田舎の男と都会の男

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

田舎の男と都会の男

昔々あるところに、仲の良い田舎住まいの男と都会住まいの男がいた。田舎住まいの男は町へ来ると、いつでも都会住まいの男の家がある通りに天幕を張り、二、三ヵ月は客人として逗留した。そして都会住まいの男の仕事場にも、食卓にも顔を出すのだった。客人の滞在中、都会住まいの男は何であれ彼が望むものは惜しみなく無償で与えた。

240. ある日、田舎住まいの男が都会住まいの男に向かって言った。「ご主人、今度の休暇には是非とも田舎の方へお越し下さい。一度くらい来て下さいよ。神かけて、この通りお願いします。お子さんたちも皆ご一緒に、春の薔薇咲く季節にでも。それとも、夏が良いですかねえ。果実がどっさりみのる季節だ、たっぷりおもてなしさせてもらいます。お宅の使用人もお子さんも、親戚の皆さんも連れて三ヵ月でも四ヵ月でも村でお過ごし下さい。春の田舎は素晴らしいですよ。種が蒔かれた畑があって、可愛らしい花々が咲き乱れて」。

245. (以来、その話が出るたびに)都会住みの男はあれこれとその場を言い繕って約束を引き延ばしにした。そうしているうちに、最初の招待の約束から八年が過ぎた。「旅の用意はお済みですか?そんなこんなで、また十二番目の月が来ちまいましたよ」、彼(田舎住みの男)はそう言い続けた。都会住みの男もまた、言い訳を重ね続けた。「今年は何処そこの、遠い土地から客人が来ていたもので。しかし体さえ空いたなら、来年こそは必ずそちらへ伺いますよ」。田舎住みの男は言った。「私の家族も、あなたやあなたのお子さん達に恩返しする日が来るのを待ち望んでおります」。

250. 田舎住みのその男は、毎年コウノトリ(渡り鳥)のように都会住みの男の許へやって来ては滞在し、都会住みのフワジャはフワジャで、毎年身銭を切ってとことん彼をもてなした。最後に彼がやって来たとき、豪気なお大尽どのは三ヵ月に渡り朝に夕に食事の入った皿を振る舞った。さすがに彼も恥じ入って、再びフワジャに言った。「約束してから、一体どれくらい経ったことやら。いつまで私をないがしろになさるおつもりですか」。フワジャは言った、「身も心も、会いに行きたいと思っているのは山々なのだが、しかしあらゆる決定を下したもうは御方。

255. 人間は船か帆のようなもの。風を操る御方が、良い風を送りたもうのを待つ他はありません」。「ああ、寛大なおひとよ」、彼(田舎住みの男)はもう一度懇願した。彼は大声で言った、「どうぞお子さんたちとご一緒にいらして下さい。田舎遊びは良い気晴らしになりますよ」。しっかりと約束するつもりで、(田舎住みの男は)彼の手を取り三度握りしめて言った、「神の名において!出来る限り早くいらして下さいよ!」。同じ嘆願、同じ文句、同じ約束が毎年繰り返され、とうとう十年の月日が流れた。フワジャの子供たちは言った。「まったく父さまときたら。雲も影も、月でさえも旅くらいしますよ。

260. 父さまはお客人に大変な貸しを作ったんです。あの人をお世話するために、父さまは大層な労を払ってきたじゃありませんか。そしてあの人は、父さまをもてなすことで借りの一部だけでも返したいと望んでいらっしゃる。あの人、父さまには内緒で私たちに頼み事をなさいました。『田舎にお連れ下さい』って。『どうかあなた方からもお願いして下さい』って仰ってましたよ」。彼は答えた。「確かに、そう言ったに違いないさ。だがシーバワイヒ1よ、用心せよ。おまえが親切を施した者が、おまえに悪意を持たないとも限らない。友愛とは種のようなもの、最後は必ず果実がみのる。だからこそ私は今彼と仲違いして、友愛が壊れてしまうのが怖いのだ」。

265. まるで冬の庭か畑のような、鋭い剣にも似た友情もある。まるで何もかもが甦る春の季節のように、計り知れぬ創造性を秘めた友情もある ー 知恵とは、言うなれば悪について熟考することである。そうすることで悪を避け、悪を断つことができる。預言者は言われた、「思慮分別によって、人は何が悪かを知る」。ああ、軽卒な者よ!一歩踏み出す毎に罠があると知れ。大地は、その表面こそなだらかに広く見える。だが一歩踏み出せばそこかしこに罠がある。考えも無しに、大股で闊歩すればそれで良し、などというものでは断じてない。

270. 駆け回りながら山羊が言う、「罠だって?そんなもの、どこにあるって言うんだい」。足を速めて駆け抜けようとしたその瞬間、山羊の喉首を罠が捉える。「どこだい、どこだい」などと尋ねる暇があったら目を開け、そしてよく見るがいい。あなたは平野だけを見て、そこに潜み待ち伏せる者を見ていない。畑の真ん中に転がった羊の尻尾が、罠でなくて何だというのか。罠もて待ち伏せる狩人などいないなどと、どうして言えるのか。大地を我がもの顔に歩いた無謀な者たちを見よ ー そこかしこに転がる彼らのしゃれこうべを、亡骸を見よ!墓地を訪れたなら、おお、神に喜ばれし者よ、骨に尋ねよ、その過去について。

275. (それらを見れば)あなたにもはっきりと分かるだろう、もの見ぬ人々が陶酔を求めた挙げ句、惑いの奈落に陥ったのだということが ー 目があるならばものを見よ、無闇矢鱈にうろつくな。目がないならば手に杖を握れ。思慮と分別の杖がないならばその時は、もの見る目を持つ導き手を案内とせよ。あるいは思慮と分別の杖がない時は、どんな道でも導き手無しに歩めるなどと思うな。一歩づつ確かめながら歩め、目の見えぬ者のように ー 落し穴や野良犬を避けられるように。

280. 目の見えぬ者は恐るおそる足を震わせつつ慎重に歩む ー 歩むことの危うさを、彼は心得ているのだ ー 故に彼が錯乱に陥ることはないだろう。ああ、煙を恐れて逃げ惑った先で、炎の中へ転げ落ちる者よ。一口の食物にありつこうと探しまわった先で、ひと呑みに呑み込まれて蛇の腹中へ転げ落ちる者よ。

 


*1 シーバワイヒ 8世紀のペルシア出身の言語学者。若くして没したが、彼の死については病死とする説もあれば、ある論争の末に怒りと屈辱のあまり憤死したという記録も残っている。