試練の効験

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

試練の効験 1

 

鍋に入ったひよこ豆を見てごらん。
火にかけられると、飛び跳ねて大騒ぎする。
煮られる間じゅう、上の方へと浮かんできては
ひっきりなしに泣きわめく。
「なんで私を火にくべる?私を買っておきながら、
こんなひどい目に合わせるなんて!」

おかみさん、構わず杓子で鍋の中身を打ち据える。
「さあ、しっかり煮えとくれ」、彼女は言う ––

鍋からはみ出したりするんじゃないよ、
台所の火をまかされたこの私から、逃げようったってそうは行かない。
私がおまえをしっかり煮込んであげるよ、
私だって、何もおまえが憎くてやってるわけじゃない。
こうすれば、おまえに良い味がついて、美味しい一皿になって、
やがて魂の担い手になるだろうと思ってのことさ。
これは決して、罰でも何でも無いんだよ。
おまえがまだ緑色の若造だったころ、庭でたっぷり水を飲んだだろう?
あの日の水は、今日の炎に耐えるための先払いだったのさ。

神様は、お怒りよりもお優しさの方が先に立つ御方。
おまえに苦労をさせるのも、神様のお優しさゆえ。2
お優しさとお怒りは、品物を取引するみたいなもので、
最後の最後には、ちゃあんと帳尻が合うようになっているのさ。
お楽しみがなけりゃあ、肉も皮も育たないからね。

育ちもせずに、いったい何を神様の愛に捧げるつもりだい?
もしもお怒りに触れて、もうこれ以上は無理だとなれば、
取引はすっぱりとあきらめなけりゃあいけない。
だいじょうぶ、神様は全てをご覧になっていらっしゃる。
これで十分という頃合いに、お声をかけて下さる。
「さあ、これですっかりきれいになった。これ以上、苦しむ必要はない」とね。

–– 煮えよ、煮えよ、ひよこ豆。苦しかろうが、熱かろうが、
すっかり煮えて芯も無くなり、自我も欲望も無くなるまで。
大地の庭から引き離されても、案じるな、
やがておまえはひと匙の食事となり、新たな命を生きるだろう。3

滋養となり、活力となり思索となれ!
かつて乳飲み子であった者よ、密林の獅子となれ!
神の御名において育まれた者よ、神の御名に再び戻れ!
かつて雲と太陽と星々の一部であった者よ、やがておまえは
魂となり命となり、言葉となり思考となるだろう。

植物の生が終わりを告げたところに、動物の生が始まった。
それを思えば、「私を殺せ、真の友よ」という言葉は正しい。
素晴らしい勝利が、死の後ろに控えている。それを思えば、
「死を通してのみ私は生きる」という言葉は、全く正しかったのだ。4

 


1. 『精神的マスナヴィー』3-4159.  「おかみさん」は導師/ムルシド( murshid )、「ひよこ豆」は弟子/ムリード( murid )、そして台所の「炎」とは、スーフィーの規律に従った自己放擲の修行を指している。

2. 神の慈悲と怒りについては、慈悲が怒りに先立つ、あるいは慈悲が怒りに勝つとする伝承がある。我々を存在せしめているのは神の愛だが、その目的は我々が肉体的属性( sifatu’l-bashariyyah )を捨て去り、克服しないことには正しく理解することはできない。

3. ここに紹介した箇所の最後の部分およびそれに続く詩句において、ひよこ豆が料理され、食べられ、同化し、やがて精子になる過程を象徴として用いた精神的進化論が語られている。植物の性質を喪失するところから、動物としての人間の生が始まり、合理性を獲得し、最終的にはそれが元いたところ、神的属性の世界へと帰着するのである。

4. 「私を殺せ、真の友よ」および「死を通してのみ私は生きる」の語句は、スーフィーの殉教者として最も有名なハッラージュによるアラビア語の頌詩からの引用である。