ザルワーンの民の物語

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

ザルワーンの民の物語

ザルワーンの民の物語を読んだことがあろう。あれを読んでもなお、その場しのぎの方便に固執したがるのはどうしたわけか。

475. 蠍のように刺してくる、幾人かの(害ある)者たちが、幾人かの貧しき者たちの、日々の糧を切り捨てようと小細工を弄していた。夜の間、一晩を徹して、彼らは計画を練っていた。多くのアムルだの、バクルだのが顔をつき合わせていた。彼ら邪悪な人々は、秘密裡に、神に知られぬように、最も深くに隠している考えを語り合った。陶工に対し、粘土が(邪悪を)企むだろうか?心には内緒で、手が勝手にものごとをなし得るだろうか?神は告げたもう、「汝らを創造した者が、汝らの欲望を知らぬとでも?秘密にしようがしまいが、汝らの交わす会話が、誠実なものか甘言でないか知らぬとでも?」。

480. 明日には何処で一夜を明かすかを明白に知る者が、朝に出かけた旅人を忘れるとでも?何処から旅立とうとも、何処へ辿り着こうとも、そうと命じるのはかの御方、そしてそれらを、すべて正しく勘定するのもかの御方。さあ、あなたがたの耳を忘却から解き放ち、悲しむ者の(強いられた)別離の嘆きに耳を傾けよ。あなたがたが彼の物語に耳を傾ければ、それが悲しむ者への施しとなることを知れ。悲しみに耳を傾けることは、心の痛み –– (肉体という名の)水と土に閉じ込められた、高貴な精神の抱える飢餓 –– を知るということ。

485. 知識で満たされている者がある、だが住まう家にはもうもうと煙が立ちこめている。窓を開けねばならぬ、これすなわち耳を傾けるということ。あなたがたが耳を傾ければ、それが空気の通り道となり、苦々しい煙も家から出てゆく、きれいさっぱり消えてゆく。いと高き主に仕えるというのなら、われらを憐れめ、おお、満々と水を湛えし(恵まれた)旅人よ。何をためらう、何をうろたえる。その躊躇は監獄、牢獄に他ならぬ。魂はどこへも、一歩も踏み出せなくなる。(動機の)ひとつはこちらへと招き、また別のひとつはあちらへと招く。そしてそのどれもが、「われこそは正しき道」と言う。

490. その動揺、その心の迷いが、神の道における断崖となる。ああ、幸いなるかな、(それらの足枷から)両の足の解き放たれた者よ。その者は、惑うことなく道を進む。(もしも)道を知らないならば、彼の足跡を探せ。鹿の足跡を追い、何事もなく道を進め。そうすれば、麝香に達することもあろう。このように旅路を行くことで、最も明るい天頂を極めることにもなろう、もしも炎の道(試練の道)を行こうというのなら。(そこには)海の恐れも、波や飛沫の恐れもない。あなたがたも神の訓戒を耳にしただろう、「恐るるには及ばず」1と。

495. 神があなたがたに恐れを授けたもうこと(罪を犯す恐れを感じとり、罪から立ち去ること)、これぞ「恐るるには及ばず」の成就である。パン(罪を犯さずに済むという恩寵)も授かることだろう、何しろ(神の恐れという)盆を授かっているのだから。恐れ(危険)とは(神の)恐れを持たぬ者、恐れるということを知らぬ者こそが味わうもの。苦悶とはこの場、神を恐れる者たちの場に馴染みなき者のもの。

 


*1 コーラン20章77節。