もしも水が……

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

もしも水が……

コーラン詠みの先生が、書物をめくりめくり詠んでいた。「…『もしもおまえたちの水が、地中に吸い込まれたとしたら(コーラン67章30節)』。それはつまり、もしも御方が、水が泉に至るのを塞き止め、泉を乾かせ干上がらせたとしたら何となるか。

1635. そうなったとすれば、『…泉の水を沸きださせたもうのは、いったいどなたか(コーラン67章30節)』。比類無き御方の他に誰があろうか?御方に称賛あれ、御方に称賛あれ」。ちょうどその時、学び舎の傍を、論理好きの卑しい哲学者が通りかかった。(コーランの)その節を耳にした彼は、不同意を表明すべく言った、「つるはしを使って、私達が水を呼び戻せば済むことだ。鋤で掘り起こし、鋭い斧を使えば、水は地下から湧き上がってくる」。その夜、彼は眠りにつき夢を見た。夢の中に一人の雄々しい男が現れ、彼の顔面に一撃を食らわせた。彼の両目は、たちまち見えなくなってしまった。

1640. 男は言った、「下衆め。汝の語ることが真実ならば、鋭い斧もて視覚の泉を掘って光の水を得るがいい」。日が昇るころ、彼は目覚めて跳び起き、両目が見えなくなっていることに気付いた。彼の両目から湧き出ていた光は、跡形もなく消え去っていた。もしも彼が嘆きつつ(神の)赦しを乞うたなら、消え去った光も(神の)慈悲を通じて再び戻ったことだろう。だが「赦しを乞う」とは、一種の力であり強さである。「赦しを乞う」ということ自体、私達の手でどうにかなるものではない。悔悟の味というものは、全ての酔漢に振る舞われる菓子ではない。彼の不正な行いや、彼の(真実に対する)否定が招いた真の災いとは、彼の心から悔悟という手法を締め出し、彼の心を閉ざしてしまったことである。

1645. 彼の心は岩肌のごとく固くなってしまった。こんなにも固い岩肌に、どうして悔悟の種子を蒔くことなどできようか?シュアイブ1のような人はどこにいるのか、祈りもて山肌をも畑となすような - かの「友(アブラハム)」は、悔悟と強い信仰をもって困難を容易とし、不可能を可能とした。あるいはまた、ムカウキス2は、預言者への請願をもって石ころだらけの痩せた土地を実り豊かな農地とした。だが反対にヒトの不信と疑念は、金を銅に、平和を戦争に転じてしまう。

1650. 虚偽の背後には、邪悪な変化がついてくる。耕された土地を、岩と砂利にしてしまう - 全ての心が、祈りの裡に横たわることを是とするわけではない。聖なる慈悲は、雇われ者全てに割り当てられる賃金のごときものではない。用心せよ!「私は悔悟する、私は神に赦しを乞い願う」と考えていさえすれば、悪事に手を染めることも無ければ罪を犯すことも無い、などとは思うな。悔悟というものはしようと思ってするものではない。それは知らぬうちに内側から溢れ出してくる輝きだ。それは止めようのない洪水(涙)を連れて来る。真の悔悟には、雷鳴と雨雲が必ずや付き添ってやって来る。果実の成熟に火(熱)と水とが必須であるように、完成には雷鳴と雨雲が必須なのだ。

1655. 雷鳴が心に轟き、両の目に雨雲が訪れなければ、どうして聖なる脅威と憤怒の炎が和らげられるだろう?どうして緑が繁るだろう - 緑の草原が、合一の歓喜が育つだろう?どうして玲瓏たる泉の水が沸き出すだろう?どうして薔薇の花壇が、彼らの秘密を庭園に告げるだろう?どうしてスミレが、ジャスミンと契りを交わすだろう?どうして鈴掛の木が、その手を、その葉を広げて祈るだろう?どうして木々が、空に向かい梢を張るだろう?どうして花々が、春の季節に袖を一杯に広げて惜しげもなく咲きほころぶだろう?

1660. どうしてアネモネの花がその頬に、血の色を透かせて炎のように赤らむだろう?どうしてバラの花が自らの財布を裏返し、持てる黄金の全てを使い果たすだろう?どうしてナイチンゲールが、バラの香りを求めて訪れるだろう?どうしてヤマバトが「くう、くう」と鳴くだろう、あたかも何かを探しているかのように - そしてまた、どうしてコウノトリが「らく、らく」と鳴くだろう、あたかも魂の全てを込めているかのように。3「らく、らく」とはどういう意味か?「王国は御方の有なり、おお、御救いの主よ」、という意味だ。どうして大地が、一番奥深くに隠していた秘密を表わすだろう?どうして庭園が、まるで晴れ渡る大空のように輝くだろう? - 彼らがまとうその「衣裳(美徳)」、いったい彼らは何処から得たのだろう?彼らは全てを、ただ<ひとつ>の御方、寛大なる御方、慈悲深い御方から得ている。

1665. これらの優しく気高きもの全てが、証言者のしるしである。しるしのあるところ、(神の)道を歩む者の足跡がある。自らの王を知る者は、しるしを見出して歓喜にうちふるえる。しかし相見えたことの無い者は、それらをしるしと知ることも無ければ、しるしがあることにさえ気付かない。その魂が「われは…(コーラン7章172節)」の瞬間を、一度でも迎えたことのある者ならば、主に相見え、我を忘れ、酩酊の味を知ったことだろう - かつて味わった葡萄酒の芳香を、魂が憶えているのである。しかしそれを飲んだことの無い者には、その芳香が嗅ぎ分けられない - 知とはあたかも迷えるラクダのよう。そして迷えるラクダは仲介者のよう、自らを見出した者を、持ち主である王の許へと導くのだ。

1670.  - あなたは夢を見る。夢の中で、感じよく微笑む誰かに出会う。その誰かがあなたに約束をする、あなたの願いごとが叶うという約束を。そしてそのしるしが、あなたの許を訪れ、通り過ぎて行くだろうと告げる。しるしとはこうだ - 明日あなたはある人物と出会うだろう。その人物は馬に乗っているだろう、これがひとつめのしるし。その人物は出会うなりあなたの心を鷲掴みにするだろう、これがもうひとつのしるし。その人物はあなたの前で微笑むだろう、これがもうひとつのしるし。そしてもうひとつのしるしに、その人物はあなたを自らの胸へと抱き寄せるだろう。そして最後のしるしはに、明日が来ても、あなたは誰にもこの「しるし」について話すことはないだろう - もちろん、あなたは喜んでそうするだろうけれど。

1675. 最後のしるしについて。神はヤフヤ(洗礼者ヨハネ)の父ザカリヤに告げたもう、「これから三日間、汝は話すことなかれ。三晩の間は沈黙せよ、汝の益と、汝の病のために。このしるしを守れば、ヤフヤは汝の許で生まれるだろう。三日の間、一言も口にするな。沈黙は充足のしるし、満足のしるしとなるだろう。用心せよ!このしるしについて、汝は語るな、このしるしにるいて、汝の心の奥深くに隠しておけ」。夢に見られる者は、夢を見る者にしるしについて甘く語りかける、しかしこのしるしとは何であろうか?一度しるしを胸の奥深くに隠せば、続いて百の、千のしるしが語られるだろう。

1680. 後に続くそれらは、あなたが探し求めていた魂の王国と力を、神が授けたもうであろうというしるしだ。長い夜を絶えず嘆き悲しみ、夜明けの時を燃えるような思いで乞い願い、探し求めるものの不在に昼は暗闇となり、首は糸巻きのようにか細くなり - かつてあれほど執着した自らの所有を全て施しに費やし、あたかも賭博場で全てを賭け、全てを失った者のように。財産も睡眠も投げ捨て、肌の色も健やかな髪も投げ捨て、髪の一筋ほどにも衰える。

1685. まるで沈香のごとく繰り返し火の中に座し、まるで甲冑のごとく繰り返し剣の一撃を受ける - 数え切れぬほどのこうした行いを、(神に)恋する者は身の習いとしている。彼らはこうした行いに、報いを求めることもない。 - 夜に見た夢の後で、朝が訪れる。あのような夢を見て期待に胸は膨らみ、今日という日が誇らしくてたまらない。あなたは目を左に、右にと動かして、正しくしるしを見分けようとする。一枚の葉のようにふるえて言う、「ああ!日が沈む前にしるしを見出せず、通り過ぎてしまったらどうしよう!」。

1690. あなたは道に飛び出し、市場を巡り、家々を覗く、まるで仔牛を失った者のように。誰かが尋ねる、「何か良い事でも起きるのかい?何であちこち走り回っているんだい?失くしものでもしたのかい?」。「良い事が起きるんだ」、あなたは言う、「だけど私以外の誰にも、そのことを知られちゃいけないんだ。もしも言ってしまったら、しるしは消えてしまうんだ。そしてしるしが消えてしまったら、後は死ぬのを待つしかないんだ」。あなたは馬に乗る者の顔を覗き込んで廻る。誰かが言う、「何をじろじろ見ているのか。あっちへ行け、狂人め」。

1695. あなたは言う、「友を失ってしまったのです。それでこうして、探し求めているのです。あなたに幸運あれ、恋する者を哀れと思って、どうぞお許しを!」。あなたは真剣に探し求める、真面目に、一生懸命に。「真面目な努力というものは失敗することはない」 - 不意に祝福されたる馬上の者が出現する、預言者の伝承がそう教える通りに。あなたの手を握り、自らの胸の近くへと引き寄せる。あなたは無我夢中となり、天にも昇る心持ちとなる。(それを見て)無知の者が言う、「何という欺瞞か、何という偽善か」。

1700. 恍惚の裡にある者の、その情熱の源が何であるかを知らないのだ。<合一>の相手が誰であるか、しるしを見ることが出来ないのだ。しるしは、見せられた者にしか分からない。見せられたことのない者、見たことのない者としるしを分かち合うことは出来ない。一瞬ごとに、御方はしるしを送り届けたもう。一瞬ごとに、それは新たな魂となり受け取った者の魂の一部となる。水は助けを求める魚の許へ流れて来る - 「これこそ叡智の啓典のみしるし(コーラン10章1節)」。預言者の裡のしるしは、神を愛し、神を知る者のみが見分けられる。

1705.  - この物語は不完全だ。論旨が定まっていない。私自身の理解が定まっていないことを示しているのだろう。許してほしい。どうすれば原子の一粒づつを、正確に数えられるだろうか - ましてや、愛により理解を得てしまった者に。庭の葉の数でも数えようか。それとも、キジやカラスの鳴き声の数でも数えようか。それらを数え上げることに意味など無いが、しかしそれでも試しに来る者があるなら、私は数えよう、その者を教え導くためとあらば。 - 土星は悪い影響をもたらし、木星は良い影響をもたらすと言う。影響についてはいくらでも語れよう、しかしこれら二つの影響を生じせしめる力そのものについて、計算し尽くすことなど出来るだろうか?

1710. 益なるものと病なるもの、それらを通して(聖なる)定めの片鱗を人々は知るのである。木星を支配の星とする者なら、生き生きと楽しみ、幸福を味わうことだろう。しかし土星を支配の星とする者なら、何をするにも注意が必要となることだろう。もしも私が、土星を支配の星とする者に語りかけるなら、私の話は土星の炎に油を注ぎ、不幸な者に苦悩の追い打ちをかけることになりかねない。

1715. 王が我らに与えたもうた
我らが胸に抱く想いを
恋い慕い、賛美せよ、と
王は我らを焼き尽くし
炎は我らに光を添えた
・・・御方は告げたもう、「汝らがわれについて考えつくことの、全てを超えたところにわれはある。汝らがわれについて語ることも思い描くことも、全てわれにはふさわしからぬ。否、われについて語られることや描かれることに陶酔しきっている者こそ、われから遠く離れた者はいない。想像によってわれの本質を捉えることなど不可能だ。知れるのはただ、想像に酔う者ほど救いを必要としていることのみ」。外側に顕われるしるしなど、不完全な気まぐれに過ぎない。王のみしるしとは、コトバやカタチとははるかにかけ離れている。王を讃えるのに、「王は織工に非ず!」と言う者があるなら、その者はきっと何ひとつ知らない者なのである。

 


*1 シュアイブ コーランに登場する預言者の一人。聖書ではエテロに相応する。

*2 ムカウキス エジプト提督としてイスラム史に登場する人物。イスラムへの改宗の勧められたがこれを固辞し、かつメディナのムスリム達とは互いに友好関係を築き、コプト教徒として生涯を終えた。

*3 「くう、くう」「らく、らく」 ヤマバトの鳴き声「くう、くう(Koo, Koo)」はペルシャ語で「どこ?どこ?」という意味。コウノトリの鳴き声「らく、らく(Lak, Lak)」はアラビア語で「きみのもの、きみのもの」という意味。擬音語に意味を含ませた一種の言葉遊び。