3巻:序

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

愛あまねく慈しみ深い神の御名において。

これ、「真実の光」よ、フサームッディーンよ。三巻に取りかかろう、何しろ「三度行う」というのはスンナにも適っている。言い訳も隠しごとも無用だ、堂々と神秘の宝を開示しようではないか。おまえの力量はこれ全て、神の御力より流れ来たるもの。おまえ自身の熱情でもなければ、おまえ自身の静脈から流れ来たるものではない。そのランプ、その太陽の輝きときたら –– 灯心や石綿、油によって得られる明かりとは比べるべくもない。

5. 果てしなき天蓋はそれを支える柱も張り綱も持たない。ジブリールの力は、調理場で得られる類いのものではない。その力は、森羅万象の創造主を凝視することにより得られるものである。神に仕えるアブダール(完成された聖者)の力もこれと同様、皿に盛られた食事ではなく神により引き出されるものであると知れ。彼らの体もまた光によって象られている。故に彼らは、精霊や天使をも超越している。全能の御方の属性を授かれば、感覚的な自我がもたらす悪弊の炎を凌駕する者となろう –– ハリール(「神の友」、イブラーヒームの尊称)がそうであったように。

10. 炎もおまえに対しては、鎮まり害なすこともない(コーラン21章69節)。おまえに対しては、あらゆる元素たちが下僕のように服従しているのが見てとれる。何故ならあらゆる様相はこれら元素から成り立つものだが、おまえの様相ほど優れたものはないからだ。おまえには裏も表も無い − おまえの様相は、統合のとれたひとつの世界を成している。今やおまえの本質は、「(神の属性のひとつでもある)統合」を飲み込み、また飲み込まれもしたというわけだ。悲しいかな、人間の理解できる範囲などたかが知れている。そして人間は(真実を飲み込めるほどの)喉を持ち合わせていない。ああ、「真実の光」よ、フサームッディーンよ。鋭い知覚を持つおまえの手による菓子ならば、石(のように頑な者)の喉をもするりと通り抜けることだろう。

15. シナイの山は神の顕現により喉を得た。それで葡萄酒を痛飲し、すっかり酩酊してしまった。そのため山はぱっくりと割れて崩れ落ちた –– おまえは見たか、ラクダのように拍子を取って歩き回る山を?あらゆる果樹の実りに、神の下されし贈り物が一掴みづつ添えられている。喉を開くには、ただ神の御働きを賜る他はない。御方は、体にも心にも喉なるものを授けたもう。御方は、おまえのありとあらゆる部分に別々の喉を授けたもう。御方がこれを授けたもうは、おまえの心がこれ以上はないほどに広がり、虚栄と虚偽から自由になったとき。

20. それはおまえが王の秘密を決して漏らさぬ者となったとき、蠅の前に砂糖を見せびらかすような真似はしなくなったとき。偉大なる御方の秘密をその耳もて飲む者、それは百合の花のごとき者。百の舌を持ちながら、決して無駄話をせず沈黙する者。恩寵深き神は大地に喉を与えたもう、それにより水を飲み干して、百の香草を育てるようにと。同時に神は地上に住まう生きものに喉と唇とを与えたもう、それによりいつでも欲しいだけ、育った香草を食めるようにと。やがて生きものが肥え太る頃、それらはヒトの糧となり、ヒトの口に運ばれ消え去ってゆく。

25. そうこうするうち、ヒトにも決められた時が訪れる。魂が体から抜け出すとき、今度は大地がヒトを飲み込む番だ。こうして私はあらゆる創られし生きものたちの、原子の一粒づつがあんぐりと口を開けているのを見てきた。彼らが何を食べ、また何に食べられるのか、語れば話は長くなろう。あらゆるものが、他の何ものかの糧である。糧となるあらゆるものに(最初の)糧を与えたもう者、それが恩寵深き神である。御方は、恩寵となるあらゆるものに恩寵を与えたもう。小麦は糧だが、その小麦もまた糧を必要としている。糧なしに、どうして小麦が育つだろう?これを解き明かせば話は終わらぬ。私が語ったはほんのさわりのみ、残りは推して知るべし、だ。

30. 知れ、世界のあらゆるものは何かを食べ、また何かに食べられている。ならば(神の御許に)諾われ、永遠の生を得る者は全くもって幸運な者であると知らねばなるまい。こちらの世と、こちらの世に住まう者はいつか消え去る。あちらの世と、あちらの世を旅する者は永遠に在り続ける。こちらの世と、こちらの世を愛する者は別離にさらされる。あちらの世と、あちらの世を旅する者は永遠に共に在り続ける。(本当の意味での)貴人とは、自らに生命の水を注ぐ者、永遠不変への意志を持つ者のことである。貴人とは、いわば「いつまでも残る善行(こそは希望を託する最良のもの、コーラン18章46節)」の真髄に他ならぬ。すなわちあらゆる腐敗や危機、恐怖に囚われぬ者、自由の身となった者のことである。

35. もしも彼ら(貴人たち)が幾人も存在したとしても、内奥において彼らは<ひとり>である。故に彼らは、数を恃みに(物事を)判断するような不埒な者どもとは、そもそもからして異なっている。食う者、食われる者が持つのは食べるための口と、飲む込むための喉である。勝利する者、克服する者が持つのは理知と英明である。神は正義の杖(モーセの杖、参照 ) に喉を授けたもう。故に彼の杖は、その他の杖も縄もすべて飲み込んだ。それでいて正義の杖が肥え太ることも無かった。それもそのはず、飲み込んだものは何の実体も持たぬまやかしだったのだから。この杖と同様の喉を、御方は信仰にも授けたもう。それで(信仰は、)生まれいづる無益な気まぐれを飲み込んでのける。

40. なるほど信仰には喉がある。故に魂に関する考察や知的探求、また根拠ある実践にも喉がある。霊的探求、知的探求の喉に食物を与えたもうはただ神のみである。およそ神の造りたまいしものならば、月から魚(魚座)に至るまで、神から滋養を頂戴するための喉を持たぬものはない。(もちろんその中には、我らが住まう地球も含まれている。)肉体(物質)に関する想念が、魂の喉から一掃されれば、そこへ与えられる滋養は一段と優れたものとなる。この滋養を得るには、実質的な自己の変容が必須の条件となることを知れ。悪しき者を死に至らしめるのは、その者自身の悪なのだ。もしも土を食うことが人間の持つ本来の性質であったなら、その顔色は青ざめてやまいがちになり、はかなく弱々しい者となっていただろう。

45. だが生まれ持った醜悪な性質が変容し醜悪さを立ち去らせたなら、その顔は蝋燭のように明るく照り輝くことだろう。乳飲み子をあやす乳母はどこにいる?(正しき乳母なら)乳飲み子の口中を乳で満たし、心中を甘味で満たす。そして時期がくれば乳房から幼子を追い払い、そうすることで歓喜あふれる庭へと至る道を示す。何故なら幼子はもはや乳飲み子ではないから –– 今や彼女の乳房は幼子と、数え切れぬほどの喜びや楽しみ、種々の皿(料理)やパンとの間に立ちふさがる障壁でしかない。つまり我らの人生は、いかにして乳離れするかにかかっていると言える。乳離れとは習慣を変えることであり、それは一生涯の仕事である。日々、一歩づつでも乳離れせよ –– やり遂げる者があれば、この講話も完成する。

50. 未だ(胎内の)胚に過ぎぬ頃には、ヒトは血液を滋養とする。これと同じで、真の信仰者ならば汚濁の中にも清浄を見出せる。やがて血液を離れて乳を滋養とするようになり、それから乳を離れて形ある食物を滋養とするようになる。そののち、形ある食物の滋養からも離れる時がくる –– それはヒトが、ルクマーンのごとき賢者となる時、隠れている獲物を探す狩人となる時だ。もしも誰かが胎内に包まれて眠る胚に、語りかけたとしたらどうだろう? –– 「外側には、素晴らしく秩序立てられた世界が広がっているよ。心地よい大地は果てしなく、どこまでも遠い。数え切れないほどの喜びに溢れ、実り豊かで、食べるものも好きなだけ選び放題に選べる。

55. 山々、海原、草原、かぐわしい果樹園や庭園、種の蒔かれた畑がそこかしこに広がっている。見上げれば高い空は光に満ちあふれ、太陽が、月明かりが、無数の星々がきらめいている。南風が、北風が、そして西風が競い合うから、庭園はまるで婚礼の宴か、祝祭のように華やいでいる。目を見張るばかりのこの素晴らしさは、とても語り尽くせるものではないよ。それなのに君ときたら、どうしてみじめな暗がりに閉じこもっているんだい。狭苦しい牢獄で、まるで絞首台のような場所で、いつまで血を啜って過ごすつもりだい」。

60.  –– だがそんなふうに尋ねたところで、胚にとっては胎内が全てだ。胎内がそうであるように胚もまた、昏い目のまま心を閉ざす。そして呼びかけに背を向け、どんな言葉を聞かされようが信じようとはしないだろう。そして言うだろう、「これは嘘だ、ごまかしだ。幻でも見ているのに違いない」。仕方があるまい。もの見ぬ者には、判断の材料も見えないのだから。(胚には、)自分にかけられた言葉の意味を、吟味するだけの伎倆が備わっていない。あるのは猜疑の念ばかり、偏見がその耳を塞いでいる。アブダール(高位の聖者たち)がこの世において、人々に語りかけるときもこれと同じだ –– 「こちらの世は暗く狭苦しい穴蔵に過ぎぬ。こちらの世の外側には、無色透明の果てなき世界が広がっているぞ」。

65. しかしこうした言葉の、一片たりとも世の人々の耳には届かない。とてつもなく巨大で頑丈な我欲が障壁となっているからだ。我欲によって塞がれれば耳は聞くことも出来ず、自己愛によって塞がれれば目は見ることも出来ない。胚でさえ滋養に執着する、たとえそれが汚血であろうと。我欲はヒトの檻だ、狭かろうが、息が詰まろうが、我欲を養うためならどのような低き処にでもヒトはしがみつく。そしてそれこそが我らを世界から、新たな知から切り離すのだ –– まるで血の他には何も知らぬ、ちっぽけな胚のように。