続)都会の男と田舎の男

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

続)都会の男と田舎の男

フワジャはせっせと(旅の)仕度に勤しまねばならなかった。(出発の)決意の小鳥は羽ばたき、田園に向かって飛び立った。家族も子供たちも、旅の準備を整えて出発の牡牛の背に荷駄を積み、喜び勇んで田園へ向かう、「(期待という名の)果実は食べた、(田園に到着したという)吉報はまだか、吉報はまだか!」と歌いながら。

500. 「われらを捉えるは緑ゆたかな平原、そこに住まう友は情け深くあたたかな人柄。千の願いもてわれらを招き、われらの心に優しさの芽を植えた。彼の許から、田園の土産をたくさん持ち帰ろう、寒い都会の冬を過ごすための養いを。いやいや、彼のことだもの。きっと果樹園をひとつ、われわれのために空けてくれるだろう、そして彼の魂の奥深くに、われわれの居場所を作ってくれるだろう。急ごう、友よ、いざ恩恵に預からん!」。そう歌いつつ、その実、彼らの理性はこうも告げていた、「高慢になるな」。1

505. 喜べ、だが高慢にはなるな。神の恩恵もて利益を得よ、ただし神は高慢な者を愛したまわない。喜べ、だが穏やかであれ。あらゆるものは御方から来る。だが先入観は、あなたがたを(御方から)遠ざける原因となる。神に喜べ、だが神の他には喜ぶな。御方が春なら、他はすべて十二月であると知れ。御方の他は、すべてあなたがたを徐々に荒廃へと導く、たとえそれがあなたがたの玉座、あなたがたの王国、あなたがたの王冠であったとしても。悲しみにあって喜べ、なぜなら悲しみとは、(神との)逢瀬を捉える罠(手段)だから。この道において「頂点を極める」とは、高きから低きへと至ること。

510. 悲しみとは宝であり、そしてあなたがたの痛みは宝の眠る山である。しかしこれ(こうした言葉)で、子供たち(の心を)捉えることができるだろうか?「遊ぼう」という言葉を聞けば、子供たちは野生のロバのような速さで揃ってその後を追い走ってゆく。おお、もの見ぬロバたちよ、そちらに走ってはいけない、それは罠だ。そちらに行けば、流血が隠れ潜んで待ち受けている。矢は飛んでゆく、だが弓は隠れている。目には見えない世界から、若者めがけて百の矢が飛んでくる。あなたが向かうべきは心の(精神の)平原だ、何故なら土塊の(身体の)平原では、何かが開かれることはないからだ。

515. 心こそは安寧の在りかだ、おお、友人たちよ。(そこには)噴水がある、薔薇園の中の薔薇園がある。心に行き先を定め、旅を続けよ、おお、夜の旅人たちよ。そこには木々と、水あふれる(多くの)泉がある。田園に行ってはならない。田園は愚者を育む。光彩ある知性が、虚しきものとされてしまう。おお、選ばれし者よ。預言者は言った、「田園に住まうということは、知性を墓に葬ることを意味する」。一日一晩、田園で過ごした者の知性が、完全に回復するには一か月を要するだろう。

520. 一か月の間、愚かさが彼の傍に住み着き続けるからだ。いったい、حشیش(ハシーシュ、干上がった草)の他に田園から得られるものなどあるだろうか?そして一か月を田園で過ごした者にとっては、その後の長きにわたり無知と無明が彼の所有となるだろう。ここで言う「田園」とは何を指しているのか?それは(神との)合一すらろくに会得せず、ひたすら因習に執着し、議論に明け暮れるシェイフのことである。「都会」、すなわち全的知性に比べれば、我らの五感はまるで目隠しをされ、粉挽き場に繋がれてぐるぐる回り続けるロバのようなものだ。 –– さて、これ(内的意味)を離れて物語の外殻に戻ろう。真珠の粒を置き、麦の粒を拾おう。

525. 真珠にたどり着けないようなら、さあ、麦の方へ行く他はない。押しても駄目なら引くまでの話、あちらの道が駄目ならこちらの道を行くまでの話。外側(形)を捨てよ!外側(形)は曲がりくねり、決してまっすぐではないだろう。だが外側(形)も、やがては内側(意味)へと(あなたがたを)導いてゆく。すべての果実の最初の一歩(段階)に、外側(形)以外の何があろうか?果実の内側にある真の意味、美味という味覚が得られるのはその後だ。まずは天幕を建てるなり、買うなりする。テュルクメン(愛すべき者)を客人として迎え入れるのはその後だ。

525. あなたがたの、姿や形とは天幕であると思え。そしてあなたがたの、真の本質とはテュルクメンであると思え。あなたがたの、真の本質とは船乗りであり、あなたがたの、姿や形とは船であると思え。 –– 神のため、この話はひとまずここまでとしよう。フワジャのロバが鈴を鳴らして、旅の歩みを進められるように。