ムスタファ(ムハンマド) - 平安は彼と共に - が、病んだ友を見舞った話

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

ムスタファ(ムハンマド) - 平安は彼と共に - が、病んだ友を見舞った話

(ムハンマドと)教えを共にする朋友達の、中でもとりわけ名士と呼ばれた人物が病に倒れた。病のせいで、彼は糸よりもかぼそく衰えてしまった。ムスタファは見舞のために彼を訪れた - 思いやること、優しくあることが彼の天性の全てだったから。病人を見舞うことには益がある。その益は、巡り巡って見舞った者へと再び還ってくる。一つ目の益は、病人がクトゥブかも知れぬということ、魂の領域における輝かしき王かも知れぬということである。

2145. また、たとえクトゥブでは無いにせよ、神秘道における友であるかも知れぬ。たとえ王では無いにせよ、騎士か、はたまた賓客であるかも知れぬ。で、あるならば、騎士であろうが下僕であろうが、道における友に寄り添うことはあなた方の勤めであると心得よ。そしてまた、たとえその者が(友ではなく)敵であったとしても、それでもなお親切に振る舞うということは益をもたらすものである。思いやり、優しく接することで、多くの敵は友になることだろう。親切は香り良き軟膏である。友になれなくとも、敵意はやわらぐことだろう。この他にも、多くの益が考えられる。だがここまでとしよう、わが良き友人よ - 長々と退屈な話が続くこと、私にとりこれほど恐ろしいことは無い。

2150. 要するに、こういうことだ - 道においては誰とでも友であれ。偶像を刻む者のように、石からでさえも友を作り出すことは出来る。しろうと同士のカラヴァンであっても、様々に異なる者がより多く集まれば、夜盗の槍を打ち壊して追い払うことも出来るのだ。おお、強情な者よ、頑固者よ。あなたの心の両目は未だ開かれていない。故にあなたには、薪と沈香の区別もついていない。真に神の友であるひとを捜しあぐねて、すっかり諦めてしまうかも知れない。しかしそれでも悲しむな。世界には、実際に宝が存在する。たとえどれほど荒廃していようとも、「ここには宝など存在しない」などと考えてはいけない。選り好みせず、ありとあらゆるダルヴィーシュを訪ねてまわれ。そしてあなたが(真の聖者の)しるしを見出した時は、その者の傍で精励せよ。

2155. 内側に隠されたものを見通す魔法の目など、誰が持ち合わせているだろうか。いつも忘れずに心に留めておけ - 宝というもの、誰の内側にでも隠されているのだと。


いと高き神がモーセに「何故われを見舞わなんだか?」と問いたもう話

モーセの許へ、神のお叱りの言葉が届けられた。「おお、汝よ、汝の胸の裡より月が昇るのをその目にした者よ。おお、汝、わが聖なる光によって輝きを得た者よ!われは神なり。われはやまいを得たり。然るに汝は、われを見舞いに訪ねては来なかった」。モーセは言った、「おお、栄光の御方よ、疵ひとつ無く、比類無き御方よ。一体、これはなんという謎かけでしょうか?主よ、答えをお教え下さい!」。再び、神は彼に告げた、「われがやまいに苦しんでいたというのに、何故に汝は冷たく振る舞ったのか。何故に、優しい心をもってわれを見舞おうとはしなかったのか」。

2160. 彼は答えた、「おお、主よ。あなたには何ひとつ欠けたるところは御座いません。主よ、完璧なる御方よ。あなたがやまいを得るはずがない。私には、何が何やらさっぱり分かりません。御言葉の意味を解き明かして下さい」。神は言った、「良かろう、良かろう。わが愛する選ばれししもべの一人が、やまいに倒れたのだ。われはかれなり - 熟考せよ、この言葉の意味を!かれが力を失い、弱くなるとき、われもまた弱くなっている。かれの苦しみはわれの苦しみ、かれのやまいはわれのやまいなのだ」。 - 『誰であれ、神と共に座すことを望む者は、聖者と共に座せ(預言者の伝承)』。聖なる者、神の友。もしもあなた方が、聖なるひとと袂を分かち、離れ去ってしまったなら、それはあなた方の破滅を招く。全体から切り離された破片でしか無くなってしまうからだ。

2165. 別離とは、悪魔の仕掛ける罠である。高貴なる人々(聖者)から切り離された者は、助けを呼ぼうにも呼ぶことが出来ない。助けを呼べない者を、悪魔は頭から貪り食らうだろう。一瞬でも(聖者の)絆から離れるというのは悪魔の狡猾さによるもの。 - 次はこの話をしよう、よくよく耳を傾けて聞くがよい。


果樹園の主と三人組の盗人

庭師が彼の果樹園で、泥棒と思しき男達を見つけた。法学者、シャリフ、スーフィーから成る三人組だった。果樹園の主である庭師からすれば、三人が三人とも、負けず劣らず厚かましくも悪辣な、信頼に値せぬ悪党どもだった。庭師は考えた。「こいつら一人ひとりに、言ってやりたいことは百もある。だがあいつらの結束は固い。そして団結は力だ、それだけでも武器になる。一人で三人を相手にしても勝てっこない、まずはあいつらを互いから引き離そう。

2170. それぞれが一人になったところで、あいつらの口ひげを引っこ抜いてやる」。そこで彼はまず手始めにスーフィーを引き離し、残る二人の心を毒してやろうと - スーフィーに対して敵意を抱かせようと - 策略を用いた。「ちょっとお使いを頼みますよ」、庭師は言った。「小屋の中を見てきて下さい。敷物がありますから、ご友人のために持ってきてもらえませんかね」。スーフィーがその場を離れるが早いか、彼(庭師)は残る二人にこっそりと吹き込んだ。「あなたが法学者さん、そしてこちらが、ご友人のシャリフどの。ご高名は伺っておりますよ。

2175. 私らが毎日パンを安心して食べられるのも、法学者の判断あってこそ。知識の翼無しには、私らは飛ぶことが出来ません。そしてあなたのご友人(シャリフ)こそは、私らを統べる素晴らしい王子どの。サイイドと言えば、何しろ預言者の御家に連なるお人ですからな。それにひきかえ、スーフィーの卑しいことと言ったら!あなた方のような貴人が、どうしてスーフィーのごとき下賤の者と交わる必要がありますか?「やつがここへ戻って来たら、あなた方二人で迷わず叩き出して下さい。そのかわりこれから一週間、私の果樹園を好きにして下さって結構ですよ - 私の果樹園だって?いやいや、私の命ですよ。何しろあなた方お二人は、私にとっちゃ目の中に入れても痛くないほど大事なお客ですからな」。

2180. 庭師は彼ら二人を誘い込もうと、褒めちぎって楽しませた - ああ!軽々しく友人を損ねるような真似をすれば、自らを損ねるだけなのに。だが彼らはスーフィーを仲間から締め出した。彼(スーフィー)がその場を離れると、敵(庭師)は固く頑丈な棍棒を振りまわしてスーフィーを追いやった。「犬め」、庭師は叫んだ。「庭師のおれを差し置いて、いきなりおれの果樹園に、ずかずかと土足で入り込むのがスーフィーの教えだとでも言うのか?ジュナイドやバーヤズィードが、おまえにそうしろと命じたか?一体、どこのシャイフやピール(導師)からものを教わったのだ」。仲間から引き離され、たった一人ではどうすることも出来なくなったスーフィーを、彼は強く撲り、打ちのめし、ほとんど半殺しにしてしまった。

2185. 「これで私の分は終わりだ」、スーフィーは言った。「だがおまえ達の分は終わってはいないぞ、気をつけろ、かつての友よ!おまえ達は私の苦境を見て見ぬふりをした、こいつより、私の方がよほどおまえ達に近しい者だというのに。私が飲まされた杯だ、おまえ達も必ずや同じ杯を飲むだろう。誰であれならず者同士には、隙間風がお似合いだ!」。この世はまるで山のよう。何かコトバを口にすれば、そっくりそのままこだまとなり自分の許へ返される。まんまとスーフィーを追い払ってのけた庭師は、そっくり同じやり方でまたしてもでたらめをでっち上げた。

2190. 「わがシャリフどの、ひとっ走り小屋まで行って頂けませんか、朝食に丸いパンを焼いてあるのですよ。扉で番をしている下男のカイマズに、パンとガチョウを皿に盛りつけて持ってくるように言いつけて下さい」。そうやって彼を追い払ってしまうと、残る一人に向かって言った、「さてと、先生。慧眼の持ち主と呼んででもいいでしょう?何しろあなたは法学の専門家だ。あなたがご立派な先生だってことは、誰が見たって確かにその通りだと思うんですがねえ。しかしご友人のシャリフときたら!大体、あいつの言っていることは無茶苦茶でしょう?そうは思いませんか?あいつの母親があいつを身ごもるのに、どこの馬の骨と不義を働いたものか、誰にも確かめようがないでしょう。先生は自分の心を、女や女のすることに預けてもいいとお考えですか?常々、女は弱い生き物だと仰っているのは先生方じゃないですか。それなのに、先生は女を信用するんですか?

2195. あいつは預言者とアリーのお名前を、自分のお飾りに利用しているだけなんですよ。そして世間は、あいつを信じる馬鹿ばかりときたもんだ」。 誰であれ、不義や姦通に手を染めようと考える者は、聖者も彼らと違わないだろうという考えを持つにいたる。彼らのような人々は、ぐるぐると虚しく回り続けているのは自分の方なのに、回っているのは自分ではなく家の方だと考える。何という自惚れの強さだろう!この時の庭師がまさしくそうであった。彼自身と預言者の末裔の間に、どれほどの隔たりがあることか!

2200. 庭師は彼自身の裡にある背徳を、あたかも(預言者の)家の背徳であるかのように語った。もっともらしい話をでっち上げ、法学者はそれに聞き入った。そしてシャリフが戻ると、たちまち傲慢な悪党による弱い者いじめが始まった。「愚か者め!」、彼は言った。「誰の招きでこの果樹園に来た?おまえは預言者の跡継ぎと言うが、その盗癖が遺産だとでも言うつもりか?ライオンの仔はライオンに似ているのが筋だろう。しかしおまえと預言者は、どう 見たってかけ離れている。どこがどう似ているのか、さあ、言ってみろ!」。庭師は、一方ではヤー・スィーン(預言者)の一族を讃えてみせた。しかしもう一方で、実際にしていることと言えばハワーリジュのごとくアリーを責め立てる振る舞いであった。私は驚嘆せずにはおれない - 見よ、彼らの悪鬼のごとき憎悪の深さを。見よ、ヤズィードを、その兵シムルを。どうしたらあれほどの憎悪を持てるのか。そして一体、何故にその憎悪を預言者の一族に向けるのか。

2205. 悪党が振るう棍棒に、シャリフはただただあっけにとられるばかりだった。彼は法学者に言った、「これ以上、同じ水の中にいるわけにはいくまい。私は出て行く、これでお別れだ。だが気をつけろ、おまえは一人きりで取り残されるのだから。せいぜい、 しっかり掴まることだな。太鼓のように、殴られても歯を食いしばって耐えるがいい!おまえは私がシャリフでは無いと言い、おまえの友情にふさわしくないと言う。しかしそれでも私の方が、この悪党よりもよほどましだ!」。こうして一人去り、二人去り、 - 庭師が法学者ににじり寄る。そしてその耳にささやく、「あんた、それでも法学者かね?罪深い泥棒め、私の果樹園にずかずかと上がり込んで、何ごとも無く帰れるとでも思ったのかい?それがあんたの法解釈というやつかね。

2210. そんなお許しが出るだなんて、ワスィートにでも書かれていたかい?それともこんな質問が出ることも、ムヒートに載っていたのかい?」。「おまえが正しい」、彼は言った。「私の負けだ。殴れ、さあ、いくらでも殴れ!友人を裏切って見捨てた者への、それがふさわしい罰というものだろうから!」。

(註:「果樹園の主と三人組の盗人」に関する覚え書き


続・ムスタファ(ムハンマド) - 平安は彼と共に - が、病んだ友を見舞った話

病に倒れた人を見舞うということには、(魂の)つながりを取り戻すということが含まれている。そしてまた、このつながりは幾百もの愛と優しさを孕んでいる。比類なき預言者は病人を見舞い、そして知った、彼の胞輩の、それが最期の息だということを。聖なる人の居る処から離れれば離れるほど、神からも遠ざかることになる。

2215. 旅の道連れとの別離は悲しみをもたらす。王の中の王(聖なる人)との別離がもたらす悲しみが、それよりも小さいものであるはずがない。あなた方は影を追え、ありとあらゆる一瞬を無駄にするなかれ。影を追い求め続ければ、やがては太陽をも追い越すことだろう。旅に出る者があるならば、この意図を胸に刻んで旅に出よ。そして住処に留まる者があるならば、この意図を胸に刻んで忘れるな。


我らが師バーヤズィードが、巡礼のためメッカを訪れる話

訪れた街という街の全てにおいて、彼が最初にすることは、尊敬すべき人(聖者)を探し当てることだった。

2220. 彼は歩き回り、そして尋ねた、「この街では、(精神的な)洞察を誰に求めるのか?」。神は告げたもう、「汝、どこであれ旅するならば、まず人を探し求めよ」。真の財宝を探し求めよ。(現世の)利益と損失はその後についてくる。それらは枝葉であり、決して根ではないことを知れ。種を蒔くということは、小麦を得るための旅に出るようなものだ。種蒔く者はやがて藁をも得るだろう。だがそれはあくまでも二次的なものであり、真の目的ではない。藁を蒔いたところで、小麦が芽を出したりはしない。人だ、人を探し出せ - 人を追え、人を求めよ!

2225. 巡礼の季節がやってきたなら、カアバを目指し、カアバを探求せよ - 真の目的を見失わずにいれば、メッカは眼前に顕われるだろう。ミゥラージュにおける(預言者の)目的とは、愛する者(神)を視ること、ただそれのみであった。結果として彼は玉座を、天界を、天使達をも視た。だがそれは、あくまでも二次的な事柄としてそうなったまでに過ぎないのである。 - 新参の弟子が新しく家を建てる、そこへ師が通りかかって家を見る。新参の、善良なる弟子を試そうと師が一言、「友よ、その窓は何のためにしつらえたものか?」。弟子は答える、「このようにすれば、窓を通じて家の中に明かりが入りましょう」。

2230. 師は言う、「そのようなことは枝葉に過ぎぬ!『このようにすれば、窓を通じて礼拝の呼びかけが聞こえるだろう』 - おまえの欲するところは、かくあらねばならぬ!」。 - バーヤズィードはカアバへと向かう道の途上にあった。時のハディルに出会おうと、大真面目に彼を探し求めた。そしてついに彼は、まるで新月のような体躯の老人を見出した。彼の言葉には、聖者の威厳と高貴があった。彼の視界が閉ざされており、その心臓は太陽のごとく内側から輝いていた。彼はまるでヒンドを夢見る象のようだった。閉ざされた目を通して、彼は百の歓喜を見ていた。だが彼の目が開くとき、彼が見るのは一切の無であった  - 何という不思議!

2235. 驚くべき不思議の多くは、眠りの中で明らかになる。眠りの中で、心は窓となる。目覚めつつ、駆け引き無き清廉な夢を見る者こそは神を知る者。彼の塵もて、瞳を拭え!バーヤズィードは彼の前に座り、彼の身の上について尋ねた。彼がダルヴィーシュであること、また家族ある者であることも分かった。「バーヤズィードよ」、彼は言った、「おまえ様、どこへ向かっているのか?見知らぬ土地へ行くのだろう?旅の荷を、どこへ運んで行くのだね?」。バーヤズィードは答えた、「夜明けには、カアバへ向かって出立します」。「えっ」、彼は驚きの声をあげた。「おまえ様、旅のために一体どれほど用意したのかね」。

2240. 「銀貨で二百ディルハム」、バーヤズィードは答えた。「そら、ここです。外套の裾端に、しっかり結わえてありますよ」。すると彼が言った - 「私の周囲を七回巡れ!その方が、カアバまで遠回りするよりも優れていると思え!そしてそのディルハムをわしの前に置け、おお、寛大なるバーヤズィードよ。そうすれば、おまえ様は確かに大巡礼を果たし、己の欲望に打ち勝った証しを得よう。同時に、おまえ様は小巡礼を果たし、永遠の生を得よう。サファーの丘を駆けのぼり、全てから浄められたことになろう - わしの魂が見た真実の、更にその真実にかけて。わしは誓おう、御方がわしを、御方の館として選びたもうことを!

2245. カアバが主に捧げられた崇拝の館なら、わしが今在るこの姿は、最も深くに隠された神の秘密の館として創られしもの。神はカアバを創りたもう、だが神はカアバには住みたまわぬ!そしてわが館に住まう者と言えば、生ける者のうち『真に生ける者』を置いて他にはない - わしを見た者は神を見たのだ。おまえ様は、真のカアバを巡ったのだ。わしへの奉仕はすなわち神への奉仕、神への賛美だ。用心せい!神がわしを離れて在るなどとは思うな!おまえ様の目を開け、そしてこのわしをようく見よ。そうすれば、おまえ様にもつ掴み取れよう - ヒトに宿る神の光を!」。

2250. バーヤズィードは、明かされた神秘の言葉に耳を傾けた。そしてその言葉を黄金の耳環とし、自らの耳に飾った。古老を通して魂の報奨を得、ついに境地に達したのだった。


続・ムスタファ(ムハンマド) - 平安は彼と共に - が、病んだ友を見舞った話

病にたおれた者を預言者が見舞ったとき、彼は良く知る友人にするように、優しく柔らかな物腰で接した。彼(病人)は預言者を見て生き返ったかのようだった。その様子を見た者は言うだろう、あたかもこの瞬間に創られたばかりの者のようだと。彼は言った、「かようなスルタンがいまわの際にわが傍に訪れるとは、病が私に幸運をもたらしたのだ。

2255. 従者なき王の到来により、わが健康、わが幸福がいや増されてゆく。痛みと病と、高熱とに幸あれ!苦悶と、不眠の夜に祝福あれ!見よ、わが老いの季節に、栄光と恩寵の神はあらゆる病を下されたもう!御方はまた、我が背中に痛みを与えたもう ー おかげで真夜中に目を覚まし、寝床から跳び起きることも雑作なくできる。水牛のように、いぎたなく眠りこける失態を犯さずにすむようにとの御方の配慮に相違ない。

2260. 私がここまで衰えたがゆえに、慈悲の王も憐れみをかけて下さる。これほどまでに衰えてしまえば地獄の恐怖も沈黙し、私を脅かすことも無くなった」。 - 苦痛は宝だ、何故なら慈悲はまさしく苦痛の裡に隠されている。殻を剥ぎ取れば核がある、ひと皮むけば、果実のみずみずしい果汁がしたたり落ちる。ああ、わが同胞諸氏よ。暗く冷たきところで耐え忍ぶ人々よ、悲しみに、弱さに、痛みに耐え続ける人々よ。あなた方は私達に教える、生命の杯はあなた方の手元にこそある。高きところにあるのはあなた方の魂、その他は全て取るに足らない低きにある。来たるべき春は秋の裡に隠されている、そして秋もまた、春の裡に隠されている - だから決して逃げ出すな、あきらめるな。

2265. 悲しみを道連れに旅を続けよ。孤独と和解せよ。自我の死の裡に、永遠の生を求めよ。欲望はあなた方に言うだろう、「何て嫌なことだろう。こんなところに居て何になる?こんなことをしていて何になる?」。耳を貸すな、欲望は常に真理から逆行しようとする。欲望に反逆せよ、その術を知らしめるためにこそ、預言者達がこの世に遣わされたのだ。物事を成し遂げるには、他の者とも話し合うことが不可欠となる。そうすれば、後になって後悔することも無いだろう。人々は尋ねた、「では一体、私達は誰に相談すれば良いのでしょうか?」。「知性に相談せよ」、預言者達は答えた、「知性こそが従うべきイマム(導師)である」。

2270. 誰かが更に質問を重ねた、「しかし子供や女であったらどうしますか - 判断も出来ず、理解にも乏しい者であったら?」。「相談するにしくはない」、彼(預言者)は答えた、「相談し、話を聞き、言われたことの逆の道をゆけ」。女子供を案じるよりも、自らの我欲をこそ案じよ。女の邪悪はほんの一部に過ぎない。だがおまえ自身の我欲は、全部が全部邪悪そのものであると知れ。我欲とは、まことに恐るべき策謀者である。時として礼拝と斎戒を勧めもする - もっと、もっとと礼拝と斎戒を勧めて油断させ、気付かぬうちに悪事を起こさせようと企んでいる。

2275. 何ごとかを為すとき、我欲と相談したならば、我欲の告げるところとは逆の道が正しい道だ。もしも我欲に逆らい、我欲の命ずる道とは反対の道を行くことが難しいときは、友を訪ねて友と交われ。我欲は奸智に長けている。故に良き友を見出すことが肝要だ。精神(知性)は、別の精神と出会ってこそ力を増す。砂糖は、砂糖黍の内側でこそ熟すもの。我欲の働く詐欺に誑かされ、驚くべき行為に走る様子を私はこの目で見てきた。我欲は、その魔力をもって誑かされた者の洞察力をすっかり奪い去ってしまうのである。我欲は何度でも新たな誓いを立てる - 既に何度も破られたものと、寸分違わぬ同じ誓いを。

2280. あなた方の寿命が何百年と長引こうと、我欲は毎日、変わらずにあなた方の目の前に新たな約束を差し出すだろう - 完璧な約束を。我欲の約束には血が通っていない。だが冷たい約束でも、受け取ってしまえば暖かいと感じるだろう。そのようにして、我欲は人間から人間性を奪うのである。 - おお、汝、神の光輝よ、フサームッディーンよ!来い、汝が居なくては、塩気の強い土地に香草を育てることは出来ない。天頂より幕が降ろされてしまった、心騒いで、居ても立ってもおられぬ者の発した呪詛のせいだ。かような運命、治癒できるのもまたやはり運命。主の創りたまいしものを理解するということは、主の定めたもう運命に驚愕することに他ならない。

2285. 道端を這う虫であった黒い蛇が竜にもなる。だが汝の手にかかれば - おお、汝、モーセの魂を酩酊に導く者よ - 、蛇は竜ともなり、また(モーセの手に握られた)杖ともなった。神は汝に命じたもう - 「それをとれ。恐れるな(コーラン20章21節)」。「それ(竜)をもとのありさまにもどしてやろう(コーラン20章21節)」、竜も汝の手に握られてしまえば杖となる。聞け、白き手を開いて見せよ、おお、王よ - 黒き夜をはらい、新たな暁を明らかにせよ!地獄が炎を吹き上げる、だが汝の吐息の方がよほど優れている。(地獄の炎の)上に汝の息を吹きかけよ、おお、汝、海の息づかいよりも優れた息を持つ者よ。

2290. 我欲とは海のごときもの、狡猾にも自らの姿を隠し、あたかも小さき泡のように見せかける。我欲とは地獄のごときもの、狡猾にもほんの少しの熱であるかのように見せかける。あなた方は、我欲を取るに足らない弱きものと考えるだろう。最後の最後になって、ようやく怒りをかき立てられるようになるまでは、あなた方の目には、我欲はごく小さきものと映るだろう。それはちょうど不信の者の群れが、預言者の目には小さきものとして映ったのと同じだ。それ故に預言者は恐怖を感じることもなく、危険を感じることもなく、彼らに立ち向かうことが出来たのである。だがもしも彼が(彼ら不信の徒を)勘定したりしていれば、彼はもっと用心深く立ち回っていたことだろう - これぞ神のご好意、これぞあなたにふさわしい、おお、アハマド(ムハンマド)よ。それ(神のご好意)無くしては、あなたはきっと卑怯者になっていたことだろう。

2295. 外側へと向かう聖戦、内側へと向かう聖戦。神は二つの聖戦を、彼(預言者)とその同胞達に小さきものと映らせたもう - 彼がその顔を、困難から背けることのないように、と。彼(預言者)にとっては、(聖戦が)小さきものと映ることこそ勝利だったのである - 神が彼の友となり、道を指し示したもうたのだから。しかし、神をこそ勝利への導きと看做さぬ者は、何ということ、獰猛な獅子でさえ、あたかも猫のごとく見誤ることだろう。ああ、何ということ!遠くにいながら(そのことを忘れ)、百あるものを一と見誤ることだろう、根拠無き盲信をひっさげ、無意味な騒擾の中に突っ込んでゆくことだろう。

2300. 御方は、預言者の剣をあたかもおもちゃの矢のごとく見せかけたまい、勇猛な獅子を猫のごとく見せかけたもう。愚か者どもに、意気揚々と戦いの中へとその身を投じせしめるように - 彼らは、こうして御方の仕掛けたもうからくりに捕えられる。御方はこのようにことを成し遂げたもう、彼らは彼ら自身の足、彼らの自由意志もて火の燃え盛る寺院へと踏み込んでゆく。御方は刃を示したもう。それもあなた方の目に、吹けば飛ぶような藁くずのごとき姿で示したもう。用心せよ!藁くずのごとく見えるそれが、かつて山をも根こそぎ打ち砕いたのだ。それのために全世界は泣き崩れ、一方でそれは笑っていたのだ。

2305. この川の水を、御方は、あたかもくるぶしほどの深さに見せかけたもう。だがそのためにアナクの息子ウージュの、百人の手勢が溺れたのである。血の波を、御方は、あたかも山と積まれた麝香のように見せかけたもう。だがそのためにファラオは、海の底を乾いた大地と見誤ったのである。もの見えぬファラオは海が乾いているものと信じ込んだ。自らの男性性を過信し、そこから生じる力を過信し、それを貫き通そうとした。彼がそれへと足を踏み入れた時、彼は海の底の藻くずと消えた - ファラオの目は、いったい何を、いかにして見ていたのだろうか?目は、神との邂逅を経てものごとを「見る」ようになるのである。どうして神が、愚か者全ての親しき友になどなるだろうか?

2310. 愚か者はこれぞ甘き菓子と考える、だがそれは実際には毒である。愚か者はこれぞ正しき道と考える、だがそれは実際には屍鬼の叫びに満ちた破滅への道である。天空よ、我らが苦難の日々を高きより見下ろす天空よ。目まぐるしく移り変わる天空よ、せめて我らに祈りの時を与えよ - 休息を、束の間の安寧を与えよ。汝は鋭い短剣のごとく我らを切り刻み、毒の塗られた短刀のごとく我らの血を流す。おお、天空よ。非力な蟻の小さな心を、蛇のごとく傷つけるな。汝の車輪を司りたもう御方の真実にかけて、汝の裡にある、我らが住まう惑星を回転させたもう御方の真実にかけて、天空よ、神の慈悲によって慈悲を学べ。

2315. 異なる軌道で廻ってくれ、我らを憐れんでくれ、我らを根こそぎ引き抜く前に - 天空よ、我らは汝に乞う、汝が原初に我らに与えた滋養と同じそれを - かつて我らが若き根は、汝の与えた土と水により育まれた。汝を純粋なるものとして創りたまい、汝の裡に数多の松明(星座)を飾りたもう王の真実にかけて、天空よ、汝は疵ひとつなく美しく果てしない。汝のあまりの美しさ、あまりの果てしなさ故に、天空よ、唯物論者達は汝を形作るものは永遠であるとさえ言ってはばからぬ。預言者達は、汝の原初の秘密について我らに解き明かした。故に我らは神に感謝するすべを知った。

2320. ヒトは自らの住まう家が、いつ、いかにして建てられたかを知っている。しかし蜘蛛はそれを知らない。日がな一日、ただぼんやりと戯れて過ごす。どうして虻が、いつからそこに庭園があったのかを知れようか。虻は春に生まれ、冬を待たずに死んでゆく。枯れ木に巣食う虫が、どうして樹木を知れようか。自らの住まう朽ち木が、かつて若き枝であったことなど知る由もない。そしてもしも虫が、これを知ることがあったなら、それは(樹木の)本質の知そのものとなるだろう。虫という姿かたちなど、ただ外側の殻に過ぎなくなることだろう。知性は様々な姿かたちをとって顕われる。ジンの類いはその最たるもので、あれらは知性の本来の在り処とは、遠く離れたところにある。

2325. そもそも、知性は天使よりも高きところに創られている。何の理由があって、知性をジンの方へと向かわせる必要があるというのか。しかし虻の羽しか持たぬ者は、低き方へと向かって飛ぶ。知性が高きを目指そうとすれば、習慣という名の鳥が、低きところの撒き餌をついばんで飛翔を阻む。型にはまりきった知識ほど、陳腐で邪魔なものはない。我らの魂にとっては、災い以外の何ものでもない。それは借り物、所詮は単なる受け売りに過ぎない。しかしこれぞ我らが持ち分と思い込み、これぞ我らが信じるところと決めつけてしまえば、これほど安楽なことはない。こうした欺瞞の知に対して、我らは徹底的に無知であらねばならぬ。世知を拒否せぬくらいなら、むしろ狂人の道に熟達した方がはるかに優れている。我らの低き自我を益する諸々を避けよ。毒を飲み干し、命の水を得よ。

2330. 世辞に対しては軽蔑を支払い、貧しき者には利子と元金のどちらをも譲り渡せ。安心など捨て去ってしまえ。代わりに不安と向き合え。他人の評価に逃げ込むな。恐怖と対峙せよ。名誉など欲して何になる、いっそ悪名高き者となれ。  - 私は知性を駆使してきた。その先に何があるのか、既に試し尽くしている。その上で、今や私は狂気を欲するのである。


ダルカク(侏儒)の嫁取り

サイイド・アジャッルがダルカクに尋ねた。「聞いたぞ、聞いたぞ。ダルカクよ、おまえ、何某という売女に求婚したそうだな。何をそんなに焦ったのか。妻を娶る心づもりがあったなら、なぜ私に打ち明けなかったのか。誓って言うが、おまえは私に相談するべきだった。そうすれば私達だっておまえのために、ヴェイルを被った(貞淑な)花嫁を見つけてやれたのに!」。

2335. ダルカクは答えた。「以前にも、九回ほどそういう妻を持ちました。ところが毎回、ひどく私を悲しませるばかりでした。何しろどいつもこいつも、娶った途端にとんでもない売女になりましたから。そこで今回はやり方を変えて、最初から信心深くも慎ましくもない売女を選んでみたというわけです。こいつは一体どうなるだろうかと興味が湧きましてね。今までだって、散々に頭を使ってもこの有り様です。いっそ正気を失ってみた方がうまく行くんじゃないかと、まあそのようなわけで御座います」。


狂人を装う賢者から助言を得る話

ある男が言った、「誰か知性を持つ聡明な者がいたなら、抱えている難題について相談することが出来るのに」。ある者が答えて言った、「私達の都には、知性の持ち主など一人もいないのだよ - あそこにいる、狂人のごとく振る舞う男の他には。

2340. ごらん、あそこに某という名の男がいる。子供達と一緒に葦にまたがって、馬乗りごっこをして戯れているだろう。彼の判断力ときたら大したもの、まるで火花の眷属のようだ。大空のような尊厳と、星々のような高貴 - 彼の叡智は天使の魂となり、狂気の裡に封じ込められたのだ」。 - とは言うものの、狂人ならば全て叡智の魂である、と考えるべきではない。仔牛を目の前にして、無条件にひれ伏すサーミリーのようであってはならない。たとえどれほど著名な聖者であろうが、幾千もの不可視と神秘をあなたの前に差し出そうが、それらはさして重要ではない。

2345. 真に重要なのはあなた自身の理解と知識だ。あなた自身の理解、あなた自身の知識が深まらぬ限り、乳香と糞便を見分けることは出来ない。あなた自身の目が開かれぬ限り、聖者が狂人のヴェイルをまとってしまえば、決して見分けることは出来ないだろう。もしもあなたの直観の目が、正しく開かれているならば、ありとあらゆる機会の中に精神の導師を見出すだろう。正しく開かれた目はそれ自体が導きとなる。あらゆるダルヴィーシュがその長衣の裡に、モーセの抱擁を包み持つのが見えることだろう。ただ聖者のみが聖者を知る。望む者のみが望みを得る。

2350. 一たび、(聖者が)狂人をよそおえば、知識を通してそれを見分けることなど、決して誰にも出来ないのだ。目の見える盗人が、目の見えぬ者から盗み取っても、目の見えぬ者には、通りすがりに誰が盗みを働いたのか見分けることは出来ないだろう。見えぬ者には盗人が誰なのかを見分けられない。悪意ある盗人が彼を突き飛ばしたとしても、それが誰なのか知ることも出来ない。目の見えぬ、ぼろをまとった物乞いに犬が噛み付いたとしても、彼にはそれが獰猛な犬であることも知ることが出来ないのだ。


犬と、目の見えぬ物乞い

とある路上で一匹の犬が、あたかも荒ぶる獅子のごとく、目の見えぬ物乞いに襲いかかった。

2355. その犬は怒りに任せてダルヴィーシュに猛進した。月はダルヴィーシュの足許の砂を彼の目にこすりつけた。目の見えぬ男はどうすることも出来なくなっていた。犬の吠える声、犬への恐怖によって無力となった目の見えぬ男は、犬の機嫌を損ねまいと、犬に向かって敬意を示そうと試み始めた。「おお、追跡に秀でた王子よ、おお、狩猟に長けた獅子よ。おまえは何よりも優れている、さあ、おまえの手をどけておくれ、私を放しておくれ!」。かの名の知れた哲学者でさえ、必要とあらばロバの尾ほどの価値しか持たぬ者に敬意を表し、「高貴」の称号を与えもした。彼(目の見えぬ男)もまた、必要に応じたのである - 「おお、獅子よ、私のように痩せこけた獲物を狩ったところで、どのような良いことがおまえにあるだろう?

2360. おまえの友は砂漠で鹿を狩るというのに、おまえは路上で目の見えぬ者を襲おうとしている。これはよろしくない」。ものごとを弁えた犬ならば、砂漠の鹿を獲物とするが、卑しき犬は目の見えぬ男に襲いかかる。犬が知識を学んだならば、過ちを避けることだろう。そして森へと分け入り、正しき取り分たる獲物を狩るようになることだろう。犬がアーリム(知識を得た者)となったなら、俊敏に歩むようになるだろう。犬がアーリフ(神を知った者)となったなら、洞窟の人(コーラン18章)のようになるだろう。

2365. 狩猟の主が誰なのか、犬はついに知るに至った。おお、神よ。この知の光とは一体何であろうか?真に「目が見えぬ者」というのはこれを知らぬ者、自らの姿を捉える視界を持たぬ者。自らを見ることを知らず、自らを見る目を持たぬ。それもこれも、彼らは無知に酔っているのだ。見ること無き者にも目だけはついている。大地には目などついていない、しかしそれでも大地は(神の)敵を見抜く - それはモーセの光を見分け、モーセに友愛の情を示した。一方でカールーン(コラ)については丸飲みに飲み込んだ。カールーンを知っていたからだ(コーラン28章76-82節他)。あらゆる見せかけの偽物に破滅をもたらすがために、大地はその身をよじらせる。それ(大地)は神から下された御言葉 - 「飲み込め、大地よ(コーラン11章44節)」 - を理解しているのである。

2370. 大地も、水も、風も、火花散らす火も、私達についてなど何ひとつ知らない。しかし神については十分に承知している。逆に私達ときたら、神以外の種々については良く知っている。しかし神と、神の遣わしたもう警告者(預言者)については何ひとつ知らず、注意すら払おうとしない。火水風土は(神を知るがゆえに)畏れて「それを担うのを辞退した(コーラン33章72節)」。彼らは「生きる」ことよりも「生き存える」ことを選び、互いに奪い合うよりも、分かち合うことを選んだのである。「我らは全て、(与えられた命を)創られし者との交わりに生き、創りし者たる神との交わりに死す者の敵となろう」。創られし者との交わりから離れれば、その者は孤児も同然となろう。しかし神との親密な交わりは、そうでなくては始まらぬ。神と親しく交わるためには、ありとあらゆる軛から心を解き放たねばならぬ。あなたはそれを孤独と見るだろうか。それとも、あなたはそれを自由と見るだろうか。

2375. 盗人が、目の見えぬ者から何がしかを盗めば、目の見えぬ者はただ嘆く他はない、盗人が、「おまえから盗んだのは私なのだ、私は盗みに長けているのだ」と告げない限りは。だが目の見えぬ者に、どうして盗人を知ることができよう、その目には光も、何ごとかを捉える視線も宿ってはいないのに。盗人が盗みを告白し、何を盗んだのかを語るために、身を乗り出して目の見えぬ者の腕をきつく掴む。その時初めて、目の見えぬ者にも理解できることだろう、最後に掴まれた時の感触を思い出すことだろう。で、あるならば「大いなる聖戦(ジハード・アクバル)」とは、嘆きに嘆きを重ね、残滓にいたるまで盗人を絞りつくし、盗んだもの、持ち去ったものを告白せしめることにより成立すると言えるのではないか。

2380. 手始めに、盗人はあなたの目薬を盗んだ。それを(盗人から)取り戻せたなら、あなたは再び視覚を得ることだろう。あなたの心から盗み出された知恵の財なら、心に知恵を持つ者(聖者)が探し当ててくれることだろう。だが心で見ることの出来ない者、見ようとも思いつかない者なら、たとえ生きていようが、視覚も聴覚も問題無く備わっていようが、悪魔のごとき盗人を見分けることも出来ないし、その跡を追うことも出来ないだろう。これら(の知識)については心ある者にこそ求めよ。石や土塊に求めたところで何の答えも得られはしない。そして実に、ヒトの多くは石や土塊に過ぎぬ。心なき者を心ある者と比べられ得ようか? - さて、助言を求めていた男にも、いよいよその目的を果たす時が来たようだ。狂人を装う賢者に、彼は近づいて話しかけた。「おお、子供のごとく振る舞う父よ。私に秘密を明かしてくれ」。

2385. 彼は答えた。「扉を叩くな、閉ざされているのが見えないか。今日は閉店だ。今日はまだおまえに秘密を明かす日ではない。秘密とは何処という場所に属さぬもの。そして何処という場所に属さぬ秘密を私が得ていたなら、此処でこうしてなどいるものか - 今ごろはシャイフのごとく高き処に座しているだろう!」。


小咄:警吏と酔漢

真夜中に、警吏がとある場所を見回っていた。彼は一人の男が、壁にもたれかかるようにして地べたに寝転がっているのを見た。「おい、そこの男!」、警吏は叫んだ。「きさま酔っているな。言え、飲んだのか。さあさあ、言ってみろ」。「ああ、飲んだとも」、男は答えた。「飲んだ、飲んだ。たっぷり飲んだ」。「飲んだと言ったな」、警吏は言った。「では何を飲んだのか。さあさあ、言ってみろ」。男は答えた。「飲んだのは、そこの水差しに入っていたものだ」。警吏は再び言った、「空っぽじゃないか。何がこの水差しに入っていたのだ。さあさあ、言ってみろ」。「そこの水差しに入っていたのは」、男も再び答えた、「おれが飲み干したものだ」。

2390. 警吏は言った、「おまえが飲み干したものとは何だ」。男は言った、「そこの水差しに入っていたものだ」。繰り返される問答は、不条理きわまりない循環に陥った。警吏は、まるで泥沼に沈みかけたロバのようになった。気を取り直して警吏は言った、「おい、『ああ』と言ってみろ」。しかししたたかに酔った男は、言おうとして「ふう、ふう」(「ふう」=”Hu”、神名)と言った。「『ああ』と言え、と言っているのに」、警吏は言った。「きさまは『ふう』と言ったな」。「おれが幸せだからさ」、男は答えた。「かたやおまえさんと来たら、すっかり苦役に押しつぶされている。いいか。『ああ』ってのは、悩んだり苦しんだり、つらい目にあわされている時に口をついて出るもんだ。だがねえ警吏さん。葡萄酒ですっかり酔った者の口をついて出る『ふう、ふう』ってのは、喜びや楽しみや、うれしさからの贈り物みたいなもんなんだ」。

2395. 警吏は言った。「何のことやらさっぱり分からん。もういい!さあ、立て、立て!秘密めかした言い訳をするな、問答は終わりだ」。「あっちへ行け」、男は言った。「放っておいてくれ。おれに何の用があるって言うんだ」。「きさまは酔っている」、警吏は言った。「さあ立て、おとなしく牢屋へ入れ」。男は言った。「警吏さんよ、あんたこそおとなしく立ち去ってくれ。おれを一人にしてくれ。るはだかの者にどんな証しを立てさせようって言うんだ。無一物の者から何を取り上げようって言うんだ。『立て』だって?立って歩ける力が残っていれば、とっくに自分のねぐらに帰っていたさ。帰っていれば、こんな馬鹿馬鹿しい言い争いだってせずに済んだんだ。自分のしてることが自分で分かっていれば、次に何が起こるかも分かっただろうさ。そして何が起こるか分かっていれば、おれだってこんなところでこうしてなどいるもんか。今ごろはシャイフみたいに、高いところに座っていただろうよ!」。


再び、狂人を装う賢者から助言を得る話

2400. かの探求者は言った。「おお、葦にまたがる者よ!お願いだ、少しの間、あなたの馬をこちらへと引き寄せてはくれまいか」。彼(賢者)は彼の方へと向かい、それから叫んだ、「ならば急げ!私の馬は癇癪持ちで御し難い。出来る限り手短かに用件を述べよ、さもなければおまえは馬に蹴られることになろう。おまえの尋ねたいことを、包み隠さず明らかにせよ」。探求者には、心の秘密をすっかり知らせてしまうことが正しい選択であるとは思えなかった。そこで彼は、その場をごまかそうと冗談混じりの言い逃れをした。「この界隈から、婦人を娶ろうと考えているのだが。私のような者にふさわしいのは誰だろうか?」。

2405. この世には三種類の女がいる」、彼は答えた。「そのうち二人は悲哀をもたらし、残りの一人が魂の宝となる。まず一人目は、娶れば全身全霊がおまえのものとなる女だ。そして二人目、これは娶れば半分はおまえのものだが、残りの半分はおまえのものにはならない。最後に三人目、これは頭のてっぺんから爪先まで全くおまえのものとはならない - さあ、これでもう分かっただろう。立ち去れ!私もすぐに立ち去ろう、私の馬がおまえを蹴ればおまえは転んでしまう。転べば、おまえは二度と立ち上がれなくなるだろう。それを私は恐れる」。そう言うと、シャイフは再び子供たちと共に葦を駆って去ろうとしたが、(探求者の)男は慌てて呼び止めた。

2410. 「待ってくれ、分かるように説明してくれ。あなたは『三種類の女』と言った。彼女たちについて教えてくれ」。彼は馬にまたがったままで男に向かいこう言った、「おまえが選んだ乙女なら、その全てがおまえのものだ。おまえは何ひとつ憂うこともないだろう。半分がおまえのものとなる女とは子を持たぬ寡婦であり、全くおまえのものとならない女とは夫と子を持つ婦人のことだ。もしも前夫の子があれば、それが婦人の全ての愛と心の在り処となる - 今度こそ立ち去れ。私の馬がおまえを蹴る前に、押さえ難いこの馬の蹄がおまえを踏み散らす前に」。

2415. シャイフは子供のように喜びの叫び声を発し、体の向きを変えて再び子供たちに集まるように呼びかけた。探求者はまたしても叫んだ、「待ってくれ!もうひとつだけ尋ねたいことがあるのだ、おお、比類なき王よ」。「何だと言うのか」、彼は叫んだ、「さっさと済ませてくれ、あの幼い子供らに私は夢中なのだ」。男は言った、「おお、王よ。これほどの教養と聡明さを備えていながら、何故それを隠すのか?何故こんな振る舞いに及ぶのか、驚かずにはいられない!ものごとを解き明かすことにかけては、あなたは普遍の知性を凌駕している。太陽のごときあなたが、いったい何故に狂気の中にその身を隠すのか」。

2420. 彼は答えた。「悪党どもが、私をこの都のカーディー(判事)になるよう勧めたからだ。私は反対したが、彼らは言った、『いいえ、あなたほど博学な者も、あなたほどふさわしい者もいません。あなたが生きている限り、誰であれあなたに劣る者がカーディーとなってハディースを引用するのは不正であり悪業でありましょう』。『シャリーア(聖法)は、あなたより劣る者が私たちの王子となり導師となることを認めないでしょう』。それで私は、やむを得ず混乱と狂気を演じている。しかしそれはあくまでも外見上のことであり、私の内面は以前といささかも変わってはいない。

2425. 私の知性は(隠された)財宝であり、私は(財宝を隠す)廃墟だ - もしも私が財宝を見せびらかすようなことがあるとすれば、それは真に私が狂ったときだろう。一度も狂ったことの無い者こそが本当の狂人だ。夜回りの警吏を目にしても、家路につこうとはしない者だ。私は知識を必然として得たのであり、偶然として得たのではない。そしてこの財宝(知識)は、現世における私利私欲を満たすためにあるのではない。私自身が甘みの鉱脈、私自身が砂糖黍の園だ。それを育てるのも私自身なら、同時に、それを食べるのも私自身だ。『聴衆が私の論に耳を貸さない』と不平を言う知識人がいるが、それは彼の知識が彼自身の内側に生じ、彼自身の手で育てた知識ではなく、どこかから仕入れてきた型通りの借り物に過ぎないからだ。

2430. 彼が学ぶのは世俗で名を売るためであり、精神に覚醒をもたらし、愛を照らすためにではない。たとえ求める知識が宗教のそれであろうが、悪しき現世のそれであろうが、目的が人々を振り向かせるためなら何の違いもありはしない。市井の人々のためであろうが高貴の人々のためであろうが同じこと、彼が知識を追い求めるのは現世の耳目を集めるためであり、現世からの解放を得るためではない。聴衆に依存すれば、彼の知識は堕落する。彼はネズミのように四方八方へ穴を掘る。掘り進めれば光が差し込む、だがその光が「立ち去れ!」と(彼を)追い返す。そこでまた別の方向へ穴を掘る。その繰り返しだ。広々と光あふれる処へと出てゆくすべを持たぬが故に、暗がりの中で必死にあがき続ける。

2435. もしも神が翼を、知の翼を授けたもうなら、彼はネズミの状態を脱して鳥のように羽ばたくだろうに。けれど彼は、翼を乞い求めようともしない。スィマーク(星座)へと至る道筋への希望も無く、いたずらに地の底を這いずり続ける - 弁論における知識には、魂など無いのだから。弁論における知識は、常に聴衆の賛同に飢えている。議論の場では生き生きと息を吹き返す。だが聴衆がいなければ、すっかり死に絶えて存在すらしない。彼の顧客は聴衆だ。だが私の顧客は神だ。御方は私を高き処へと誘いたもう。私を購いたもうは神である(コーラン9章111節)。私の捧げた犠牲には、栄光の御方の美こそが相応な報酬。(神からの)正当な報酬をこそ私は享受する。

2440. 一文無しの顧客など捨て去ってしまえ。たかだか一握りの、価値も無い土で何を購えるというのか?土を食べるな、土を買うな、土を求めるな。土を喰う者達は、いつも青ざめた顔をしている。食べるなら、自らの心をこそ食べよ、神への愛にひたした自らの心を。そうすればいつでも若々しくいられるだろうから。神の光に照らされて、頬も紅く染まるだろうから  - アルガワンの花のように」。ああ、主よ。この恩寵ばかりは我らにはどうすることも出来ない。御方の恩寵は我らの手の内ではなく御手の内にある。恩寵は、御方の為したもう神秘の御業次第なのだ。我らの手を取り、我らを導きたまえ。我らの手の内より、我らの仕事を購いたまえ。御方と我らを隔てるヴェイルを取り除きたまえ - だが我らを覆うヴェイルを剥ぎ取りたもうな、我らを恥辱にさらしたもうな。

2445. 哀れなナフス(我欲)から我らを救いたまえ!その短剣は、すでに我らの骨の髄にまで達してしまった。おお、王冠も玉座も持たずしてなお王たる御方よ!御方の他にいったい誰が、力無き我らを、この強靭な鎖から解き放てようか。御方の恩寵、御方の慈愛の他にいったい何が、この重い錠を開け放てようか。おのれにかまけてばかりのこの頭を、御方の方へのみ向けていたい。御方こそ、我ら自身よりもなお我らの近くに在るのだから(コーラン50章16節)。こうして捧げるこの祈りもまた我らの有ではない。祈りとは、それ自体が御方の恩寵であり訓戒に他ならぬ。美しい薔薇の園を育てるには、汚れた灰溜めの灰を必要とする。

2450. 御方の恩寵無くして、どうして理性を、どうして分別を運ぶことなど出来ようか - 血と臓物のぬかるみに過ぎぬ我らに!二つの眼球、この脂の塊。だがこれを通して光が差し込む、天にも届く光の波が。ちっぽけな肉片、この舌がゆらゆらと動けば、知識が奔流となって溢れ出してゆく。そして肉に穿たれた空っぽの穴。「耳」と名付けられたこの空洞が、魂の果樹園に通じている - 果樹園では思惟という名の果実がみのる。これこそが真の果樹園、ここへ至る道こそが真の道。現世の果樹園、現世の道とはその枝葉に過ぎない。

2455. あれ、あれこそが歓喜の泉。さあ、(書物を)詠め、これこそは「下を河川が流れる楽園(コーラン2章25節)」と。


続・ムスタファ(ムハンマド) - 平安は彼と共に - が、病んだ友を見舞った話

預言者は悩める友人を見舞いに訪れ、そして彼は病める者にこう告げた。「おそらく君は、ある種の祈りをしたのだろう。知らぬがゆえに、毒となる食べ物を口にしたのだろう。君が我欲に責め苛まれていた頃に、どのような祈りを口にしたのか思い出してごらん」。彼は答えた、「私には思い出せない。ですが(あなたの)精神の力をもってすれば、たちまち私の記憶の中から、それは浮かび上がってくることでしょう」。

2460. ムスタファの放つ光によって、かの祈りが彼の心に甦った。光をその住み処とする預言者が放つ光により、失われていたものが彼の心に戻ってきたのである。心と心の間にある窓を通じて、真実と虚偽とを分かつ光が流れ込んだ。彼は言った、「お聞き下さい、思い出しました、おお、預言者よ。不調法者の愚かさ故に、どんな祈りを捧げたのかを。罪の網に捉えられて溺れかかっていたときに、私は藁の切れ端を掴んだ。

2465. 同時に、罪人に下されるとてつもなく恐ろしい罰についての警告が、あなたから届けられてもいた。私は恐怖にかられた。鎖は硬く巻き付き、錠も開けることは出来ない - 私には、救いは無いのだ、と。忍耐の余地も、逃亡の余地も、希望も悔悛も、あるいは抵抗することも出来ないのだ、と。私はまるでハールートとマールートのように、苦しみ悶えた。『何ということか』、私は嘆いた、『創造の主よ、一体どうして私がこんな目に合わねばならないのか!』と」。 - (審判の日の)脅威を恐れたハールートとマールートは、進んでバビロンの洞穴に吊るされることを選んだ。

2470. 奸智に長け、知識に富み、魔術師のごとき彼らでさえこの通りだ - あの世で受ける罰よりも、この世で受ける罰の方を選び取ったのである。彼らの選択は上出来だ、それは悪くない選択だ。煙がもたらす苦しみは、煙を吹き上げる炎そのものがもたらす苦しみよりも、はるかにましだろうから。苦悩は、後回しにしないことだ。先の世での苦悩は、筆舌に尽くし難いものとなろう。比べれば、今この世での苦悩など取るに足らないものだ。ジハードを為す者 - すなわち苦悩を引き受け、自制し、自らを正しく律する者 - に幸いあれ。彼らは今ここ、現在において苦悩を自らの背に引き受ける、未来に待ち構える苦悩から自由になるために。

2475. 「私の祈りとはこうだ。『神よ、この世において今すぐ私を罰してくれ、あの世で私を免じてくれ』。私はそうした望みを抱いて、扉を叩き続けていた。やがて苦痛に満ちた病が私を蝕むようになり、私の魂は休息を得ることも出来なくなってしまった。黙想も、祈祷も私から遠のいた。私は私自身にも善悪にも関心が無くなってしまった - 痛みにさえも。もしも今、あなたの御顔を目にすることも無かったら、おお、香しき者よ、祝福されし者よ -

2480. 私はこの生との絆を、ぷっつりと断っていたことだろう。全く王者らしいなさりようで、あなたは気づかせてくれた」。預言者は言った。「ああ、君、二度とそんな祈りを捧げてはいけない。君自身を、自ら根こそぎ掘り返すようなことをしてはいけない。蟻のごとくかよわき君よ、御方が君の上に据えた巨大な山を、いったい君に持ち運ぶ力があるとでも思うのか」。彼は答えた。「ああ、わがスルタンよ。私は悔悟している。もう二度と、深く考えること無しに軽卒な口走りをすることは無いだろう。この世とは、かつてイスラエルの民が彷徨った砂漠のよう、そしてあなたは我らのモーセだ。我らは砂漠に留め置かれる、我らが犯した罪ゆえに。モーセの民は休みなく旅を続けた。しかし悲しむべきことに、旅の終わりにようやく辿り着いたかに見えた目的の地は、彼らが後にしたはずの出発の地でしかなかったのだ。

2485. 我らもまた、長いこと過ちを犯し続けている。我らは旅立ってすらおらず、同じ処に留まり続けている。もしもモーセの心が、我らに満足しているのなら、砂漠を渡り彼方の地平へと至る正しき道が、我らに示されることだろう。そしてまた、もしも彼が我らを不快に思い、我らを見限っているのなら、どうして天の糧を乗せた盆が、我らの許へと届けられるだろうか?いったい何故、岩を裂いて泉が溢れ出すのだろう?いったい何故、砂漠にあって我らは命を長らえていられるのだろう?否、否。本当なら、燃えさかる火が盆に乗せられていてもおかしくはないのに。本当なら、炎が我らの住処に投げ入れられてもおかしくはないのに。

2490. 我らについて、モーセの心には二つの判断があるのだろう。それで彼は、ある時は我らの敵となり、またある時は我らの友となるのだろう。彼の怒りは、炎となって我らの財を燃やす。彼の情けは、盾となって我らを苦悩から守る。どうすれば、彼の怒りを情けに転ずることが出来るのだろう。尊きおひとよ、あなたからこうして情けを得られるのだもの、それは決しておかしなことではないはずだ。たった今もこの世にある者を賞賛すれば混乱と騒擾を引き起すことになるだろう - それ故に、私は敢えてモーセの名をこうして引用することとしよう。さもなければモーセとて、こうしてあなたを目の前にしつつ、私が他の者の名を、誰かれ構わず引用して正しき者と口走ることを是とはしないだろう。

2495. 我らの誓いは幾千、幾万となく破られた。あなたの誓いは山のよう、堅くそびえて微動だにしない。我らの誓いは藁のよう、あらゆる風(欲望)の中で舞い散った。あなたの誓いは山のよう、その山ひとつで百の山にも優る。あなたの力の真実にかけて、おお、王よ、移ろいやすく変わりやすい我らを憐れんでくれ、おお、全ての変化を統べる者よ!我らは自らを恥と看做す - 王よ、これ以上は試したもうな。我らの過誤を隠したまえ、おお、最も慈悲深い御方よ。我らヒトは、あなたにこそ救いを求める。

2500. 善と完全において限り無いのが御方なら、我らヒトは、悪と過誤において限り無い。永遠を統べる御方よ、我らの上にその永遠を注ぎたまえ。恩寵に満ちた御方よ、か弱く卑しき我らの上にその恩寵を注ぎたまえ。 - おお、来たれ!我らという布は、もはや一筋の糸を残すのみ。我らという町は、もはや一片の壁を残すのみ - おお、主よ!これ以上、悪魔の魂を喜ばせたもうな。残された者を救いたまえ、せめて残された者を救いたまえ。我らのためにでは無しに、道を失った者達を見出し、御方が御自ら注いだ原初の愛にかけて。

2505. 御方よ、あなたはその威力を我らに示したもう。ならば同じように、どうかあなたの憐れみをもお示し下さい - 今すぐに!何となればこの肉の裡に、この血の裡に、こうして哀しみの情を埋めたもうたのも、御方よ、あなたに他ならないのだから!もしもこの祈りが、あなたのお気に召すものではないのなら、あなたのお怒りを増すものだと仰るのなら、御方よ、あなたのお気に召す正しき祈りを我らにお示しあれ、おお、主よ!アダムが楽園から転落した時でさえ、あなたは彼にあなたへと向かうことを思い出させたもうたではないか。そのようにしてあなたは、唾棄すべき悪魔から逃れる道を(アダムに)示したもうたではないか」。 - いったい悪魔とは何であったのか。チェス盤の上でアダムを打ち負かそうと試みた者。実際には、全てがアダムに有利となった。嫉妬深き者(悪魔)の上に、己の才覚が己の仇となって降り掛かった。

2510. 彼(悪魔)は己の目の前にある、たった一つの試合だけを見ていた。その後に控える二百の試合を見ていなかった。それ故に、たった一つの試合のために、自らの館を支える柱をなぎ倒してしまった。真夜中に、他人が丹精込めた麦畑に火を放った。風がその火を、自らの畑に運ぶことに思い至らずに。見るべきものが見えなくなる - これが悪魔を縛りつけている。呪縛とは、およそこのようなものである。ものごとが歪んで見え、誰もかれもが嘘をついているように感じる。妬み深くなり、自惚れが増し、恨みと復讐の念に凝り固まり、最後には何が善で何が悪なのかも見分けがつかなくなる。悪しき振る舞いをなす者に取り囲まれてもそれに気付かず、邪悪な行いを向けられてもそれに気付かなくなる。やがて自らが行った悪が、巡り巡って自らを損ねることになる。

2515. 勝敗の分け目という分け目を全て逆さまに読み違え、それ故に王手を詰まれる。それ故に敗れ続ける。しかしそれでも呪縛は解けない、その者が見ようとしない限りは。もしも自らを無と看做せるものならば、もしも自らの傷に気付けるものならば。もしも自らに欠けたものに気付けるものならば - 自らの傷が、欠けた視界が、やがては自らの致命傷となることに気付けるものならば!だが自らの内奥を注視すること無しに、自らの傷には気付けない。内観には苦痛が伴う。内省には苦悩が伴う。しかしこの苦痛、この苦悩を経ること無しに、(自意識の)胞衣を破ることは出来ない。母が産みの痛みを感じるまでは、赤子は生まれないのである。喩えるなら「信じる」とは、神により心が孕むこと、また(預言者達の)助言とは、良き産婆のことである。

2520. 産婆は母となる者に言うかも知れない、痛むことなど何もない、と。しかしそれでも痛むだろう。痛みは、赤子の生まれでる道を開くためにある。痛み無き者、苦悩無き者は盗賊である。苦痛無しでいようとするのは、「われは神なり」と言おうとするのと同じこと。「私」という言葉を、時と場所を選ばずに発すれば災いを招くことになろう。一方で、ふさわしい有り様で「私」という言葉が発せられれば、それは慈悲を引き寄せることになろう。マンスール(・ハッラージュ)の叫んだ「私」は、間違いなく慈悲となった。しかしファラオの叫んだ「私」は、災禍となった - この相違、しっかりと憶えて忘れることのないように!正しい時を弁えずに甲高い鳴き声を立てる雄鶏の、首を刎ねることが私達に課せられた義務である。

2525. 「雄鶏の首を刎ねる」とはどういうことか?雄鶏とは、私達自身の自我を指す。ジハードとは、己自身の自我の首を刎ね、感情の炎を鎮めること。蠍とて、毒針を抜き去れば殺されずに済むだろう。蛇とて、毒牙を抜き去れば石で打たれずに済むだろう。正しき導師の影(庇護)無しに、自我を葬り去ることは不可能である。欲望を屠る者(導師)の、衣の裾をしっかりと握って離れるな。あなたがしっかりと握りしめた時、救いは御方から差し向けられよう。あなたの内に力が湧き上がるなら、それは御方があなたを、御自らの方へ引き寄せたもう証しである。

2530. 「おまえが射とめたとき、射とめたのはおまえではなくて、神が射とめたもうたのである(コーラン8章17節)」 - この御言葉の真実を知れ。魂が蒔く全ての種は、魂を統べる魂より来る。助けの手を差し伸べたもうのも御方なら、重荷を背負わせたもうのも御方。希望を持て。希望を持つとは、一瞬、一瞬ごとに御方の吐息を受け取るということ。決して絶望してはならない、絶望すればそれはますます遠ざかってしまうから。何ひとつ恐れることはない、たとえあなたが、御方からどれほど長いこと遠ざかっていたとしても。あなたも読んだことがあるだろう、迷える罪深き者に差し伸べたもう御方の腕の長さについて、抱き寄せたもう御方の腕の力強さについて - 御方の慈悲はどこまででも届く。そもそもあなたがそこに在るということ自体が、御方もまたそこに在るということの証しである。この合一、この友誼について、もしも説明を欲するならば「朝にかけて」の章を詠め。

2535. あなたは神こそが悪をもたらすのだ、と言う。そしてその意見は正しい。しかしその意見をもって、神の完全さを否定することは出来ない。悪をもたらしたもうのもまた御方。しかしだからと言って、御方の栄光にいささかの疵もつくことはない。否、悪をもたらしたもうことは、むしろ御方の完全さを証明するものである - 友よ、これについての譬え話を語って聞かせよう。ある画家が、ふたいろの異なる絵を描いた - 美しき絵と、美に欠ける絵とを。一方には、美しきフーリー達に囲まれたヨセフを、もう一方には、忌まわしき者の群れを従えたイブリースを。そのどちらもが、この画家の技巧の素晴らしさを証明するものであった。美を欠いた、醜き絵を描いたからといって、描いた画家が美に欠けるということにはならない。美のみならず、醜き絵をも描けるということは、むしろ画家の才の豊かさを示す証しである。

2540. その画家は、醜きものは極限まで醜く描いた、徹底的に、完膚なきまでに暴き出すかのように。そうすることによって、画家は自らの完璧な技巧を知らしめたのである。そしてまた、そうすることによって、画家の技巧を否定する者達に恥辱を味わわせたのである。醜きものを描けぬようでは、画家としての技巧に欠けることとなる。影を描かぬ画家の絵に、どうして光を見出せようか。画家、 すなわち御方こそは創造の主。信じぬ者、信じる者、いずれもが御方による被造物である。と、このようにものごとを見るならば、不信仰も信仰も、ふたつながら御方の証言者である。ふたつながら御方に仕え、御方の御前にひれ伏している。だが知っておかねばならないことは、信じる者は自ら欲して御方にひれ伏すということである、信じる者が欲するのは神のご満悦であり、それをこそ目的としている。

2545. 信じぬ者も同じく神に仕えてはいる。しかし不本意ながらそうしているに過ぎず、別の何かを欲しており、目的は別のところにある。彼ら(信じぬ者)は、王の砦(心)を良き状態に保とうと修繕に修繕を重ねる。砦についての指揮権は、自らにあるのだと主張するためにそうするのである。砦を自らの支配下に置こうと、彼らは砦に立てこもり反逆者となる。けれど実のところ、砦は最後には王の許へと戻されるのだ。信じる者もまた、砦を良き状態に保とうと努める。だがそれは自らの支配権を主張するためでもなく、また自らの利得とするためにでもない。砦の、真の所有者である王のためにそうするのである。醜き者(信じぬ者)は言う、「おお、醜きものを創りたもう御方よ。美しく創ることもお出来になるというのに、醜きものを創るとは」。

2550. (信じる者)は言う、「おお、美しく麗しき御方よ。あなたは私を、疵ひとつなく創って下さいました」。 - 預言者は、病める者にこう言った。「こう言いなさい - 『困難を容易になさる御方よ。この世の住処において、私たちに良きものをお与え下さい。そしてまた、あの世の住処においても、私たちに良きものをお与え下さい。私たちの歩むこの道を、庭園のごとく心地よきものとして下さい。本当に、栄光の御方よ、あなたこそは私たちの目指すところです』」。(審判の日に)集められれば、真に信じる者たちは言うだろう -

2555. 「天使よ、天使よ。信じる者も信じぬ者も、同じ地獄の道を共に通り過ぎたのではなかったか?それなのに、辿り着いてみればここにあるのは楽園と安寧の宮廷だ。それでは、一体あの恐ろしい通り道はどこにあるのか」、と。すると天使がこう言うだろう - 「汝ら、ある時と処を通り過ぎるとき、緑に輝く庭園を見たであろう。あれは実のところ地獄であり、恐ろしき罰の場であった。しかし汝らには、あれは庭園となり、木々の繁る果樹園となった。内奥に地獄を抱え持つ不信の魂を相手に、汝らは良く戦った。

2560. 汝らは誘惑を退け、純粋なるもので自らを満たした。神を恋い焦がれることにより、我欲の炎を鎮めもした。我欲の炎は燃え盛ったが、それすらも汝らは真の信仰へと至る導きの光とし、緑輝く新芽へと育んだ。汝らの内側において、怒りの炎は忍耐となり、汝らの内側において、無知の闇は知となった。汝らの内側において、貪欲の炎は自己の鍛錬となり、汝らの内側において、嫉妬の棘は薔薇となった。汝らは何よりも先に、まず汝ら自身の内側に燃え盛る炎の全てを消し止めようと努めたのである - 神への愛において。

2565. 汝らは、燃え盛る我欲の魂を庭園のごとく整え、それから信仰の種を蒔いた。それ故に、汝らの庭園ではナイチンゲールもさえずっている - 神を想い、神の栄光を讃える歌を - 小川のほとりで、何の憂いも無く。汝らは、神の呼びかけに応えた。汝ら自身の魂の地獄に水を引き入れた。それ故に、我らが用意した地獄も、汝らにとっては緑と薔薇と、豊かな財となったのだ」。良き行いに対する報いとは何であろうか、年若き友人よ。良き行いに対する報奨とは、良き行いと良き思い、そしてそこに生じる価値ある結果である。

2570. あなた方は言わなんだったか、「我らは神に自らを捧げる。神の御名、その永遠の前にあっては、我らは消融する他はない」と。我らは悪党か、はたまた狂人か。いずれにせよ酌人と、注がれる杯に酔うた者には違いない。御方の命ずるがままに頭を垂れ、甘き生を御手に委ねる。友への想いがこの胸の裡にある限り、我らが為すべきことはただひとつ。ただ御身に仕えるのみ、我が身を捧げるのみ。懊悩の蝋燭に火が灯されれば、幾百、幾千の恋する魂がじりじりと焦がれて燃える。

2575. 館の内にいる愛する者たちも、まるで蛾のように友の顔を持つ蝋燭の周囲を巡る。おお、我が心よ。飛んでゆけ、明かりの傍へ。おまえへの愛に満ちたあの場所へ、苦難からおまえを守る帷子のようなあの場所へ。彼ら(愛する者)の裡に、あなたの魂の住処を得よ。彼らは、あなたという杯を葡萄酒で満たすことだろう。彼らの魂と共に在れ、おお、輝ける満月よ、大空をその住処とせよ!彼ら(愛する者)はあたかも水星のよう。彼らは心の書物を開き、あなたに神秘を明かすだろう。

2580. あなたには、あなたに似つかわしい友がある。それでいて、何故に遠く離れて彷徨うのか?あなたも月の欠片なら、完全なる月にしがみついて離れるな。部分は、何故に「部分」のまま留まろうとするのだろうか。何故に、「完全」から離れ去ったままであろうとするのか。一体、この混在は何なのか?異なる「部分」同士が、互いに道を塞ぎ合いひしめき合っている。見よ、かつてひとつであったものが、分化を経て異なる何かへと変容するのを。見よ、分化を経て異なる何かへと変容したそれらが、かつて不可視であったものを可視へと転じせしめるのを。世辞や追従を好む婦人のごとく、甘言ばかりを追い求める限り、おお、分別無き者よ、あなたは未完成な状態に留まることだろう。虚言や甘言から、どうして救いを得られようか?うわついた世辞や追従、耳さわりの良い言葉。あなたはそれらをいそいそとかき集め、あたかも黄金のごとく胸に抱きかかえる。

2585. 道を踏み外した者どもの誉め言葉よりも、魂を統べる王の罵声と打擲の方が、よほど価値あるものだというのに。魂の王の打擲を飲み込め。卑しき者の蜜を飲むな。相応の者の助力を得よ、いずれはあなたも相応の者となれるように。至福も、名誉の衣も彼らより手渡されるもの。精神の庇護の下で、肉体もやがては魂へと昇華する。落ちぶれて丸裸の者があったなら、それは師から遠く離れた者であることを知れ。その者がそうした有り様に成り果てたのも、その者自身の心が欲してのこと。無知であり続けること、悪意を持ち続けること、価値無きままに終えることを、その者自身が望んだのである。

2590. 師が望むところを望んでいたなら、その者も、その縁者達も、自らを讃えずにはおれなかっただろうに。およそこの世において師から離れる者は、自ら幸福を手放して遠ざかった者であることを知れ。あなたは肉体を維持するため、生計を立てるための仕事を学んだ。ならばこの次には更なる仕事、すなわち魂のための仕事に取りかかれ。この世において、あなたは身にまとう衣を手に入れ、食べてゆくための財も手にしている。しかしいずれはこの世を去り、あの世へと旅立つ時が必ずやってくる。その時、あなたはどのように振る舞うのか?これを学ぶこと、それが「次の更なる仕事」、魂の仕事の意である。あの世における神の恩寵を望むなら、この仕事を身につけよ。

2595. あちら側の世界は活気に満ちあふれ、やり取りも盛んな都である。こちらにおける商売だの、支払われる報酬だの、あちらとは比べものにならない。いと高き御方の御言葉を借りるならば、「この世など、まるで子供だましに過ぎぬ(コーラン29章64節、他)」のだ。まるで子供同士の児戯のよう。互いに抱きつき合いはしても、大人を真似ているだけで、真に交わっているわけではない。あるいはまた、子供同士がお遊びで、店の真似ごとをするようなもの。やがて日が暮れ、夜ともなれば、店番の役をしていた子供も腹を空かせて家へと帰ってゆく。他の子供たちも一人、また一人と立ち去って、そしてとうとう、たった一人で置き去りにされる。

2600. この世は遊び場、やがて死という名の夜が訪れる。財布は空っぽ、疲れ果てて家路を辿る。宗教があなたに支払う報奨とは愛であり、内なる高揚であり、神の光を受け取る能力 - 限りない成長 - である。おお、頑な者よ!これに比べて、あなたの抑制を好まぬ我欲が、あなたに何をもたらしただろうか?低き我欲が望むものと言えば、全てあなたの手からすべり落ち、消え行くものばかりではないか。捨てておけ!もう十分ではないか! - そしてまた、もしも低き我欲が、あなたに高貴なるものへ手を伸ばすよう唆すことがあるならば、背後には何かしらの策略があることを知れ。