『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
スーフィーは知っている 1
叡智とは、真に信じる者たちの失われし駱駝である。2
彼らは、「それ」が何であるかを熟知している。
故に「それ」について、誰が語ったかは問題とはならない。
そして自らがまさしく「それ」の前に立ったなら、
「それ」を疑うこともなく、また「それ」を見間違えることもない。
喉の乾きを訴える者に、こう告げたとしよう、
「水の入ったこの杯を受け取れ。さあ、飲み干せ」。
これに対して喉の乾いた者が、こう答えるだろうか?
「それはおまえの主張に過ぎない。放っておいてくれ」
「嘘つきめ、あっちへ行け」。
あるいは乳飲み子に、母がこう語りかけたとしよう。
「さあ、母さんのところへおいで。乳を飲んで、ゆっくりおやすみ」。
これに対して乳飲み子が、こう答えるだろうか?
「証明してみせてください。でないと、安心して乳を飲めません」。
あらゆる人の輪の中心には、魂の奥義の味覚が存在する。
この味覚、この奇跡の証しとなるのが預言者の顔と声である。
人の外側から預言者がひと声叫べば、
人の内側からその魂が賛美もてひれ伏す。
何故なら人の輪にあって、自らと同種の者の叫びを、
魂が耳にしたことなど、かつて一度も無かったからだ。
流浪の魂は未知の叫びの中に、自らと同様の「それ」を聞き、
かつて耳にしたことのあるあの響きを思い出すのだ ––
「われは近くにいる」との、神が呼ぶ声の響きを。3
1. 『精神的マスナヴィー』2-3591. アナムネーシス(想起論)ならびに、真理の自明性は神秘的経験によって啓示されるというプラトン的理論を例証する詩句。
2. アリーに帰される格言。「信仰者とは、はるか遠い過去の一時期に保持していた神の叡智を探求する者である。再び見出せば、即座にそれが何であるかを知る」。
3. コーラン2章182(186)節。
2-186. わしの僕(しもべ)たちが、わしのことを汝に尋ねるとき、わしは近くにいて、呼ぶ者がわしを呼ぶとき、彼の呼びかけにすぐ答えてやる。それゆえ、彼らをわしに聞き従わせ、わしを信じさせよ。おそらく彼らは正しい道を歩むようになろう。