タイトルだけで読書感想文

平凡社の東洋文庫、12月にガザーリーさんが出るのらしいです。
『中庸の神学 中世イスラームの神学・哲学・神秘主義』ガザーリー  中村 廣治郎

「ガザーリーは11~12世紀にイスラームの神学・哲学・神秘主義を深め、イスラーム思想独自の地平を切り開いたイスラーム最大の思想家の一人。その思想遍歴を代表する三編を収録」。

ガザーリーさんが構築したとされる法学・神学・神秘主義の三すくみ体系についてはともかく、ガザーリーさん御本人はまったく中庸ではないよなあ。百歩譲って中庸は中庸でも、極端と極端を足して2で割ったらそりゃあ「いってこい」で真ん中にもなるよ、っていう中庸だろう。

「中村 廣治郎」のお名前があるということは、やっぱり「誤りからの救い」であろうか。あと「中世思想原典集成」にも2つある。それで三編なのだろうか。既出でないもの、何か収録されているのだろうか。

こういうのは黙って買っとくべきなのだろうか。ガザーリーくらいのビッグネームだと、英語圏ならペーパーバックでわんさかある。でもそれだと単に情報を得たいだけならともかく、いつまでもいつまでも日本語をドメインとする「イスラムの文脈」みたいものが全然積み重なっていかないから。こうしてチョイスが増えること自体は良いことだろうし。とはいえ、買う・買わないとなると。やっぱり中身を確認してからかな。いやここはひとつご祝儀ってことで。ああでも。ぐるぐるぐるぐる。

ところで、ガザーリーさんにはアハマドという名の弟さんがいる。

ムハンマドお兄ちゃんがあちこちのマドラサで「あの学派はだめ、この学派もくそ、哲学者は滅びろ」って喧嘩三昧の日々を過ごしている間じゅう、こつこつとスーフィー修行を重ねて、齢三十に達する以前にはすでに「クトゥブ」と呼ばれるほどに大成大悟していた。のちのち、そのお兄ちゃんも「なんかぜんぶむなしくなった」とスーフィー修行に出てしまうわけだが、ある日突然そうなったというよりも、この弟の影響というか手ほどきがあったんじゃないか、という。

弟さんはお兄ちゃんのように多作ではなかったし、またお兄ちゃんがああいう感じなのもあってか、すっかり目立たない存在というか、なかなか知るひとも少ないようだ。でもそんな弟さんに『sawanih(直観)』という著作があってですね。これがすごくこう。よいです。プールジャヴァディさんというイランの学者さんが編纂した版+訳+注釈があってですね。

アフマド・ガザーリーさんについては、岩波「講座 東洋思想」の、イスラーム思想その1だかその2だったか、プールジャヴァディさんがこの『直観』から、いくつか引きつつ小論を寄せておられる。これ以外にもまとまった何かがあるのかどうか、寡聞にして知らぬ。「大ガザーリー」「小ガザーリー」みたいに呼び分けする、くらいのとこまで知られてほしい。

そういう意味でもやっぱし買っとくべきなのかなあ。大ガザーリーに露払いさせるつもりで。うーん。(でも予約はしない)

神に称賛あれ、諸世界の主たる御方(コーラン1章2節)。そして物事の結果はすべて正しき者に属する(コーラン7章28節)、不正を為す者に属する憎悪を除いては(コーラン2章193節)。我らが主人ムハンマドならびに彼の正しき一族の上に祝福あれ。

(1) ここに記されるいくつかの章は、愛(‘ishq)に関する(神秘主義者の)思考(ma’ani)を私の言葉を用いて著したものである。実際には愛は言葉で表現できるものではないし、文章に宿るものでもない。愛に関する思考とは処女のごときものであり、言葉による手指では彼女らを隔てる幕の裾にも届かない。この状態においては、仮に我々に課された務めが、言論と呼ばれる「個々人の寝所における、処女たる思考と人界の言葉の婚姻」であったにせよ、語られる談義がまとう外向きの表現(’ibaral)は様々な思考についてのほのめかし程度に留まらざるを得ない。さらにこの(言葉の)曖昧さは「今すぐにでも食べないと気が済まない」ような人々以外のためにのみ存在する(dhawq)。ここから思考の根は二方向へ伸びてゆく。すなわち外向きの表現がほのめかす意味について、ほのめかされた意味がまとう外向きの表現についてである。たとえ言葉の深奥に鋭い剣の刃が隠されていようと、それを感知できるのはただ内的感覚のみである。故に(本書における)章に理解不可能な言及があったとしても、それもまた思考の一部分と看做されたい。神は最も良くご存じであられる。

(2) 私が筆を取るにあたっては(道を同じくする)同胞のうち、私にとり最も愛すべき親友Sa’in al-Dinの勧めがあった。私が思いつくまま(神秘主義的な)愛の持つ意味についていくばくかの章からなる書物を著したなら、愛との親密な交わりを欲しつつ、そうした願いの両手が合一の裾に届くこと叶わずにいる者でも、書物を読むことによって(彼自身の)慰めを得、また記された語句の意味を通じて(愛の在り様の)疑似体験を得られよう、とのことである。

(3) (友人として)彼の期待に応じようと、それが創造主にもまたいかなる被創造物にも帰されるものではないという条件の下で、私はいくつかの章の執筆に同意した。だがそれは特定の見解や事実、状態、ならびに愛の目的を助長するためではない。(私がこの書を記したのは、)友がどうすることも出来なくなったときに、(この書の)行間に慰めを見出せたならという、ただそれだけのためである。古くからの言い伝えにもある通り、「人間の医者なら、皆が薬を処方するだろうが/ライラの言葉以外には汝を癒せるものはない」あるいはまた、「彼女の口から流れる水に渇き/それを得ること叶わぬならば/せめて葡萄酒を飲む他はない」。葡萄酒が水の代わりになり得るだろうか?とは言うものの、心痛を和らげる程度ならばできるかも知れない。
(『直観』の序文、プールジャヴァディさんの英訳から重訳)

……『宗教諸学の蘇生』は基本的には教訓的著作であり、主としてイスラームの倫理的教義と実践的教えを扱い、深遠で神秘的傾向が顕著であるが、厳密には哲学的著作とはいえない。しかしアブー・ハミードの別の作品『哲学者たちの崩落』(TAhafut al-Falasifah)は哲学的作品そのものである。とはいうものの、この作品中の哲学へのアプローチは建設的であるというよりはむしろ破壊的である。アブー・ハミードは新しい形而上学体系を確立することはなく、イブン・スィーナーとその後継者たちの体系に挑戦することもなかった。哲学の分野でこの仕事は一世紀も経ずして別のイラン人哲学者シハーブッディーン・スフラワルディー(Shihabu al-Din Suhrawardi, d.587/1191)によって着手された。」「スフラワルディーはアブー・ハミードとは異なり建設的にペリパトス哲学に挑戦し、しかもスーフィーたちの教えをもとに新形而上学体系を確立したことは事実であるが、しかしながら彼はその哲学に敵意をもっていたわけではなかった。彼の新体系はイブン・スィーナーの思想から多くを取り入れている。彼の<光>の形而上学はムスリム・ペリパトス派哲学の体系といまだ多くの点で類似している。スーフィズムによるペリパトス哲学への真の挑戦はむしろもう一人のスーフィー、アブー・ハミードの弟アフマド・ガッザーリー(Ahmad Ghazzali, d.520/1126)によって着手されたのである。
(「愛の形而上学」ナスロッラー・プールジャワディ 訳・三浦伸夫 『岩波講座・東洋思想第四巻 イスラーム思想2)

ガザーリー兄弟くらいまでさかのぼれば、シーアがどうだのスンニーがどうだのといったやり取りにしても、あったとしてもあくまでも学派間の相違、くらいの感じでやり合っているところがいいな。解釈上の見解の相違なら、お兄ちゃんガザーリーみたく「くそ」「おまえがくそ」ってやっててくれればそれでぜんぜん構わないのだから。

それと21世紀の今「シーア」と言ったとき、言った人10人中6、7人くらいはシーアというよりホメイニズムを指して「シーア」って言っちゃってると思う(私も含めて)。たぶん。

やはり買っておくべきなのか、『中庸の神学』。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

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