魂を導く者

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

魂を導く者 1

 

預言者がアリーに言った。

–– アリーよ、神の獅子よ、
おまえほど、勇敢な騎士はいない。

だがアリーよ、自らの勇気を恃みとするな、
希望という名の椰子の木陰に入れ、
不動の聖者の庇護の下に入れ。

その影はあたかもカーフの山のよう、
その精神は天頂を飛ぶシームルグのよう。2

これに関して語り出せば話は尽きぬ。
ひとたび語り始めれば、わたしは復活の日まで
終わりなき賛美の歌を歌い続けるだろう。

聖なる太陽は人の姿の裡に自らを隠す。
この神秘の意味を捉えよ、
神は真実を最も良く知りたもう。

おお、アリーよ、崇拝の行為は数知れず、
だがこの道においては、
神のしもべの影に身を寄せるのが最上。3

他の誰もが、宗教の儀礼もて自らの救いとしようとも
おまえは立ち去れ、行って賢者の影に入れ。
賢者の庇護もて、自らの裡なる悪からの救いとせよ。

導師に受け入れられたなら、全てを委ねよ。
全身全霊で従え、ヒズルの権威に従ったモーセのように。4
ヒズルが何をしようとも、耐えよ、
「去れ、今こそは別離の時」と言われぬためにも。

船を破壊されようが、口をつぐんで沈黙せよ!
子を殺されようが、取り乱すな!
神はその手を御自らの手に譬えたもう、
御方は告げたもう、「神の手は彼らの手の上にあり」。5

この「神の手」により、弟子は死を得、
同時に、永遠の生を得るのである。6

 


1. 『精神的マスナヴィー』1-2959.  詩人(ルーミー)は多くの詩句において、欲望、現世、悪魔に対するより「大きな聖戦( al-jihad al-akbar )」を戦うために武器を取ろうという者たちに対し、聖者による援助と導きの必要性を説いており、これはそうした詩句のひとつである。

2. カーフ( Qaf )の山とは(平かな)地球を取り囲み、決して辿り着くことができない山脈であり、スーフィズムにおいては神の顕現、もしくは魂を可視化した聖なる存在の原型として扱われるシームルグ( Simurgh )の住まいとされる。

3. 「完全なる人間」とは、仮想的「神化」を遂げたものとされているが、しかし何よりも一義的には「神のしもべ( abdu ‘llah )」であり、これはムハンマドに与えられた称号である(コーラン72章19節)。彼は神の他には何ものにも仕えず、自らが仕える対象の裡に完全に消滅している。

4. あらゆるスーフィー導師が弟子に求める絶対的な服従については、しばしばコーランにおいて描かれるヒズル(ハディル)とモーセの有名な物語にたとえられる。18章64節他を参照。たとえ理解不可能であり道徳的には受け入れ難いように見えても、聖なる人のあらゆる行為は正当化される。

5. コーラン48章10節:「汝(預言者)に忠誠を誓う者は神に忠誠を誓う者にほかならない。神の御手は彼らの手の上に置かれる」。
6. 導師( murshid )の、神の道具としての振る舞いにより弟子 ( murid ) の自我は死に ( fana ) 、神の裡に蘇生する ( baqa )。

72-19. 神の僕(しもべ)がたちあがり、神に祈りをかけると、彼らは、群れをなして彼にはむかうばかりであった。
72-20. 言え、「私がお祈りするのは、私の主にだけである。私は、主にほかのどのようなものも併置するようなことはない」
72-21. 言え、「私は、おまえたちに悪くすることもよくすることもできない」
72-22. 言え、「だれ一人、神から私を守りきれる者はいない。神のほかに私が庇護を受けるお方はいない。
72-23. 私はただ、神のみことばとおつげを伝えるだけの者である。神とその使徒に背く者には、ゲヘナの火が待っている。彼らは、そこに永遠に済むことだろう」

18-65. 彼らはわれらの僕の一人を見つけた。この者には、われらは慈悲を授け、またじきじきに知識を授けておいたのである。
18-66. モーセは彼に言った、「あなたが授かった正しい知識をお教えくださるためには、あなたについていけばよいでしょうか」
18-67. 彼は言った。「私といっしょに我慢することはできないだろう。
18-68. なんのことやらわけがわからないことを、おまえはどうして我慢できようか」