『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
進化の道程 1
最初にかれがあらわれたのは無生物の領域
そののち植物の領域にはいりこみ
しばらくのあいだ 植物の生を生きていたが
その間じゅう自分が何をしているのか
考えたこともなければ 思うこともなかった
それから道の先へ 動物の領域へ歩みを進めた頃には
植物であった頃について 二度と思い出すこともなかったが
まるで赤子が 何故とも知らず乳房を探し求めるように2
自分が 甘い香りの花咲く季節を恋い焦がれているという感はあった
こののち更に あなた方も知るかしこき創造の御方は
動物の領域から人間の位階へと かれを引き上げたもうた
こうして領域から領域へと上昇するごとに
知性を持ち 狡猾さを身につけ ますます聡くなり
このようにして かれは今あるかれになった
今のかれの何処を探しても 過去の記憶は残っていない
そして今ある魂の如何により かれは再び変化を遂げるだろう
たとえかれが眠っていようとも 神はかれを忘却の淵に留めたまわぬ
目覚めてかれは つい今しがたまで見ていた悪夢を思って笑い
今あるこの幸福の状態を なぜ忘れていたのかと不思議がるだろう
あの痛みもその悲しみも すべては眠りがもたらすまぼろし
悪夢を見ていたことに なぜ気づかずにいたのかと思うだろう
永遠に続くかのように見えても この世は眠り人の見る夢に過ぎない
約束されたその日 昏い夢想から逃げおおせる者は誰か
まぼろしの悲哀を笑いに転じ 永遠の住処を手に入れる者は誰か
1. 『精神的マスナヴィー』4-3637. 上記を含め、[白川夜船]、[試練の効験]、[魂の階梯]および[FONS VITAE]といった詩句においてルーミーが示す魂の発展という教理は、彼独自の見解というわけではない。かなり初期の段階からモスレムの哲学や神秘主義に姿を現しているこの教理は、アリストテレスの理論である魂の三分説に基づいている。ミルトンもまた、これを詩的に解説している(『失楽園』5-479参照)。
……かようにして、樹木の場合、根からは軽やかに
緑の茎が生じ、茎からはさらに軽快な葉が生じ、そして最後には
完璧な花がその絢爛たる姿を現し、馥郁たる香気を発するに
いたる。花が咲き果実が生ずると、これが人間の滋養物となり、
次第に階梯を経て上昇してゆき、生気へ、精気へ、知力へ、と
向かい、かくして生命と感覚とを与え、想像力と悟性とを
与えるにいたる。そして窮極的には、霊魂がこれらのものから
理性を受けることになるのだが、推論的なものであれ、
直観的なものであれ、理性こそは霊魂の本質なのだ。
(岩波文庫『失楽園』上巻、 平井 正穂訳)
類例を完成させるならば上記の詩句は、ミルトン著『キリスト教教理論( De doctrina Christiana )』との関連において読まれるべきだろう。同書において彼はその見解を、さらに精緻なものとしている:「……無生物も有生物も、すべての被造物はまったく同一の根源または第一原因による多種多様なフォルムからなる現われ以外の何ものでもない。その第一原因ももとを辿れば、唯一の永遠なる精神のまさしく実体から流出ないし放射されたものである(D. マッソン編『 ジョン・ミルトン詩作品集( The Poetical Works of John Milton )』3-361)」。
2. 植物の魂は成長、同化、再生といった機能を有する。春の花や緑は、植物の魂の「子」にあたる動物の魂に眠る、潜在的な「母」の思い出をゆり起こすのである。