3巻:序の序

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

序の序(散文による)

愛あまねく慈しみ深い神の御名において。

ヒカーム(知恵、学問)は神の軍隊である1。新参の入隊者たちの魂を強めたもうは御方である。彼らの知を無知の汚れから、正義を不正の汚れから、寛大さを虚栄の汚れから、慎み深さを愚かさの汚れから浄めたもう。また来世について理解させるためならば、どれほど遠くにあろうとも彼らのすぐ近くまで運び寄せたもう。また御方に従い、熱意をもって御方を讃えるためならば、どれほど困難なことであろうとも彼らにとり容易なこととなさしめたもう。

またこれら(の学問)は、預言者たちの証拠と証明に属するものでもあり、霊知者のみに赦された神の唯一性の不思議に関する知でもある。御方はいかにして光の領域に革命をもたらすのか、またそれがいかにしてラフマーン(慈悲)と真珠(知識)として顕現し、球状に象られた霧のごとく儚いこの世を司るのか –– それは知性が、塵で象られたこの身体の外的感覚と内的感覚を司るかのごとくである。

これら(の学問)により神がしもべに益を授け、またしもべの理解を深めたまいますように!読者諸氏は皆それぞれ、持てる知性に能うかぎりの理解を得るだろう。崇拝者たちは皆それぞれ、持てる努力に能うかぎりの崇拝を実践するだろう。ムフティー(法学者)は皆それぞれ、自らの経験に能うかぎりの判断もて法学に新たな知見をもたらし、慈善家は皆それぞれ、自らの有する財に能うかぎりの布施を支払う。贈り主の寛大さは彼が何を贈ったかによるものであり、贈られた者の感謝は何を贈られたかによるものである。

海原に何があるのかを知りつつ、砂漠で水を探し求めることが禁じられているわけではない。だがそれは生計を案じたり、病に冒されたり欲望を満たしたりといった邪魔が入る心配がないならば、あるいはまた探し求めているものと、それを探し求める者の間に隔たりが生じる心配がないならばの話である。でなければ魂における生命の水の探求に真摯に取り組む以前に、道から切り離されてしまうだろう。取るに足らぬ欲望に執着したり安易な方へ流されたり、探求を投げ出したり自らの保身を図ったりで生計を立てる人々が、神の知識を獲得したことはかつて一度も無かった。本来、全ては神のご加護を求め、浮き世におけるそれよりも魂についてなすべき事を優先し、現世の遺産とは違い永遠不変の価値を有する、偉大なる財である知恵の宝を選び取ることによって –– 荘厳な光、高貴な宝、貴重な財たるこの知恵を選び取り、御方の恩寵に感謝を捧げ、御方の摂理を讃え、御方の配剤を分かち合うことによって –– 成就するのである。神のご加護を求めることなく、飽かず現世の財を求めて無知蒙昧のまま過ごす者は、自らを過大評価し他人を過小評価する自己欺瞞に陥り、やがて自らを賛美するようになる –– 自画自賛こそ神が禁じたもうことに他ならないのだが。

さりながら、知らずにいた事柄ならば何であれ学び取り、また既に知っている事柄ならば知らずにいる者に教えることは、知識を持ち(神の)探求に勤しむ者の義務である。同時に、知識を持たぬ者には惜しみなく助けの手を差し伸べねばならず、また愚か者の愚劣な振る舞いを見たからといって慢心してはならない。理解の足らぬ者を手厳しく非難するようであってはならない。「おまえたちも以前はそうであったが、神がおまえたちに慈愛を垂れたもうたのだ(コーラン4章94節)」。

神はいと高きにおわす。冒涜者の意見や(神に)同位者を配する者の主張、自らの(神についての)知識が不完全であるがゆえに神を不完全とみなす者の中傷、移り気な者の下す判断、思想家と称する者の思いつく邪悪な理論、意味無き無駄話にふける者の意味無き妄想、御方はそうして全てを超越したもう。聖なる主の書マスナヴィーの完成について、賞賛と栄光は御方に属する。御方こそは成功の援助者、御方は豊かに授けたもう。たとえ神の御光を、その口先もて消し去ろうと躍起になる者どもの群れがあろうと、尽きせぬ利益と好意を –– わけても御方のしもべに、また神秘道の修行者たちに –– 与える御力を持つはただ御方のみ。たとえ不信の輩が嫌悪しようと、必ずや御光は完成に至る。「たしかにわれらはこの託宣を下した。そして、われらはそれを見守っている(コーラン15章9節)」。ゆえにこれを耳にし、後々になってこれに変更を加える者は必ずや罪に問われるだろう。inna Allah al-Sami’u al-Ali’m wa al hamudu lillahi rabb al-A’lamiin(まことに神はよく聞き、よく知りたもう。万有の主に賞賛あれ)!

 


*1「ヒカーム(知恵、学問)は神の軍隊である(al – Hikam Junud – Allah)」 ”ジュナイドは問われた。 ’これら(聖者たちの講話)をムリード(弟子)に語ることの意味は何か?’ 彼は答えた。 ’彼ら(聖者)の言葉は神の軍のひとつである。弟子たちの心が弱ければ、(これらの講話によって)丈夫になり強化されるだろう’(アッタール『聖者伝』)”。 この言葉はコーラン11章121節(「われらは汝の心を強固にしてやるために、いろいろな使徒たちの消息を汝に物語ってやった」)を根拠としている。