熊の愛は愚者の愛

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

熊の愛は愚者の愛

竜が熊を(その顎へ)引きずり込もうとしていた。そこへ勇者が現れて、熊を助け出した。 - この世において、虐げられし者の嘆きの声あがれば、勇者は助けの手を伸ばす。彼らは四半刻ごとに嘆きの声を聞き、そちらに駆け寄り神の慈悲のような働きをする。

1935. この世に生じる裂け目を補い、目に見えぬ隠された病を癒し、汚れなき愛と正義、慈悲を行う。あたかも神であるかのように、(彼らは)完璧にふるまい、潔白そのもの、賄賂を受け取ることもない。もしもあなた方が「何故この者を助けたのか」と問えば、彼らは答える、「助けも無く悲しんでいたから」。この世において、薬が探し求めているのはただ(癒される必要のある)痛みのみ。それと同じで、愛と優しさは常に勇者を探し求める、彼により捧げられる犠牲となるために。何処であろうとも、痛みがあれば癒しが届けられる。何処であろうとも、低き地へと水は流れてゆく。

1940. 慈悲の水を欲するならば、低き処に自らを連れてゆけ - そして慈悲の葡萄酒を飲み、慈悲の葡萄酒に酔え。若者よ、たったひとつの慈悲にしがみつくな、たったひとつの慈悲で満足するな。おお、勇者よ、空をも引きずり下ろして自らの足許におけ!上を仰いで、天空の音楽の調べを聞け!あなた方の耳に詰め込まれる、邪な入れ知恵の綿を取り除け、楽園の音色を聞くために - あなた方の両目にかかる、瑕瑾の前髪を払い去れ、庭園の糸杉を見るために、目に見えぬ世界における計画の一端を知るために。

1945. 脳から鼻にからみつた喀痰を、きれいさっぱりと洗い流せ、(精神の)嗅覚の中枢を、神の風が通り抜けるように。いかなる類いの熱も、いかなる類いの癇癪も体内に残すな、甘美そのものの世界を味わうために - 男が不能のままで良い事などあるものか、薬を用いて治療せよ、女に歓喜を与えよ!あなた方の魂にからみつく足枷を取り除け - 魂の足枷となるもの、それは肉体である - 足枷から自由になった魂が、上がるべき真の舞台に上がり、互いに競い合えるように!あなた方の手、あなた方の首に嵌められた鎖を取り除け!古き楽園に眠る新しき宝を手に入れ、大いに楽しめ!

1950. そしてもしもそれが叶わぬならば、すぐさま神の慈悲のカアバ(方角)へと飛べ!いと高き援助者の前に、自らの無力をさらけ出せ - あなた方の悲しみ、あなた方の嘆き、あなた方の涙こそが、(神の援助を得るための)最も高い価値のある財なのだから。大いなる慈悲の御方は、慰めを与え、守り育てる大いなる乳母である。乳母も生母も、どうしたら手助けしてやれるだろうかと、きっかけを常に探し求めている。 我が子がぐずって泣き出すのを、今か今かと待っている。御方は「子供」を創りたもう ー 「子供」とは、すなわちあなた方が抱く必要であり、あなた方が抱く欲求である。そして「子供」が泣き出せば、満たすためのミルクが創られることだろう。御方は言いたもう、「汝らの神を呼べ(コーラン17章110節)」、と。涙を惜しむな、涙を堪えるな。悲しければ、誰はばかること無く嘆き悲しめ。そうすれば、御方の愛と慈しみのミルクがこちらへと流れてくるだろう。

1955. ごうごうと風が吹き、雲が孕んでいたミルクを雨のように降らし始める。それが私達への恵みだ - 待っていておくれ、もう少しだけ持ちこたえておくれ!(書物にあるのを)聞いたことはないか、「天には、おまえたちの糧や、約束されているものがある(コーラン51章22節)」。だのにどうしてあなた方は、低きこの場所を離れようとはしないのか?あなた方の恐怖や絶望とは、退廃という深い穴へ連れ込もうと、あなた方の耳を引っ張る悪鬼の声と心得よ。あなた方を高みへと連れゆく呼び声ならば、やはり高みの方から届くものである。だがあなたの裡に貪欲を目覚めさせる類いの呼び声ならば、それはヒトを八つ裂きにするオオカミの遠吠えである。

1960. ここで言う「高み」とは、物理的な位置としての「高み」を指すものではない。ここで言う「高み」とは、心と、魂の領域についてのものである。あらゆる原因は、それがもたらす結果よりも「高み」にある。(火を熾すための)火打石と鉄とは、それらが散らす火花よりも「高み」に位置づけられている。ある人物が、別のある人物の隣りに座る - 隣り同士で座っているように見えても、一方の人物の頭は傲然と高く上げられている。魂における高貴さという点では、その人物の方が高い処に座っているのである。魂の栄誉の席からほど遠いところにある席は脆く、そして弱い。火打石と鉄は、(火を熾すという)行為に先在する。その点では、この二つの優位性は明らかだろう。

1965. しかし火花は火花で、これを得ることが目的であると捉えるならば、その意味においては火打石と鉄よりも優位にあると言えよう。火打石と鉄がまず先に在る。そして火の粉は後に在る。(火打石と鉄の)二つは身体である。そして火の粉は魂である。時の流れからすれば、火の粉は火打石と鉄の後ろをついてくるということになる - しかしそれでもなお、価値からすれば火打石と鉄よりもはるかに優るのである。時の流れからすれば、木の枝は果実に先在する。(だが)価値という点からすれば、果実の方が木の枝よりも優れている。何故なら果実を実らせることこそが、木の目的なのだから。(時間、空間といった制限を超えてものごとを見れば、)果実こそが先に在り、木はその後ろをついてくるのである。

1970. 熊が竜から逃れようと助けを求めて叫んだとき、勇者は竜の爪からそれを救い出した。狡猾さと勇気とがお互いを手助けし合った。この強みにより、彼は竜を退治し得たのであった。竜には強さがあった。しかし狡猾さは持ち合わせていなかった。狡猾さ、ずる賢さというものは、上を見ればきりがない。もしもあなた方が自らの裡に狡猾さを見出したなら、それが何処から来たものか、試しに探ってみるといい。根っこに戻ってみるといい。何であれ、低きにあるものは高きより流れて来たものと知れるだろう。さあ、今度はあなた方の目を高きところへ向けるのだ。

1975. 高きところに目を向ければ光が与えられよう。最初は眩しく感じるだろう、まるで裁きにかけられたかのようなめまいを感じるだろう。あなた方の目を光に慣らせ。あなた方がコウモリでも無い限り、(光の)方角に目を向けよ。はるか彼方、視界のさい果てにあるものを見ようとすれば、見出せるのはただ光のみ。一刻の欲望こそは、あなた方の暗き墓である。さい果てを見る者、百の技を見る者は、たったひとつの技について聞きかじっただけの者とは訳が違う。そしてまた、たったひとつの技について聞きかじっただけの者ほど、それを誇りとし、それを自慢し、ますます師から遠ざかることになる。

1980. サーミリー(コーラン20章87-97節)を見よ。ちょっとした技を手にしたと同時に、それは彼の驕慢の種となり、彼はモーセに逆らうこととなった。彼はその技をモーセから学び、同時に師に対してその目を閉ざしたのである。もちろんモーセは別の技を披露した。そしてそれゆえに、サーミリーの手にした技と、サーミリーの命は二つながらに生を終えることとなった。ああ、才知ある者の多くはこれである - その才知が頭の中で鳴り響く、傑出した人物となって名を轟かせずにおられるものか、と。だが真実のところ、こうした者の多くが、自らの才知に引きずられるがままに生涯を棒に振って終わる。書物の知識を蓄えれば蓄えるほど、あなた方は権威を欲するようになる - 自らを見失うことの無いように!その才知を失いたくなければ、才知を蓄えたその頭を、足の裏ほどにも低きに置け。真の識別を得たクトゥブの庇護に自らを委ねよ。

1985. たとえあなたが王であっても、自らを彼よりも高きにある者だなどとは思うな。たとえあなたが蜜であっても、彼の砂糖黍を探し求めてそれを得よ。あなたの思考が単なる器なら、彼の思考は器の中身、魂そのものである。あなたの持つ金貨が贋金なら、彼は金の鉱脈そのものを握っている。実のところ、彼、すなわちあなたの師となるクトゥブとは、あなた自身なのである。彼の「彼自身」の裡に、あなたの「あなた自身」を探し求めよ。あなたはハトとなって「くう、くう」と鳴け。ハトとなって、彼の許へと飛んでゆけ。もしもあなた方に、ヒトの中の(聖なる)ヒトに仕える気が無いならば、あなた方は竜の顎の裡に捉えられているのだ、あの熊のように。師であれば、あなた方を引き上げ、あなた方を危機から救い出してくれることだろう。

1990. 力無く弱き者ならば、涙を流して嘆き続けることを止めてはならない。目の見えぬ者ならば、道が見えている者から離れ去ってはならない。それともあなた方は、熊にも劣る者だというのか ー 痛むなら、叫び声をあげて助けを求めよ。熊が苦痛から逃れ得たのは、痛みを訴え助けを求めたからだ。おお、神よ、石のごとく固くなってしまった心を、蝋のごとく柔らかにしたまえ!私達の嘆きを甘きものとしたまえ、あなたの下される慈悲にふさわしいものとしたまえ。


眼の見えぬ物乞いが「私は二重に盲いている」と訴える話

あるところに眼の見えぬ男がいた。彼はこう口にしていた、「お情けを!私は二重に盲いております。だから私の言葉に耳を傾けるときは、どうか二倍の情けをかけて下さい。それでどうにか、私は生きていけるようになります」。

1995. ある者が尋ねた。「おまえさんの眼が見えないのは分かる。一つめの盲目というのは分かるんだが、それとは別の、二つめの盲目というのはいったい何だね。説明してくれないか」。彼は答えた。「私の声の醜さです。私が泣けば泣くほど、人々は不快に感じ、情けの心が削がれてしまうのです。こんな醜い声では、どこの誰にも通じません - どこへ行ってもこの声は、怒りや不快、憎悪の元となってしまうのです。この通り、二重に盲いている者に、どうか二倍のお情けをかけて下さい。あなたの心の片隅に、ほんの少しだけ居場所を作って欲しいのです」。

2000. 彼の声の醜さは、この嘆きにより打ち消された。人々は心を同じくして彼に同情を寄せた。彼が秘密を打ち明けたとき - 自らの意図を明かしたとき - 心の声の美しさが、彼の声を美しくしたのである。もしも心の声が醜ければ、三重の盲目となり、それは(神の庇護からの)永遠の追放を招いただろう。それでも、見返りを求めず与える豊かな者(聖者)ならば、その手を彼の醜い頭の上に差し伸べるかも知れぬ。(盲いた物乞いの)声は甘く儚げなものとなり、無情な者の心をも蝋のように柔らかくした。

2005. 信仰無き者の嘆きはロバの嗎きのよう、喚き散らすだけでは、好意ある反応も賛同も得ることは出来ない。醜き声の(信仰無き)者に対しては、「さがれ、われにものを言うな(コーラン23章108-110節)」と(コーランの啓示が)下されている通り。何故なら彼らは野良犬のごとく人々の血を啜る。熊の嘆きは同情を引き寄せた。だがあなた方の嘆きはそうはならず、不快を生じせしめている。知れ、かつてあなた方はヨセフに対するオオカミのごとく残忍に振る舞い、罪無き人々の血を飲み干した。まずは自らの罪を悔悟せよ。飲んでしまったものを全て吐き出し、自らを空にせよ。もしも癒されぬ古い傷があるのなら、その傷を手当てすることから始めよ。


続・熊の愛は愚者の愛

2010. 間一髪のところで竜から救い出され、勇者から親切を受け取ったこの熊も、(竜と闘う)重荷を引き受けてくれた命の恩人の後ろを、あたかも洞窟の眠り人(コーラン18章9節)の番犬のようにのそのそとついてやって来た。さすがのムスリム(勇者)も疲労困憊しており、休息を得ようと体を横たえた。熊は忠誠心を働かせ、横たわる男の見張り番となった。するとそこへ一人の男が通りかかり、彼に尋ねた、「一体、これは何ごとか?おお、兄弟よ、この熊ときみにどのような関わりがあるのか」。彼は、竜から熊を助け出した冒険について語って聞かせた。通りかかった男は言った、「馬鹿なことを!きみの心を熊に預けるだなんて、絶対にしてはいけない。愚者の友誼は、愚者の敵意よりもなお悪い。知り得る限りのあらゆる手立てを使ってでも、きみは熊を追い払うべきだ」。

2015. 彼(熊と共にいた男)は独り言を言った。「神にかけて、彼は嫉妬しているに違いない。さもなければ」、今度は大声で言った、「何故きみは、こいつの獣性にばかり目を向けるのか?ごらん、こいつがどれほど私になついているか!」。「もちろん、良くなついているとも。獣性の持つ愚かさがそうさせているのだ」、男は答えた。「『愚者の愛は虚偽の愛』とも言うぞ。そいつの友誼よりも、私の嫉妬の方がきみにとってはよほど役に立つはずだ。さあ、私と一緒に来たまえ。そして熊を追い払いたまえ。「熊を友に選ぶのはやめたまえ。きみと同類の者の言葉を聞き入れたまえ。きみと同類の者を裏切るな」。「行け、あっちへ行ってくれ」、彼は言った、「きみには関係の無いことだ、嫉妬深いやつめ!」。男は言った、「大いに関係があるとも - いや、あったとも!

2020. しかしきみの運命は、私の忠告に従わぬよう定められているらしい。おお、貴公子よ。私は、熊に劣る者ではない。そいつから離れろ、私がきみの仲間になるから。私の心は、きみを案じて震えている。このような熊と、森へなど決して入ってはいけない。私の心がこれほどまでに騒ぐとは、今の今まで一度も無かったことだ。これこそ神の光だ、決して大げさに言っているのでもなければ、こけおどしで騒ぎ立てているのでもない。聞いてくれ、私は神を信じる者、神の光によって物事を見ている ー ご用心、ご用心!炎に包まれた寺院から今すぐに離れよ!」。男はそう語りかけたが、彼の耳には何ひとつ入らなかった。疑念とは、かくも厚い壁となってヒトとヒトとを隔てるのである。

2025. 男は彼の手を取った。だが熊と共にある男は、自らの手を男から引っ込めてしまった。男は言った、「ならば私は立ち去ろう。どうやらきみは、導きを得た友ではないようだ」。「行け、行ってしまえ」、彼は叫んだ。「邪魔をしないでくれ。くどくどとうるさいやつめ、お説教の押し売りは沢山だ」。男は答えた、「私はきみの敵ではない。私を助けると思って、どうか私と一緒に来てくれないか」。「疲れているし、眠いんだ」、彼は答えた。「放っておいてくれ。あっちへ行ってしまえ!」。男は答えた、「私は祈ろう - きみの友に従いたまえ。そうすれば、きみは賢者の庇護の下で安らかに眠りにつけるだろう。愛されし者の、心ある者の庇護の下で」。

2030. 男の生真面目さ、誠実さに、彼は根拠無き妄想を走らせた。彼は怒り出して顔を背けた。彼は考えた  - 「ひょっとするとこの男、攻撃を仕掛けてくるかもしれない。もしや殺人鬼ではあるまいか。でなければ、何か下心があるに決まっている ー 物乞いか、客引きに違いない。あるいは仲間と賭けごとでもしているに違いない。怖がらせることが出来たら、こいつの勝ちなのだ」。彼の心にある底意地の悪さのために、彼の考えの中には、善なる推量はただのひとつも生まれることはなかった。彼の推量のうち善なる部分は、いまや全て熊に傾けられていた。確実に、彼は熊と同類になっていた。

2035. 卑しき性質が賢者への疑念を抱かせ、熊の方をこそ愛情豊かで誠実な者と見なさせたのである。


黄金の子牛

モーセ - 平安が彼と共にあらんことを! - が、(黄金の)子牛を崇める者に告げた言葉について。「汝の抱く無駄な疑念が、何を招いたか見るが良い。汝の講じた策とやらが、何を招いたか見るが良い」。根拠無き妄想に酔った(欺かれた)者に、モーセは言った。「おお、邪悪な思考に耽る者よ、祝福の替わりに破滅を得ようとする者よ。崇高なる摂理と、数々の証拠を示されたにも関わらず、私の預言者性について、おまえたちは未だに百の疑惑を抱いている。幾百、幾千もの奇跡を、私は示したはずだというのに。だがその間も、おまえたちはおまえの内側に、幾百、幾千もの妄想と、疑惑と、無駄な主張ばかりを育ててきたのだ。妄想と、悪意に満ちたそそのかしに、おまえたちはすっかり押しつぶされた。その挙げ句に、私の預言者性を嘲笑するようになったのだ。

2040. ファラオの民による不正義から救い出そうと、私はおまえたちの眼前で大海原を飛沫と共に断ち割ってみせた。四十年の間、天からは食物の皿と盆とが届けられ、また私の祈りによって岩からは川が流れ出でた。奇跡の上にも数え切れぬ奇跡が重なり、ありとあらゆる証明がなされた。だがそれでも、未だにおまえたちは無駄な妄想や無益な憶測と縁を切ることが出来ないでいる。なんという冷たいやつ!なんという情けないやつ!魔術を通じて、子牛は産声を発した。たちまちおまえたちはひれ伏して拝み、言ったのだ、『おお、汝こそはわが神』と!妄想はあたかも洪水のように押し寄せ、浅はかなおまえたちの思慮はすっかり眠り込んでしまった。

1945. おまえたちの抱くその疑念、何故にかの魔術師(サーミリー)に向けることはしなかったのか?おお、醜き者よ、何故におまえたちはそのようにして、頭を地べたにこすりつけているのか?彼の詐術に思い至らず、愚者を捉える魔術がもたらす堕落に気づきもしないとはどうしたわけか?一体、サーミリーとは何者か理解しているのか?ヒトの世に「これが神だ」と、像を刻む者の正体を考えもしないのか、卑怯者め!彼の詐術にやすやすと引っかかり、すっかり彼と心を同じくし、真に乗り越えねばならぬ難問については、全て知らぬ存ぜぬで通すつもりか?自惚れを味わわせてくれるなら、崇めるものは子牛でも構わないというわけか?その間も、こうして私は預言者に課された百の使命に仕え続けているというのに!

2050. 無知と愚鈍を通じて、おまえたちは子牛の前に身を投げ出し崇拝した。おまえたちは自らの理解力を、サーミリーの魔術の犠牲に捧げてしまった。栄光の御方の光から、おまえたちは自らの目を盗み出した。そこにおまえたちの愚かさの原因があり、破滅の原因がある。なんという浅はかな理解か。なんという愚かな選択か。おまえたちのような愚劣の鉱脈など、断ち切ってしまうのが相当だ。黄金の子牛が産声を上げるとき、教えてくれ、子牛は何と言ったのか?教えてくれ、何がおまえたちの胸の内に花開かせたのか?愚者が欲望を抱くとき、それはどのような音を立てるのか。それよりもっと素晴らしい奇跡の数々が、私を通じて起きるのをおまえたちは見ていたはずなのに - 全ての下劣な悪人が、必ず神を受け入れるわけではないにしても」。

2055. 価値無き者どもを夢中にさせるものとは何か?価値無きものである。低俗な者どもを夢中にさせるものとは何か?低俗なものである。ありとあらゆるものは、それ自身の同類と引き寄せ合っている。どうして雄牛が、猛々しい獅子についてゆくだろうか?やがてはむさぼり食ってやろうという目的をずる賢く隠すため以外に、オオカミがヨセフに親切にする理由は無い。貪欲から解放された者のみが、真に親密な間柄を築くのである。かの洞窟の犬(コーラン18章9節〜)も、終にはアダムの末裔の一人となるのだから。 - ムハンマドと初めて対面した時に、アブー・バクルは言った、「これは嘘をつく者の顔ではない」、と。

2060. けれどブー・ジャフルは(ムハンマドの)同類ではなかった。月が割かれる(コーラン54章1節)のを、彼は百も目撃したが、それでも信じようとはしなかった。神を愛する者は悲嘆にくれる者。まるで屋根(大空)の上から、気に入りの器を落とされてしまった者のように。たとえ彼から、起きてしまった出来事を隠そうとしても、隠し通すことは不可能だ。けれどものを想わぬ者、(愛の)悲しみを知らぬ者は、目の前で(器が屋根から落ちるような)出来事が起きようが、破片が飛び散ろうが、まるでおかまい無しだ、何しろ何ひとつ見えていないのだから! - 心の鏡は常に磨き浄めよ、美しきものと醜きものの分別をつけるためにも。


続・熊の愛は愚者の愛

かのムスリムは愚者の許を去り、唇に「ラー・ハウラ(ご加護を!)」と唱えつつ、急いで自分の住処へと帰った。

2065. 彼は言った、「私は真剣に忠告と異議を唱えた。しかし唱えれば唱えるほど、彼は無益な妄想を後から後から生じさせるばかりであった。そのため、忠告と助言の道筋が塞がれてしまった。やむを得ぬ、『彼らに背を向けよ(コーラン32章30節)』とも命ぜられているのだから」。あなたの治癒で病が悪化するようなら、(治癒を拒む患者の許を去り)真実に耳を傾ける者に向けてあなたの話を語れ。「Abasa(眉をひそめる)」の語で始まるコーランの章(80章)を読め。目の見えぬ者が真実を探し求めている時に、その貧しさゆえに、(彼を追い払い)彼の胸を傷つけるようなことがあってはならない。 - あなた(ムハンマド)は、貴人たちが正しき道(イスラム)を受け入れることを渇望していた。大衆が、統治者から学ぶだろうと考えた。

2070. おお、アハマド(ムハンマド)よ。あなたの目には、貴公子たちの集まりは(あなたの)話を聞く用意が出来ているように見えていた。そしてそれは、あなたを喜ばせ、期待を抱かせるものであった。ひょっとすれば彼ら族長たちは、宗教(イスラム教)の良き友となるかも知れない。アラブ人たち、アビシニア人たちの支配者として、彼らの名声はバスラやタブークにまで届いている。「人々は、彼らを統べる王の宗教に従うもの」。 - それ故に、あなたは正しき方向へと導かれてやって来た目の見えぬものから、あなたの顔を背けたのだ。そしてあなたはこう彼に告げた、「(初対面の者ばかりの)この集まりは、実に希少かつ貴重な機会なのだ。あなたは、私の友の一人であることに変わりない。だがあなたには、時間は十分にあるだろう。

2075. あなたは私の都合に構わず、私に催促する。それについて、私はあなたに訓告しておく - だが怒っているのでも、争っているのでもない」。おお、アハマドよ。神の御目には、たった一人のこの目の見えぬ者の方が、百人の皇帝、百人の高官よりも優れていた。注意深くあれ。思い出せ、「人は鉱山である」(との格言を)。たった一つの鉱山が、幾百、幾千もの鉱山にも優ることもある。ルビーや紅玉を隠し持つ鉱山は得難く、無数の銅の鉱山よりも価値がある。おお、アハマドよ。ここにおいて、富は何の役にも立たない。求められているのは胸の裡なのだ - 愛と痛みと、溜め息に満ち満ちた胸の裡が。

2080. 光もて照らされた心を持つ、目の見えぬ者が訪れたのである。扉を閉ざしてはならない。助言を与えよ、彼には受け取る権利があるのだから。もしも幾人かの愚か者があなたを信じなかったなら、甘き蜜の鉱脈たるあなたは、どれほど苦い思いを味わうことだろう。もしも幾人かの愚か者があなたを嘘つきと責め立てるなら、その時は神があなたに恩恵もて証しを立てるだろう。 - 彼(ムハンマド)は言った、「私は、この世に認められようとは思わない。神を証言者とする者が、どうして世間を気にするだろうか?もしもコウモリが何かしら良きものを太陽から受け取ったならば、それは真に太陽ではなかったことの証しとなろう。

2085. 浅ましきコウモリが私を嫌悪するならば、それは私が輝ける栄光の太陽であったことの証しとなろう。カブトムシが、そこにあった薔薇水を欲したなら、それはそこにあった薔薇水が薔薇水ではないことの証しとなろう。贋金が、そこにあった試金石を欲したなら、それが真に試金石であるか否かを疑う必要が生じるだろう。盗人は夜を欲する、昼ではなく - 忘れてはならない!思い出せ、私は夜ではなく昼だ。それ故に、全世界において私は輝く。私には思慮がある。私には死角はない - まるで編み目の詰まった籠のように、藁一本も私を通り抜けることは出来ない。

2090. 私は小麦粉からふすまを取り分ける、何が(外側を覆う)形であり、何が(内側に潜む)質であるかを知らしめるために。私はこの世における神の天秤である、軽きものを重きものから取り分けるために。子牛は雌牛を神と看做す。ロバににとっての神とは、世話を焼き、欲するところを与えてくれる者だ。私は雌牛ではない。子牛に好かれる必要はない。私はアザミではないラクダに、物欲しげに求められる謂れはない。敵は私を負傷させたものと思うことだろう - 否。彼(敵)は、ただ私の鏡から塵を拭い取ったに過ぎないのだ」。


ジャーリーヌースと狂人

2095. ジャーリーヌース(ガレノス)が彼の胞輩達に向かって言った、「誰か、これこれしかじかの薬を持ってきてくれ」。すると(そのうちの)ある者が彼に言った、「おお、諸科学に精通する人よ、その薬は狂人の治療に用いられるものです。あなたの知性には何の関わりもありません。そのようなもの、どうぞお捨て置き下さい」。彼は答えた、「一人の狂人と出会ったのだ。彼は嬉しそうに私の顔をまじまじと見つめると、目を細めて私の袖を引き千切った。もしも私の中に、彼との関わりが何も無いならば、どうしてやまいに愛されたあの男が、私に顔を向けただろうか?

2100. 彼が彼と同種の何かを私の中に見出したのでなければ、どうして彼が私に近づくだろうか?どうして彼が、自分とは異なる者に自らを委ねるだろうか」。 - 二人の者が互いに近づき合い、触れ合ったなら、彼らの間に何かしら共通するものがあるということは疑う余地の無いことだ。鳥が仲間無しに空を飛ぶだろうか?相容れぬ者同士が集まったところで、墓石が立ち並ぶ墓場のような世の中になってしまうだろう。


鳥は仲間と飛ぶ

ある賢者がこう語った。「私は、カラスがコウノトリと共に駆け回っているのを見た。しばらくの間、私は驚きを禁じ得なかった。そこで私は、この事例について調べることにした。彼らを互いに引き寄せ合っている共通点について、何か手掛かりはないかと考えたのである。

2105. 驚き、戸惑いつつも私は彼らに近づいた。そこで私は確かに見たのである - 彼らは、いずれも足が不自由だったのだ」。 - 最も高き空に住まう王者のタカが、最も低き地に住まうフクロウが、どうして互いの配偶になるだろうか?一方は太陽のイッリッユーン(賞賛)、また一方はスィッジーン(監獄)に属するコウモリである。あちらが瑕ひとつ無き先覚者なら、こちらはあらゆる扉を叩いてまわる物乞いである。あちらは月、あれの放つ光はプレイアデスにも届く。こちらは虫、糞の周囲から決して離れようとはしない。

2110. こちらはヨセフの顔を持つ者、イエスの吐息のごとき者。一方のこちらはオオカミのよう、頸に鈴をつけられたロバのよう。あちらは空間を超えて飛翔する者、一方のこちらは犬のように藁小屋に繋がれている。無言のうちにバラが蠅に語る、 - 「おお、悪臭を放つ虫けらよ。おまえがバラのつぼみを厭うて離れ去りさえすれば、それこそがバラ園の完成のしるしとなるものを。私自身を守るためにも、尊厳の棍棒もて私はおまえの頭を打とう。おまえに警告する、おまえはすぐさまここから遠く離れよ、おお、悪きものよ、低きものよ。

2115. おまえと共に過ごしていたのでは、まるで私がおまえの身内かのように思われてしまう。庭園はナイチンゲールにこそふさわしい。だが蠅よ、おまえに最もふさわしい住処は糞の中ではないか」。 - 神は私を汚れから守りたもう。ならばどうして御方が、汚れた者を私の仲間に引き入れたりするだろうか?御方は、彼らを私から切り離したもう。ならばどうして悪の静脈が、私の許へなど流れ来るだろうか?原初より、アダムに示されているしるしのひとつがまさしくこれ。天使達は彼(アダム)の前にその頭を垂れてひれ伏した。何故ならそれこそが、本来より彼に備わった尊厳にふさわしいからだ。

2120. そしてもうひとつのしるしはイブリース(悪魔)である。「我こそは王、我こそは高位にある者」、彼はそう言って彼(アダム)の前にひれ伏すことはしなかった。だがもしも悪魔が(アダムの前に)ひれ伏し、崇拝の姿勢を取っていたならば、彼(アダム)はアダムとはなっていなかったことだろう。アダム以外の何ものかになっていたことだろう。あらゆる天使達が彼にひれ伏すということ、これは課された試練であった。そして敵(悪魔)による否定、これは彼(アダム)の存在の証明であった。天使達による信認は、アダムにとって有利な証人である。そして同時に、卑しき野良犬(イブリース)による不信認もまた、アダムにとって有利な証人なのである。


続・熊の愛は愚者の愛

- さて、話の続きを終わらせよう。熊のとなりに横たわり、男は深い眠りに落ちた。男のとなりで寝ずの番をしつつ、熊は飛び回る蠅を追い払ってやった。

2125. 寝ている若者の顔から、熊は何度も蠅を追い払ったが、蠅もまた何度でもすぐに戻ってくるのだった。繰り返すうちに熊はだんだんと蠅に怒りをおぼえ、ついに限界に達してしまった。熊はその手に石を拾った。それは大きな、山を切り出したかというほどの石だった。熊が石を握りしめたその時、またしても蠅が、「ここはおれの居場所だ」と言わんばかりに寝ている若者の顔にとまった。熊は蠅を追い払おうと、手にしていた石を蠅めがけて勢いよく振り下ろした。蠅はつぶれて死んだ。男の顔は芥子粒よりも細かく砕け、格言と共に世界中へ飛び散ることになった -

2130. 「愚者の愛は熊の愛/熊の愛は愚者の愛/愚者の愛は憎悪ともなり/愚者の憎悪は愛ともなる」。彼の約束は虚偽に満ち、意味も真実もありはしない。言葉ばかりは大仰だが、行為は虚しくあてにならない。たとえ彼が誓いを立てようとも、決して信用してはならない。虚偽の言葉を重ねる者にとり、誓いを破ることなど雑作もないことなのだ。

2135. 誓おうが誓うまいが、そもそも彼の言葉は嘘いつわりなのだ。そのような者の甘言や誓いに、決して惑わされてはいけない。彼を統べるのは彼の我欲であり、彼の知性もまた我欲の虜囚となっている。たとえ十万冊のコーランを前に誓ったとしても、誓う以前から約束を破るような者だ。誓えば誓ったで、それを破ることに躊躇する者ではない。我欲とは、重い誓いで縛ろうとすればするほど、ますます怒り出して手に負えなくなるものなのである。虜囚(我欲)が看守(知性)を鎖に繋ごうと企んでいる事に気付いたなら、すぐさま虜囚を潰して追い出さねばならない。鎖を彼らの頭に叩きつけ、誓いもて彼らの顔を砕かねばならぬ。手を洗い浄めよ(無駄な希望を捨てよ)、彼らを従わせることなど決して出来ないのだから。言うな、「おまえたちの誓いを守れ(コーラン5章89節)」と。二度と言うな、「契約は必ず果たせ(コーラン5章1節)」と。

2140. 真に約束を守る者、自らの主を知る者ならば、御方の傍にしがみついて離れない。従って、汚塵の領域に足を踏み入れることも無いだろう。