとなり、あなたを力づける。目は輝き、足取りも軽く、あなたの身体は生ける魂となり、あなたの魂は理性となる。あなたは言う、「おお、わが友人よ。あなたの言葉は真実だ。あなたが教えてくれた手がかりが、すっかり私を解き放ってくれた。『その中には、明白なみしるしがある(コーラン3章97節)』。これこそ真実の証明、これこそ救済の約定だ」。

2985. こうして手がかりが与えられると、あなたは言う、「さあ、先に立って案内してくれ。出発だ、先頭になって導いてくれ!私は後を追おう、おお、真実を語る者よ。私の駱駝の匂いを知っているのだろう?そこへ連れて行ってくれ」。しかし駱駝の持ち主ではない者、所有権を主張したいだけの者、競うためにのみ探求者を装う者は、たとえ正しい手がかりを与えられようとも、決してこうした確信を得られはしない。真の駱駝の持ち主、真の探求者の振る舞いを盗み見ることでしか、彼らは自らの振る舞いを決められない。真の持ち主が心から喜び、興奮している様子を見て、模倣者は、どうやら間違いなさそうだと感じ、彼の大きな叫び声を聞いて、作り話ではないらしいことを知る。

2990. 模倣者は、この駱駝について何ひとつ正当な権利など持ってはいない。 ー しかし彼もまた、駱駝を失った者なのだ。そう、模倣者とは喪失者だ。誰かの所有を欲しがり、他人の駱駝を欲しがる貪欲さがヴェイルとなって、自らが何かを失っていることを、すっかり忘れてしまった者なのだ。真の所有者が行く方へ、模倣者は後を追って行く。その貪欲さ故に、所有者の、喪失の痛みの片棒をかつぐ。ところが嘘をつく者が、正直な者と旅に出れば、嘘も突如として真実に変わる。駱駝が逃げたその砂漠で、模倣者も、彼の駱駝を見つけることになる。

2995. それを見て、模倣者は自分の喪失を思い出す。そして二度と、他人の駱駝を欲しがったりはしなくなる。自分の駱駝が若草を食むのを見て、模倣者は今こそ真の探求者になる。その瞬間、彼は初めて「駱駝を探す者」となる。砂漠に出かけ、実際にそれを目にするまで、本当は何も探してなどいなかったのだ。それから、彼は一人で歩き始める。しっかりと目を開いて、自分の駱駝の方へと向かう。共に旅をしていた正直者が言う、「私の許から去るのか。ついさっきまで、私にあれほど好意を示してくれていたのに」。

3000. 彼は答える、「今までの私は怠惰な冷笑屋だった。貪欲さゆえに、あなたに媚びへつらっていた。探求において、私たちはここでお別れしなくては ー けれど体は離れても、心はあなたと共にある。駱駝についての講釈を、私はあなたから盗んでいた。しかし私の精神が、私自身の駱駝を見たとき、私の目は満たされた。実際にそれを目にするまで、私は、本当には何も探してなどいなかったのだ。今や銅貨は駆逐された。打ち勝ったのは金貨である。邪悪な意図から、篤信の行為が生じたのだ ー 神よ、感謝します!悪ふざけは消え去り、真剣さが姿を現したのだ ー 神よ、感謝します!

3005. 私の悪しき行為を咎めないでくれ、その悪しき行為が、結句は私を神へと至らせる手立てとなったのだから。あなたは、あなたの誠実さをもって探求者となった。私は、求め欲することによって誠実な感情へと通じる道に至った。あなたは、あなたの誠実さによって探求者となった。私は、求め欲することによって誠実さに導かれた。それとは知らずに、私は運命の種を大地に蒔いていたのだ。その最中は、何の保証もなければ見返りもない、なんとつまらないただ働きだろう、などと思い込んでいた。ところがそれはただ働きなどではなかった。素晴らしい大儲けだった。蒔いた種の一粒ごとに、百の新芽が吹き出した。

3010. それはまるで、泥棒がこっそりとある家に忍び込み、中に入って初めてそこが自分の家であったことに気付くような出来事だったのだ」。 ー 暖まれ、冷たき者よ。暖かな者となれば、更なる暖かさがあなたの許へ集まるだろう。不作法は見逃せ。粗雑を受け入れよ、洗練があなたの身につくように。私はここで、「二頭の駱駝の物語」を語ったのではない。最初から駱駝は一頭だ。言葉には限界がある、意味の全てを表現することは出来ない。また表現はあくまでも表現に過ぎず、常に意味そのものには到達し得ない ー それ故に預言者は仰った、「神を知る者ならば、誰であれ舌を慎まざるを得ない」と。言葉はアストロラーベのようなもの。どれほど観測しようが、それだけで空や太陽を知り尽くせようか?殊にそれが、この宇宙を抱く天に関わることなら尚更のこと ー

3015. あちらの天に比べれば、こちらの空は藁一本にも満たず、あちらの太陽に比べれば、こちらの太陽は塵一粒にも満たないのだから。


結末:偽善者たちと、彼らが建てた倒錯のモスクの物語

それがモスクなどではなく、陰謀と奸計の館であることが明らかになったとき、預言者は命じた、「あれを根こそぎ破壊し、塵と灰の捨場とせよ」。建立されたモスクそのものと同じく、モスクの建立者たちも虚偽であった。惜しみなく与えるということは、罠の上に種を蒔くことを意味しない。魚を釣ろうと、釣針に引っ掛けられた肉。それは恩恵でも寛容でもない、単なる餌に過ぎない。

3020. クバーの民が建てたモスクに、生命が宿っていたわけではない。預言者が、建物を自らと同等の何ものかと扱ったわけでもない。だがたとえ生命無きものであったとしても、過誤がそのまま捨て置かれることはない。正義の人(ムハンマド)は、不調和をもたらす倒錯のモスクに火を放った。無生物にも過誤は宿る、これが人間であれば尚更のこと。人間の核となる根源の、その根源には必ずや相違と分離があるものと知れ。この者の墓と、あの者の墓は同じではない。あの者の死と、この者の死は同じではないのだ。 ー さて、彼らの違い、世界の違いについて、私は本当に語り切れているものだろうか?

3025. あなたも、為した仕事を試金石の上に置いてみるといい、仕事熱心な者よ。時には自らの仕事を試せ、さもなければ、気付かぬうちに倒錯のモスクを建てていないとも限らない。過誤に満ちたモスクの建立者たちを嘲った者はいるだろうか。注意深く読み進め、慎重に観察したなら、自らもまた倒錯のモスクの、建立者の一人であったことに気付くだろうに。

 


*1 メッカの民と共に預言者ムハンマドと戦い、のちにシリアへ逃れたアブー・アメール(通称「修道士」)を指している。「倒錯のモスク」を建立した人々は、目的達成のために「修道士」をシリアからメディナに呼ぼうと目論んでいた。

*2 「Alastuの日」コーラン7章172節において語られる、いわゆる「根源の誓約の日」を指す。「審判の日」をオメガとすれば、この日はアルファに相当する。神が発した「alastu bi Rabbikum?(われはあなた方の主ではないか?)」という問いから一語をとってこのように呼ばれる。誕生時にこう問われた人間は「balâ shahidna(はい、証言します)」と答えた、とされる。