R. バダウィ『書物』


1000 Lashes: Because I Say What I Think

14. 書物

今回のリヤド国際ブックフェアでは、男女共に終日の入場が許可されるという当局の発表があった。以前は男女隔離の上で開催されていたから、これはブックフェア史上初の出来事だ。文化情報省に感謝の意を表したい。これはポジティブな第一歩だ。

この前進をうけて、せっかくだからここで男女混淆と khalwa(語義としては『片隅』。人目の目の届かない、暗がりの『片隅』を意味している)に関する一般にありがちな誤解について明らかにしておかないといけない。最初に断っておくけれど、このふたつは決して同じものではないからね。こうした問題は議論の余地なし、とばかりに一緒くたにされてしまいがちだけれど。

まずはシャリーアにおける「khalwa」が、本当はどういう意味なのかを説明するところから始めよう。それはドアの閉ざされた密室で男女が二人きりで会うことを指している。第三者の同席もなく、彼と彼女が誰にも見られず一緒にいる状態だ。たとえるなら、公けには誰にも知られることのないトップ・シークレットの工作活動みたいな、ひょっとするとこの二人の間に禁じられた行為がおきる可能性があるかもしれない状態……とは言っても、あくまでもそれは「可能性」に過ぎない、という点をぼくは強調しておこう。

実際には、シャリーアは「khalwa」を禁じてはいない。だからイスラム法の名において罰するべきではない。預言者 –– 彼の上に平安あれ –– はこう言っている。「男と女が二人きりで片隅にいれば、三人めとして悪魔が同席する」。この言葉は、二人がひとつの場所に同席する権利を否定してはいない。「khalwa」にいる人々は必ずや悪魔によって邪悪の側に引きずり込まれるだろう、と断定しているわけでもない。

悪魔が同席すると分かっている場所におもむくのが駄目なのだ、などと言い出すようならぼくたちは全員、合法とされるマーケットにだって絶対に行ってはいけない、ということになりかねない。だって市場なんてどう見たって、悪魔がうじゃうじゃ集まってそうだもの。

男女混淆というのは、パブリックな空間に複数の男女が集まる状態のことだ。例えばモスクや巡礼の最中や、戦争や、結婚式のような社会的イベント、公共の交通機関とか、学校とか大学とか職場などなど。混淆は禁じられていない。にも関わらず禁じられていると言う人々は、預言者とアッラーを誹謗しているといえる。何故ならそもそも彼らのしていることは、アッラーが決して禁じるよう命じてもいないことの禁止だからだ。人間の権利を制限しようというのなら、明白にそれと分かるコーランの一節をもってするのが唯一あるべきやり方だろう。純粋に宗教的な判断と呼べるのはコーランだけだ。コーラン以外には、アッラーがこうと定めたものごとを禁じたり許したりする権限を持つ人間なんてただのひとりもいない。アッラーは、その聖なる書物の中でこう言っている。「アッラーに就(つ)いて虚偽を作る者よりも、甚だしい不義な者があろうか。かれらは主の御許に引き出され、その証人たちは、『これらの者は、主に関して偽った者です』と言うであろう」。

混淆は許されているとするに足る証拠は沢山ある。預言者 –– 彼の上に平安あれ –– が存命だった頃などは特にそうだ。アル=ブハーリーの『サヒーフ』18によれば、預言者の時代には男女一緒に礼拝前の浄めを行っていたという。アブドゥッラー・イブン=ウマルも、預言者 –– 彼の上に平安あれ –– の時代には男性・女性の別なく一緒に浄めを行っていたと言っている。アブドゥッラー・イブン=ウマルが言うには、「私たちは同じ鉢の水を使って浄めを行った。同じ鉢に、一緒に手を差し入れ(て水をすくっ)た」。

女性たちは、男性たちのすぐ後ろにじかに並んで礼拝したりもしていた。現代におけるアッラーのモスクでまかり通っているような、カーテンで仕切って隔離するようなことは行われていなかった。礼拝の間、女性たちは顔だって出していた。今のぼくたちは神聖なはずのモスクで、彼女たちに顔を覆い隠すよう強要している。これでは(預言者の時代とは)まったく正反対じゃないか。

預言者の時代には、男女混淆は全くふつうのことだった。当時の様子を記録した書物がその証拠だ。読めば女性たちが男性たちと肩を並べて、政治にも社会にも参加していた事実が見てとれる。

ぼくたちは過激主義者の声を否定しなくてはならない。ブックフェアに限らず、生活のあらゆる場面で男女混淆の禁止を推し進めようとする人々の声に耳を貸してはいけない。ぼくたちはこの国のすべての息子たち・娘たちが公正に機会を得られるようつとめるべきだし、時として頭をもたげてくる腐敗した宗教的テロリズムや過激主義者の層は放置せずに掃除してやる必要がある。

さあ、早いところ目を覚まして起き上がらなくちゃ。急いで。

18. アル=ブハーリーの『サヒーフ』とは、ハディースと呼ばれる預言者ムハンマドの言行や教えの記録集成。


[以下、めも]引き続き、ライフ・バダウィ『1,000 LASHES』から。ジャズィーラ紙にも転載された一文だそうで、日付不明となってはいますが、検索したところ同ブックフェアに関するアフラム紙の記事を見つけることができました。2013年。

「男女混淆」なんて、あんまりほめられた感じのしない造語を持ってくる羽目になってしまった。最初はそう思いましたが、ふと検索してみたところ『徳田秋聲全集 21: 随筆・評論3』というのが釣針にひっかかってくれました。シューセイが使ってるんなら問題ない、ということにしておきたいと思います。

日本語圏内では大抵の場合、「男女混淆」ではなく「男女隔離」「女性隔離」という言い方がされます。「男女隔離政策が取られている」とか、そういう感じです。その上で、しかし男女隔離政策を擁護するわけではないけれども(ここ大事)、男女隔離政策をいわば逆手に取ったやり方で特定の職業分野では女性の社会進出が進んでいたりもするんだよ、といった感じに続くことも多いです。外部からの言説としてバランスを取ろうとするなら、それが最善とは言わないまでもまあ無難なのかなとも思ったりもします。少なくともここまであからさまに社会全体で男女隔離がなされていないにしても「自分の属している社会における女性の置かれた場所」について多少なりとも視野に入れた上での発言でなければ、「イスラム社会における女性の置かれた場所」を理由にイスラム社会の「後進性」をあげつらうだけで終わってしまいそうだし、それってあんまりプロダクティブではないし。

まあこんな具合にもごもごしているうちは(私自身のことですが)、ひとまずひとのはなしを聞くこと、それも聞くに値するはなしを聞いておくのがいいです。バダウィ氏のはなしは、聞いていてとても「いい」です。

はなしは全く変わりますが、スーフィー見習い的な文脈でいうと「khalwa」は師匠から弟子に課される修行のひとつを指します。いわゆる「参籠」のようなものです。隠遁、と訳されることもあります。ハルワティーヤ、オスマン式発音ではヘルヴェティーヤというスーフィー・タリーカがありますが、このタリーカの名称が「khalwa」に由来すると習いました。ヘルヴェティーヤは17世紀からオスマン帝国末期にかけて、一時期はバルカン半島全体で大いに活発に運動なさっていたそうです。

あ、それと文中で引用されているコーランの句は11章18節です。