合一の状態

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

合一の状態 1

 

王の中の王と私は似ても似つかない、王の中の王ははるかに遠い ––
だが王の輝きが放つ光なら、わたしは得ている。2

おなじひとつであることの証しは、姿かたちにも、本質にも宿らない。
水も植物の内側では、土とおなじひとつになる。

わたしなるものの類いと、わが王の類いとが異なるがゆえ、
わたしは<わたし>を去った、王の<わたし>のために。

わが<わたし>が消え去れば、残るは唯かれの<わたし>。
かれの馬の脚の下に、砂塵の一粒となったわたしが散る。

個の<わたし>は砂塵となった、かれの残した足跡のみが
かつて<わたし>なるものが在ったしるしになるだろう。

いと高きかれの足下の砂塵の一粒になり、
いと高きかれの頭上に戴かれし冠となれ!

 


1. 『精神的マスナヴィー』2巻、1170.

2. ルーミーは ittihad-i Nur すなわち「神の光をもってひとつとなる(『精神的マスナヴィー』5巻、2038)」ことをいわゆる「鼓吹」や「受肉( hulul )」における合一とは異なるものとしている。神は唯一である。たとえあらゆる神的属性を身につけた「完全なる人間」であったとしても、神そのものでは絶対にない。真理( haqq )ではあったとしても、真理そのもの( al-Haqq )ではない。フィロンのいうロゴスが θεος ではあっても οθεος ではないのと同様である(C. ビッグChristian Platonists of Alexandria第2版 p.42, 注2参照)。

3. 「完全なる人間」は、「彼という砂塵の上に、神の足跡がある」。潜在を抜けて実存在へ至る以前に、彼の上には神的属性が永続的に刻まれている。

彼と宇宙との関係は指輪の印章を刻んだ石と指輪との関係に等しい。彼は彫刻されている場所であり、王が宝庫を封印する時に使う印章の場所でもある。
(イブン・アラビー『叡知の宝石』, 13)

 


邦訳者但し書き:註3の、イブン・アラビー『叡知の宝石』部分については以下の文章より引用しています。

竹下 政孝「『叡知の宝石』(Fusus al-Hikam) にみられるイブン=アラビーの「完全人間」」