抜きがきの覚書:チティック氏の御本から

広義において、スーフィズムとはイスラムにおける信仰と実践の内面化ならびに強化であると言えよう。しかしながらアラビア語のスーフイーという言葉は、支持者・反対者の両方によって何世紀にも渡り様々な意味で使用されてきており、それは一次・二次双方の資料に反映されている。 この語の由来については、頻繁に議論がされてきた。現代の学者たちは、「羊毛を着る者」というのが本来の意味として最も可能性が高いと結論している。八世紀(イスラム暦では二世紀)ごろには、禁欲主義を指向し、敢えて粗末で着心地のわるい羊毛の衣を着用する人々をしばしばこの語で呼んだと言われる。それは徐々に、コーランと預言者の特定の教えと実践を強調することにより、自分たちをその他のムスリムから区別する集団を指す語となっていった。

九世紀までには、イスラム学についての多種多様な研究手法が発達した。各々の学派について、その支持者たちは、コーランとハディースの理解にはこれが必要不可欠であると考えていた。この状況において、スーフィーと呼ばれる人々の中から、彼らの活動や願望を指すのに適切な名称として、「スーフィーであること」あるいは「スーフィズム」を意味する動名詞形の「タサッウフ」を掲げる者があらわれた。だがこれらの人々は、同時に彼ら自身を「知覚者」や「禁欲者」、また「放棄する者」あるいは「貧しき者」とも名乗っていた。スーフィーという用語の特徴は、その起源が全くもってあいまいであるにも関わらず、それが固有名詞の雰囲気をまとっているという点にある。しかし、たとえその呼称は新しいものであったにせよ、スーフィーたちが焦点を当て、関心を示してきたことそれ自体は決して新しいわけではなかった。Bushanjiが指摘するように、「実態」は、イスラムの始まりからすでにそこにあったのである。

一般にスーフィーたちは、神命と真剣に対峙し、世界と自己の双方において主を知覚しようとするムスリムとして自分たちを見なしている。彼らは外面性よりも内面性を、行動よりも熟考を、律法主義よりも精神の発達を、社会的な相互作用よりも魂の修養を強調する。神学的な側面においては、スーフィーたちは、神についてその怒りや厳しさ、偉大さなどを議論するよりも、慈悲や優しさ、美しさについてはるかに多く語る。スーフィズムは特定の組織あるいは個人と、また豊かな文学と一体化した。

スーフィズムを正確に定義することの難しさを考えれば、どのムスリムがスーフィーで、どのムスリムがそうでないのかを分別するのは容易ではない。スーフィーであるということは、スンナ派/シーア派の分裂や、全てのムスリムが(本人が知ると知らざるとに関らず)複数の法学派の解釈を実践している、といった事象とは全く無関係なのだ。

その他の学派よりもはるかに大きな役割を何か所かの地域において果たしたとは言え、スーフィズムと地理的要因との間に特別な関連性があるわけでもない。セネガルからアルバニア、中国、インドネシアに至るまで、イスラム世界のあらゆる地域で見いだせる以上、スーフィズムと民族には何の関係もない。特定の組織が一定水準の上なり、あるいは下なりに位置していようとも、全体としてのスーフィー組織は社会的階級とも無関係である。家族との相関関係も必須条件ではない。家族全員がスーフィーの教団に属している場合もあるが、同時に、家族が反発心を抱いているにも関わらずスーフィーへの帰属を公言する個人や、スーフィーの家系に生まれつつ、それがイスラムとは相容れないと判断する個人もごく一般的に見受けられる。

男性のみならず、一般的とは言い難いものの女性もスーフィーになることはあり得る。加えて、思春期前ということで一人前の成員として認められることはほぼ皆無ながら、児童であってもスーフィーの儀式や活動に参加する。スーフィズムは大衆による宗教と密接に関わっているが、同時にイスラーム学の分野において選び抜かれた最高峰の表現をも生み出した。しばしば公的な支持を得た法学者たちとは対照的であるかのように看做されつつ、法学者のうち幾人かが(スーフィズムの)信奉者として数えられるのが常であり、またスーフィズムそれ自体も、ある時は法学と共に、またある時は法学者の影響に対するカウンターとしてしばしば公的な支持を得てもいる。特徴的なスーフィー組織 - 「序列」もしくは「道(タリーカ)」 - が、イスラム史における重要な役割を果たすようになるのは十二世紀以降のことである。だがその後でさえ、スーフィズムは必ずしも何かしらの序列を伴うというわけではなかった。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。