仔象を食べた旅人たちの話

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

強欲さゆえに誠実な者の忠告に耳を貸さず、仔象を食べた者たちの話

インドの賢者の話は聞いているか。同胞たちの一団を見出して、忠告をした賢者の話だ。

70. (彼らは)腹を空かせていた。備えも持たず、着るものもなく、彼らははるか遠くから旅してその地に辿り着いた。(それを見て、賢者の)体内に御方の愛による知がかき立てられた。そこで彼らに礼儀正しく挨拶を送り、まるで薔薇園のように満開の笑みをほころばせた。「私には分かる」、彼は言った、「よほど飢えておられるのだろう。まるでカルバラーの悲痛が、あなた方の全てを覆い尽くしたかのように苦しんでおられるのだろう。だがそれでも、神にかけて、神にかけて、ああ、輝ける人々よ!決して仔象には手を出さないと誓ってくれ。仔象を、あなた方の糧にしてはならぬ。あなた方が向かう先には象がいる。わが忠告に耳傾けよ。象の一族に手を出すな、彼らの仔を引き裂こうなどとは決して思うな。

75. あなた方の行く手には仔象の群れがいる。あなた方は彼らを狩り、屠りたいと心底思わずにはおれないだろう。彼らは弱くやわらかく、そしてまるまると肥えている。だが彼らの背後には、母象が控えて目を光らせている。母象はどこまででも仔象を追い求め、何かあれば唸り声をあげて嘆き叫ぶだろう、その鼻からは火炎と黒煙を吹き出して –– よいか、決して彼女の愛し子に手出ししてはならぬ!」。ああ、年若き友よ。聖者とは神にとり愛し子のようなもの、彼らが遠く離れていようが、あるいは近く傍にいようが同じこと、御方は全てをご存知であられる。

80. 彼らが遠く離れているとしても、彼らに何かしらの瑕瑾があったがゆえの別離であるなどとは思うな。彼らの魂、彼らの精神が奈辺にあるか、愛もて判じたもうはただ御方のみ。御方は言われる、「遠く故郷を離れ、わが威光と栄誉から離れて流浪の身となってはいるものの、彼らがわが愛し子であることには相違ない。彼らは行く先々で軽んじられ、貶められ、孤独を味わい試練にさらされもしよう。だが彼らとわれとは、人知れず固い友誼で結ばれている。彼らはわが庇護の下にある。わが手、わが足となりわれのために大いに働いているのだ。用心せよ、用心せよ!彼らこそはわがデルヴィーシュの一群、百人いようが千人いようが同じこと、彼らは実際には<ひとり>である」。

85. でなければ、どうしてモーセが杖一本でファラオを失墜させ得ただろうか?でなければ、どうしてノアが怒りの言葉ひとつで、世界の東も西も洪水に沈め得ただろうか?どうして寛大なロトの祈りひとつで、彼らの住まう町もその人々も破壊し尽くされ、絶望の底に突き落とされ得ただろうか?楽園のようだった彼らの町は、今や黒き水たたえる湖となった –– 行け、これらのしるしを見届けよ!そのしるし、その訓戒はシリアへと至る道において見出せよう。イェルサレムへと向かう道においても見出せよう。

90. 幾百、幾千の預言者たちが神の崇拝の道を歩んだ。そしていついかなる時代においても、その時代に相応の罰が科された。しかしこれ(罰)について長々と語れば、聞く者の心ばかりではなく山々をも苦しめることになろう。山々が血を流せば、川は何となろう?山々は血を流すたびに強くなる、だがあなた方にはそれが見えない –– 目を閉ざす者、拒まれし者にはそれが見えない。(私が言う)目を閉ざす者とはこうだ –– 彼らは驚くべき人々、素晴らしき人々、遠くの遠くまでよく見渡し、実に熱心に観察する「目」を持っている。彼らはラクダの毛一筋ひとすじをつぶさに見ている、だがそれでいてラクダ全体については全く見えていないのだ!人というのは貪欲なもので、その貪欲さゆえに何もかもを欲する。自分の所有にしたい一心から、毛の一筋まで丹念に調べる。まるで何の意味も目的もなく踊り続ける熊のようだ。

95. 踊るならば、あなたが変容を遂げたのちに踊れ。踊るならば、ただあなたの我欲を切り刻み、あなたの我欲の息の根をとめたのちに踊れ。聖なる人々は踊る。心の戦場を旋回する。彼らは自らの血において踊る、他の誰かの血ではなく。我欲を握りしめていたその手が空っぽになり、自由になったときにこそ手を打ち鳴らすのが聖なる人々。我欲から解き放たれ、自由になったときにこそ踊り始めるのが聖なる人々。彼らゆえに楽師たちは太鼓を叩き、歓喜ゆえに海は飛沫をあげる。あなた方には見えないだろう、だが彼らの耳は捕えている、梢に揺れる葉という葉が歓喜ゆえに手を叩いているのを ––

100. あなた方には見えないだろう、歓喜ゆえに手を打ち鳴らす葉たちの姿が!これを聞くには心の耳を要する、体についた耳では無しに。頭の両脇についた耳を閉じよ。戯れにも偽りにも関わるな。あなた自身の、魂の深奥を感知せよ –– まばゆく輝く麗しの都はまさしくそこにある。宗教を偽る者たちの、言葉の奥に隠された意味をムハンマドの耳は鋭く感知した。神が「彼は耳である(コーラン9章61節)」と、コーランにおいて告げたもう通り、かの預言者は全身が耳であり目であるお人であった。このお人によりわれらは心慰められ、このお人の前ではわれらはまるで赤子のよう、このお人こそわれらの乳母のよう。この話には終わりがない。象の話に戻るとしよう、最初から語り始めるとしよう。

105. 「母象は一人ひとりの口を嗅ぎ、一人ひとりの下腹を打ち据え続ける。幼子を焼いた者は誰か、それを食した者は誰かを突き止め、復讐を果たして自らの威力を示すために」。神のしもべたちを誹謗する者とは神のしもべたちの肉を食らう者。のちのち、報復の代価を支払うこととなろう。用心せよ、あなた方の口を嗅ぐのは創造の主に他ならぬ。真実の御方の他に、誰があなた方の生を守護し得るだろうか?用心せよ、中傷者よ。ムンカルとナキールは墓の中であなた方の口を嗅ぎ、あなた方を試すことだろう。

110. 権能ある者の手にかかれば、口を引っ込めて隠しおおせることなど出来はしない。口なるもの、こう薬を塗り込めて甘やかに出来るものでもない。一たび墓に入ってしまえば水もなければ油もなく、顔を隠せるものもない。いかに知恵を絞り賢く立ち回ろうとしても、逃げ道などひとつもありはしない。無駄口を叩けば叩くほど、その頭を、その背中を、棍棒で打ちのめされることになる。それは鉄に非ず木に非ず、あなた方の目には捉えられない。だがそれでも、見よ、アズラエルの棍棒の威力を。時としてこの棍棒は現実として眼前にその姿を現す。殴られる者の目には、はっきりとそれが映る。

115. 殴られる者は言う、「ああ、友よ。見てくれ、私の頭上に振り下ろされるこの剣は何なのだ」。仲間たちは口々に言う、「幻でも見ているんじゃないのか。おれたちには何も見えないぞ」。幻などであるものか。否、これぞ出発の刻、こちらの世からあちらの世へと旅立つ刻。天空が幻影のごとくかすむこの恐怖、これが幻などであるものか。病める者にはその棍棒も剣もはっきりと見える。そのことが、病める者を打ちのめす。罰せられる者はその幻影が、自らに向けられたものであることを知る。敵にも友にもそれは見えず、ただ自らの目のみがそれを見ていることを知る。

120. ここに至ってこちらの世への渇仰は消え失せる –– こうして最期の瞬間、ようやく彼の目は全てを「見る」。高慢と怒りゆえに閉ざされていた彼の目が、死を迎える最期の瞬間に開くのだ –– まるで時を告げ損ねた雄鶏のように。時を読み違える役立たずな雄鶏の頸を刎ねよ。あなた方の裡なる魂 –– それは森羅万象の魂と繋がっている –– は、あなた方の知らぬ間も刻一刻、死と向き合い、死と戦っている。死を巡る裡なるこの葛藤が、あなたの信念の在り処を凝視する!あなた方の人生とは、金貨の詰まった財布のようなもの。昼と夜との交替は、金貨を数える両替商のそれである。

125. 蝕が太陽と月を訪れ、死があなたを連れ去るその時まで、時という名の両替商は片時も休まぬ。残りの金貨を数え上げては、あれに支払いこれに支払う。山から何かを奪うばかりで、代わりとなる何かを与えずにいれば、やがて山は跡形も無く消え去ってしまう。故にあなた方よ、ひとつの息をする毎に、それにふさわしい価値あるものを与えよ。ひとつの息をするのにも、書物にある通りにせよ –– 「伏し拝んで、主に近づけ(コーラン96章19節)」。そうすればあなた方は、自らの目的に達することだろう。現世の俗事を果たそうと躍起になるな。信仰を全うせよ。世事に没頭するな。でなければ、不完全なままにこの世を後にすることになる。あなた方のパンが、生焼けのままに終わってしまう。

130. あなた方の墓地や霊廟を美しく飾るのは、石でも無ければ木でも石膏でもない。否、(美とは)あなた方が魂の浄化という名の地に自らの手で墓を掘り、あなた方の自我を御方の自我の裡に葬り去ることにある。御方の塵となり、御方の愛の裡に葬られることにある。それによりあなたは息を吹き返す –– 御方の吐息の裡に。見よ、丸い天蓋や塔に飾られた墓所を ––  真理の探求者にとり、ああした墓所ほど受け入れ難いものはない。きらびやかな衣で着飾った人々を見よ。光沢ある生地で仕立てた豪奢な衣が、それをまとう者を賢人となさしめるものだろうか?

135. そんなことはあるまい。その点では、生者も死者も同じことだ。(外側を飾り立てれば、内側の)魂はサソリのごとき呵責に悩まされることになる。たとえ刺繍の施された豪奢な外衣に身を包もうが、内奥から湧き上がる悪しき諸々を消し去ることはできない。一方で、つぎはぎだらけの襤褸をまといつつその内奥に蜜をたたえ、口にする言葉の一つひとつが砂糖のように甘い者もある。

嘘いつわり無き助言者は告げた、「わが助言に耳傾けよ、あなた方の心と魂を悩まさぬように。草を食み葉を噛んで満ち足りよ、幼い仔象を追い求めぬように。

140. わが警告はこれで仕舞だ。警告の後に訪れるのは、至福の他には何も無い。私がこれを知らせるのも、ただあなた方に虚しき後悔をさせたくない一心でのこと。用心せよ!貪欲の罠に自らを嵌めることの無いように。貪欲ゆえに、自らを滅ぼすことの無いように!」。彼(賢者)はそう言うと、別れの言葉を残して立ち去った。やがて旅を続ける彼らの飢えも餓えも、ますますひどくなった。すると突如として道の彼方に、肥えた仔象の姿が現れた。

145. まだ産まれたばかりと見えるその仔象に、旅人たちはまるでオオカミのごとく襲いかかった。すっかり食べ尽くした後で、彼らはめいめいに手を洗った。旅人のうちひとりだけ、仲間を説得しようと試みた者があった。デルヴィーシュが告げた言葉を、彼はよく憶えていたのである。彼の記憶にある言葉の数々が、焼けた仔象の肉を食べることを妨げたのだった。古い知恵というものは、時にこうして新たな幸運を授けてくれる。(食べ終えた)仲間の旅人たちが横たわり、皆して眠りこけてしまった後も、彼は一人で腹を空かせたままだった。まるで群れを見張る羊飼いのように目を覚ましている ところへ、恐ろしげな母象が近づいてくるのが見えた。母象は最初に、体を固くして縮こまる彼の傍へと走り寄ってきた。

150. 母象は、彼の口の匂いを三度嗅いだ。だが彼の口が、不快な匂いを漂わせることはなかった。母象は彼の周囲を何度か廻った。だが巨大なるこの女王は、彼に危害 を加えることなく立ち去った。それから母象は、眠りこけている者たち一人ひとりの唇を嗅いだ。そして彼らの口に、仔象の匂いを嗅ぎ取った。彼らは皆、焼いた仔象の肉を食べた者たちだった。母象はたちまち彼らを八つ裂きにし、殺してしまった。一人、また一人、母象は旅人たちを何の躊躇もなく殺めた。

155. 容赦なく彼らを空へ放り投げ、地面に叩きつけた。叩きつけられた者たちは無惨に砕けて命を落とした ー ああ、民の生き血を飲む者どもよ、その道を離れよ!でなければ流された血の代償が支払われることとなろう。あなた方と民との間に戦いが始まるだろう。知れ、彼ら の血は彼ら自身の有であることを。確と知れ、彼らの体を購い、彼らの力を養うは彼ら自身であり、決してあなた方ではないことを。若き仔象(正しく無垢なる者たち)の母象(預言者たち、聖者たち)は、必ずや復讐を遂げるだろう。仔象を食らう者たちを、必ずや罰することだろう。ああ、賄賂を受け取る者たちよ、抑圧者に組する者たちよ。あなた方もまた仔象を食らう者の仲間だ。仔象たちの主が、必ずやあなた方の口を嗅ぐだろう。

160. その匂いが、奸計を弄する者たちを恥辱の中に沈めるだろう –– 象はその仔の匂いを熟知しているが故に。イエメンのごとくはるか彼方の地からでも神の芳香を嗅ぎ分ける者なら、私が今ここで嘘いつわりを述べたとしても必ずや嗅ぎ分けることだろう。われらが預言者ムスタファは、はるか彼方からでも「それ」を嗅ぎ分けた –– どうして彼が、我らの口を嗅ぎ分けられぬことなどあろうか。彼は確かに嗅ぎ分けている、ただ我らには知らされていないだけだ。良きにつけ悪しきにつけ、あらゆる匂いは天に届けられている。あなた方が眠っている間にも、不正の匂いは紺碧の空の彼方にまで届く。

165. あなた方の口の匂いもまた、天界の裁き手の許へ届けられる。驕慢の匂いも貪欲の匂いも、色情の匂いも、言葉になればたちまち玉葱のごとき悪臭を放つ。「一体いつ、私がそんなものを食べたと言うのか。玉葱も大蒜も、口にしたことなど一度もないぞ」。あなた方がそう言葉にして誓えば、あなた方に替わって口の匂いが、あなた方の隣りに座す者たちの鼻に届く。この悪臭ゆえに、どれほど多くの祈りが拒まれたことか!心の汚れは、舌を通じて明らかにされるもの。

170. こうした祈りに対する答えは「下がれ、ものを言うな(コーラン23章108節)」。人を欺く不届き者への答えは拒絶の棍棒である。だがもしもあなた方が言葉において過ちを犯したとしても、意図するところが正しければ –– 神はあなた方の言葉による過ちを必ずや許したもうだろう。