存在の行く末

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

存在の行く末 1

 

この世にデルヴィーシュは存在しない。仮に存在したなら、
そのデルヴィーシュは、現実のものではない。2
そこにあるのは、後に残された彼の本質であり、
彼の属性は、神の属性の中に消え去っている。3

太陽の前に置かれたろうそくの炎のよう、
有っても無いかのよう、無くとも有るかのよう。
形ばかりはそこにあるにせよ、
彼の存在は、現実のものではない。

炎の本質は存在の領域にある、
綿をつまんでかざせば、綿はたちまち燃えて消える。
しかし現実には、それは存在しない。
光を放つこともない、太陽が消し去ってしまったから。

一山の砂糖に、一さじの酢を溶かし込んだなら、
その砂糖を舐めたところで、酸味は感知されないだろう、
秤にかければその存在が、重さとしてあらわれるにしても。

獅子の前にあっては、鹿はその感覚を失う。
鹿の存在は、獅子のための覆いでしかなくなる。

未完成の男が、主のみわざを想って描く類推は、
愛の感情のようなもの、冒涜にはあたらない。

愛する者はあつく脈打つことを恐れず、
境界を越えて自らを、王と同位の高みにまで連れてゆく。

不遜な者にも見えるだろう、彼は愛されし者に
自らが捧げるのと同等の愛を、求めてはばからないのだから。
しかしより深みを見よ、彼が求めるものとは何か?
彼も彼の求めも、かのスルタンの前には無に帰する。

مات زيد –– 「ザイドは死んだ」。
文法上、ザイトは動作主格にあたる。
にも関わらず、彼は主格ではない。
死んで –– 消滅して –– しまったのだから。

彼が主格であれるのは、文法上の表現としてのみのこと。
あるいは経験者格にあたる、死が動作主格として、
彼の上に斧をふるったのだ。

主格として動作する属性のすべてを、
根こそぎ奪われてしまった者が、
いったい何を為せようか?

 


1. 『精神的マスナヴィー』3巻、3669. スーフィーたちは神秘的合一の性質に関連する異なる論に応じて fana という語を用いるが、それはおよそ以下のように解釈できる:
(1) さながら大海にある一滴の水のようにその個別性( ta’ayyun )を失うように、被造物の本質( dhat-i ‘abd )が神の本質に消滅( fani shavad )して自らの存在に終止符を打つこと。
(2) 被造物の属性( sifat-i ‘abd )が神の属性に消失すること。被造物の人間的属性が神的属性の裡に変容し( mubaddal )、その耳と目が神の有となること。
(3) さながら太陽の光の前に星々が消え去るように、被造物の本質が神の本質の光の裡に消融すること。その場合、被造物の被造物性( khalqiyyah )は存続するが、創造者性( Haqqiyyah )という側面の下に封印( makhfi )される。主( Rabb )が明らかとなり、しもべ( ‘abd )は姿を現さなくなる。

2. ここで言う「ダルヴィーシュ」は、たとえ生きているようには見えても、現世における死を選び自己を捨て去った聖者という、神秘道における貧者として完璧なタイプを表わしている。

3. 「身体( dhat-i bashariyyah )」が消滅していない以上、形式的には彼は存在する。しかしすでに変容を遂げ「神化」しているがゆえに実際には個人としての存在は消滅しており、その者のあらゆる部分は神の生命と活力の滋養によって生かされている( baqi hast )のである。