続)都会の男と田舎の男

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

続)都会の男と田舎の男

都会のフワジャとその子供たちは、身支度を整えてけものにまたがり、田園へと駆けていった。楽しげに野原を横切り、口々に歌った、「旅をせよ、恩恵を手にするために!」。(夜天を)旅することにより、月もまたカイ・ホスロー1のごとく華麗になってゆく。旅することなくして、どうしてホスロー(皇帝)になれようか?

535. 旅を通して、歩兵も高貴な女王となる。また旅を通して、ヨセフ2も百の願望の的となるものを手にいれた。昼は太陽に顔を焦がし、夜は星空に遠い旅路を学ぶ。田園を訪れるという喜びに、悪路でさえも彼らにはまるで天国のように思えた。甘い唇を持つ者ならば、苦味を甘味に変えられる。薔薇園に生まれるものならば、棘でさえも愛おしい。苦いحنظل(コロシント瓜)も、愛する者の手を通して与えられれば甘いخرما(ナツメヤシ)に変わる。狭いあばら家でも、共に住まう者たち次第で広大な平原のようになる。

540. ああ、バラのような頬をした、月のごとき者(恋人)の花開くことを望み、(苦悩の)棘に憂い悶える柔弱な若者はごまんといる。ああ、月のごとき者ゆえに心を失い、傷を負い、その背も曲がりに曲がった運搬夫はごまんといる。鍛冶屋が彼の美を黒く塗りつぶしたのだ、夜が来れば闇に乗じて、(愛する者のごとき)月の面から接吻を得られもしようから。商人は店先の長椅子に腰掛け、身じろぎひとつできずに夕暮れを迎える、ほっそりとしてしなやかな糸杉の面影が、心の中に根を下ろしたがゆえに。行商人は陸と海を縦横無尽に駆け回る、家で待つ愛する者のために。

545. 死せるものへの愛着を抱く者は、誰であれ、生けるものの印をそこに見出そうとする。大工であれば、月のような顔持つ美しき者に捧げることを夢みて、眼前の材木に心を込めて取りかかる。生けるものに望みをかけよ、たった一日や二日で潰えるものではなく、永遠に生けるものに愛を注げ。卑しき者は相手にするな、卑しき者を友とはするな。卑しき者の友情は借り物に過ぎない、それは真に根ざしたものではない。神の他に、永遠不変の友があるだろうか?あなたがたの、父や母との友情でさえいつかは終わるではないか。

550. 神の他に、頼れる者などあるだろうか?あなたがたの、かつての乳母も教師も去って久しいではないか。乳と乳房との馴れ合いも永遠には続かなかった、学舎に通う気恥ずかしさも永遠には続かなかった。それはまるで、壁を照らす陽光のようなもの。(太陽の)印は、太陽の方へと帰ってゆく。勇ましいことだ、あなたがたときたら、照らされて光るものなら何であれ愛を注ぐ。手当たり次第、何であれそこに在るものに愛を注ぐ、それを黄金色に輝かせているのは、神の授けたもう性質であるとも知らずに。

555. 黄金色の輝きが失われ、残るは元の銅のみとなれば、あなたの性質はたちまちそれに飽きて、別離の算段を始める。神のみわざあってこそ美しいものを、追い求めるのはやめねばならぬ、金箔の貼られた銅製の花瓶を、無知ゆえに美しいなどと呼ぶのはやめねばならぬ。銅貨の美しさは借り物の美しさ、真の歓喜の足元に降れば、物質はただ不快なだけだ。偽の貨幣の面から、黄金が鉱脈へと(元いた場所へと)帰ってゆく。あなたがたもその後を追え、鉱脈を目指せ。照らしていた光が、壁を離れて太陽へと戻ってゆく。あなたがたもその後を追え、(永遠の解と公正を)反映して巡り続ける太陽を目指せ。

560. 地上の水路に信実を見出せない限り、天から降り注ぐ水を選び取る他はない。オオカミを狩りへと向かわせる誘惑は、羊の尾それ自体にある。羊の尾が何処から来たのか、ではない。獰猛なオオカミが、どうして淵源の場所など知りうるだろうか。 –– 彼ら(フワジャとその家族)は、黄金と繋がれた結び目を夢想した。欺かれた彼らは、田舎へと先を急いだ。道すがら、笑い、踊り、馬上でくるくると回りながら、やがて見えてくるだろう水車へと向かって行った。彼らの頭上と、田舎の方角へと小鳥が飛んでゆくのを見るたびに、彼らの忍耐の衣装はほころび始めた。一刻も早く田園にたどり着きたい。

565. たどり着いたなら彼らは、田舎の住人であれば誰彼となく、その顔に接吻の雨を降り注がんばかりであった。もちろん、(彼らを招いた)田舎の男も、その隣人も、彼らに歓迎の接吻を返すだろう。そしてこう告げるだろう、「見ただろう?我らの友人のお顔を。愛する者の魂は我らの魂も同然、愛する者の目は我らの目も同然」。

 


*1. フェルドゥスィー『王書』参照。
*2. コーラン12章参照。