『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
ならわしとひらめき 1
耳がもたらすものは、幾重もの媒介を経由している。
だが愛する者の目は、愛されし者とじかに繋がっている。
耳から得られるのは、「至福」についての語らいである。
だが愛する者の目は、至福それ自体を得ている。2
耳から得るものは既に変質している。
だが目は、根源の変容そのものを得ている。3
もしもあなたが火について知識を得たと確信するなら、
けれど言葉によって語られた「火」がその知識の全てなら、
あなたは未だ火を知らず、未だ料理されてもいないのだ。
火そのものに触れよ、自らを料理せよ、
他人から聞かされた知識を根拠に知ったと思うな、
疑うこともせずに、確信の裡に留まるな。
直観の確信は、実際に焼かれること無しに得られはしない。
火の裡に座せ、もしもあなたが真にこの確信を得ようというなら。
耳も鍛えれば目と同じ働きをするようになろう、
でなければ、耳は言葉を捉えられないだろう、
言葉は耳と耳の間にこぼれ落ちるだろう、
心に届くこともできないだろう。4
1. 『精神的マスナヴィー』2-858.
2. 耳がつとめるのは、その娘がいかに美しいかを花婿候補者に語ってきかせる dallalah (職業的な結婚仲介人)の役割である。
3. 「聞く( sam’ )」、すなわち権威に基づいた知識は、それが口伝にせよ書伝にせよ、聞いた者・読んだ者にもたらされる変化は精神または道徳の面に限られる。セルフに完全な変化をもたらせるのは神の直観的ヴィジョンをおいて他にない。上述以降の詩句においてルーミーは、「聞く」ことに由来する確信( ‘ilmu ‘l-yaqin ) と「見る」ことで獲得される確信( ‘aynu ‘l-yaqiqn )、加えて実際の経験を通じて得られる理解( haqqu ‘l-yaqin )を対比させている。
4. 精神的知識の初歩は、耳をもって受け取るところに始まる。それが心に届き oculs cordis すなわち心の目によって捉えられれば、聞くことは見ることに転じる。