宗教論争

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「宗教論争」1

 

二と七十に及ぶ宗教宗派が、復活の日まで居座り続けるだろう、
異教同士の議論も論争も、尽きること無く続くだろう。2
転がる無数の石ころ達が、財宝の、高い価値の証しとなろう。
曲がりくねった山道は長く険しく、山賊は容赦なく襲いかかる。
それを見て、冒険者は知るだろう、山頂の偉大さ、素晴らしさを。

ありとあらゆる教条や主義は、山道や絶壁、山賊と同じだ。
盲信の追従者達は板ばさみ、二者択一の他にすべがない。
いずれの宗派の長も硬直し、断固として譲らない。
宗派という宗派が、自らに酔い痴れて大はしゃぎだ。

愛だけが、彼らの論争に終止符を打てる。
彼らの議論に巻き込まれ、きみが救いを求めて叫ぶとき、
愛だけが、きみを助けに駆けつける。
雄弁さも、愛の前にはただ唖然として立ちつくす。
愛に議論をふっかける勇気など、誰にもありはしない。
愛を知る者、愛する者なら、滅多なことでは口を開かない。
隠しておいた秘密の真珠を、うっかり落としてしまわぬように。

きみの頭に、見たことのない素敵な小鳥が止まったなら、
きみの魂はふるえるだろう、どうか飛び去らずにいておくれ、と。3
身動きひとつすることも出来ず、ささやく勇気も無いだろう。
きみは咳を押し殺すだろう、不死鳥よ、どうか飛び去らずにいておくれ、と。
そして誰かが一言でも話しかけようものならば、 - 「しっ!」
きみは指を唇に押し当てるだろう、黙っていてくれ、静かにしてくれ、と。

愛とはそうした鳥のよう、それはきみを黙らせてしまう。
ふたを載せた鍋のよう、きみを沸騰で満たしてしまう。

 


*1 『精神的マスナヴィー』5-3221.

*2 この世のある限り、虚偽の教義や疑似宗教が存在し続けることは必然であり摂理でもある。それらは「冒険者」の気概を試すのに役立っており、計り知れない価値を持つ「財宝」を勝ち取るためにも、必ず乗り越えねばならない手ごわい困難として行く手に立ちふさがる。

*3 預言者がコーランを読誦する時、彼の教友達は座して身じろぎもせず、「それを見た人々は、まるで鳥が彼らの頭上に載せられたのかと思うほど」集中して聞いていた、と伝えられている。狼狽や混乱の状態を表わす「スズメが頭から飛び去った」というアラブのことわざがある。