母を殺した男

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

母を殺した男

ある男が怒りにかられて母親を殺した。短剣をふるい、また自らの拳もふるった。誰かが彼に言った、「おまえの邪悪さが、母たる者の尊厳をないがしろにしたのだ。おい、何故におまえは母を殺したのか。一体、彼女が何をしたというのか。「祈るがいい、そして語るがいい - 言えるものなら言ってみろ、罪深い悪党め!」。彼は答えた。「彼女は自分で自分の名誉を汚した。最も恥ずべき行為(註:姦通を指す)に及んだのだ。それで私は彼女を殺した、大地(墓)によって彼女(の恥)を覆い隠すために」。

780. 「これはこれは、誉れ高き人よ」、誰かが言った。「何故(彼女の姦通の)相手を殺さない?」。彼は答えた。「毎日、誰かしらを殺さねばならなくなるだろう。だから私は彼女を殺した。そうすれば、私も多くの血を流さずに済む。大勢の首を刎ねるよりも、一人の首を刎ねて済むならその方がましだ」。悪しき習性、悪しき性質を生じる母とはすなわちあなた自身の我欲である - それはありとあらゆる場面に邪悪をもたらす。あなたの我欲を殺せ。あなたが我欲を生かし続ける限り、あなたは真に尊敬すべき人々を、日々刻々と傷つけ悩ませることになる。あなたの我欲を殺せ、それにより、この世はあなたにとり生きやすいものとなる - あなたは神とヒトとの戦いの只中にいるのだ。

785. あなたが我欲を殺しおおせれば、それがあなたの救済となるだろう。二度と自分自身について弁解したり、言い訳を並べ立てたりする必要も無くなるだろう。世界の誰もが、あなたの敵では無くなるだろう。 - さて、このように語ると、私の言葉に難癖をつける者が必ずや現れる。彼らは預言者達や聖者達を引き合いに出して言うだろう、「預言者達は我欲を殺しおおせはしなかったか?それならば、どうして彼らの周囲には、敵や妬み深い者達がいたのか」。耳を傾けよ、真理の探求者よ - この疑問に対する答えを聞け。信じぬ者達というのは、実のところ(預言者達の敵ではなく)彼ら自身の敵なのである。彼らは、彼ら自身に襲いかかり、彼ら自身に攻撃を加えていたのである。

790. 敵とは、すなわち他者の生命を脅かす者を指す。自分自身の生命を脅かし、自分自身を破壊せしめる者を敵とは呼ばない。か弱いコウモリは太陽の敵ではない。コウモリの敵はコウモリ自身である。視界を覆うヴェイルが、コウモリの敵となっている。太陽の輝きはコウモリを死に至らしめる。このような小さき者が、太陽を苦しめるなど出来るはずがない。敵とは苦しみを与える者、ルビーが太陽の光を受け取るのを邪魔立てする者を指す。全ての信じぬ者達は、預言者の精神の宝石が発する光を、自らが受け取るのを邪魔立てする者達なのだ。

795. 信じぬ人々が、どうして比類無き者の目をヴェイルで覆うことなど出来ようか。彼らはただ、自らの目を覆い、自らの視界を損ねているだけなのだ。まるでヒンドの奴隷のよう、胸に悪意を抱きつつ、主人を困惑させるためだけに自らの命を断つ - 彼らは屋根に登り頭から落ちる、主人に、ささやかなりとも損害を与えてやろうと、ただそれだけのためにそうするのである! - 病人が医者を敵視するならば、あるいはまた学生が教師に敵意を抱くならば、彼らは彼ら自身を蝕むことになるだろう。彼らから奪う山賊は、実のところ彼ら自身である。彼ら自身が、自らの心と魂を待ち伏せる罠となる。

800. (羊毛の)洗い張り屋が太陽に腹を立てたり、魚が水に腹を立てたりすればどうなるだろうか。その怒りは誰を傷つけることになるだろうか。その蝕は、最後には誰の星に影差すものとなるだろうか - 一度でよい、考えてみよ。あなたの靴に穴が相手いるのなら、石ころだらけの場所には行かないことだ。既に二本の棘が刺さっているなら、棘が四本にならぬよう算段することだ。あなたは妬ましげに言う、「誰それに比べて私は劣っている。何という不運か、あいつが高いところにいるせいで、私が貶められる羽目になる」。

805. しかし本当に嫉妬というもの、これはまたひどい過誤であり過失である。否、これほどまでに劣ったものは他に無いだろう。悪魔は(アダムよりも)下位にある事を恥辱かつ不名誉とみなした。だがそのために、彼自身を百の天罰に投げ入れることとなった。彼が上位に立ちたがったのも嫉妬の為せる業である。そして、見よ、彼の境遇を!今や彼は生き血を啜る者に成り下がった - しかしそれは彼自身が望んだことなのである。かつてアブー・ハカム(『英知の父』)の名で呼ばれた者が、アブー・ジャフル(『無知の父』)と成り果てたのと同じこと。ああ、実に多くの価値ある人々が、嫉妬のために卑しき者と成り果ててしまう。

810. 嫉妬から自由な、寛容な性質以上に価値あるものなど、この世界のどこを探しても私には見出せぬ。神は(御方と被創造物の間の)媒介として預言者を造りたもう。心の中でくすぶる何かが動揺を生じさせ、嫉妬の在り処をあらわにするだろうとのお考えからだ。ヒトが神よりも低きに在るのは当然のこと、それを恥じる者など居なかったし、また神に対して嫉妬する者も居なかった。しかし自らを彼(預言者)と同等であると看做した者は、その事によって彼に嫉妬を抱いたのだった。今となっては、預言者の崇高さはもはや自明の事として確立されている。誰であれ信じる者達は彼を受け入れこそすれ、嫉妬を感じる者はいない。

815. ムハンマド以降、あらゆる時代に(彼の代理として)聖者が起ち現れた。復活の日が訪れるまで、ヒトに対する猶予は引き延ばされ続けている。善良な気質の者ならば、誰であれ救いを得ることだろう。誘惑にもろく、意志の弱い者ならば、誰であれ途方に暮れることだろう。あらゆる時代において聖者とは、 - そのひとがウマルの末裔であろうが、あるいはアリーの末裔であろうが - 生けるイマーム(導師)である。マフディー(導かれた者)であり、同時にハーディー(導く者)なのだ、おお、正しき道を探し求める者よ!そのひとはあなたから隠されている、それでいて、同時にあなたの目の前に座している。そのひとは(ムハンマドの)光であり、(全的な)知性が彼にとっての天使ガブリエルである。下位の聖者はそのひとの光を受け取ってランプとなる。

820. 更に下位の聖者は、ランプを置かれて我らの壁龕(コーラン24章35節)となる。光には、明るさの程度による階梯がある - 何となれば、神の光は七百のヴェイルを持っている。光のヴェイルの数ほどにも階梯があると心得よ。そして各々のヴェイルの背後に、各々の階梯がある。各々の階梯は、そこにふさわしい聖者の住処となっている。一段ごとに昇ったその頂点にイマームの階梯がある。最も低い階梯にある者は、その弱さゆえに頂点から最も離れた処にいる - 彼らの目では、強い光に耐えることが出来ないからだ。階梯を一段昇る毎に、ヴェイル一枚分だけ光に近づく。その次も、またその次も - 光との距離を、それ以上は縮められない処、それがその者の階梯となる。

825. 最も高い階梯にある者にとり、光は生命そのものだが、低い階梯にある者の弱い目には、苦痛と困難しかもたらさない。階梯を昇り、ヴェイルを一枚越える毎に、少しづつ目も良くなっていく。やがて七百枚のヴェイルを通り抜けた頃には、そのひとは海となっている - 鉄や黄金を鍛えるには強い炎が適している。だが若いリンゴやマルメロは違う。果実は、穏やかな熱によってゆっくりと熟すのである。しかし果実にとっては好ましい熱でも、鉄にとってはいささか弱すぎる。鉄は激しく炎を欲する。自らを、恐ろしげな竜の傍へと連れてゆく。

830. その鉄こそは、難行を背負うダルヴィーシュである。槌と炎にその身を預けて赤くなり、それをもって幸福とする。炎に仕える侍従となり、炎のすぐ近くにその身を置く。何の繋がりも持つこと無しに、炎の核心へと入ってゆく。水と、水の子供達(水に関連する者達)なら、何がしかの遮蔽となる幕を置かねば、炎からは何ひとつ - 料理も、会話も - 得ることが出来ない。そこで媒介となるのが、鍋や窯である。これは歩く際に、足につける靴のようなものである。媒体、あるいは余地となる間隔を置くことにより、まず空気が熱せられる。そしてそれが、水を熱く沸騰させるのである。

835.  - で、あるならば、ダルヴィーシュとは、媒体、すなわち仲介者を持たぬ者を指す。炎の核心は、その者とじかに繋がりを持っているのである。ダルヴィーシュは、世界にとっての心臓である。心臓が正しくふさわしい働きをすることにより、身体の諸器官も正しく働くようになる。もしも心臓が無かったならば、身体には、喋ることも伝えることも出来ないだろう。もしも心臓が見出せなかったなら、身体にはそれを探すことも、求めることも出来ないだろう。その鉄は、(神の)光きらめく神聖なる劇場である。心こそは神の顕現する劇場、身体では決して無い。そしてまた、この譬えに従うならば、私達一人ひとりの心はあたかも身体のようである。その中心に、かのおひと(完全なる聖者)の心がある - そしてかのおひとの心は、その根源と隣り合わせになっている。

840. この議論には、より多くの譬えや解説を必要とするだろう。しかし私は、ヒトの想像力というものを過信することは避けようと思う。いかに私が無私無欲に語ろうとも、いかに私が善き意図をもってしても、悪き意図をもってねじ曲げられ、躓きと過ちの元となってしまうのではなかろうか - 私はそれを恐れる。ゆがんだ靴は、ゆがんだ足のためにあるもの。物乞いの力をもってして出来るのは、ただ扉を叩き続けること - 扉を開けることは出来ない。私が語れるのは、これが全てである。