R. バダウィ『職業的宗教家、アラブ思想家、罠にかけられた自由』


1000 Lashes: Because I Say What I Think

1. 職業的宗教家、アラブ思想家、罠にかけられた自由

言論の自由とは、思想家なら誰もが呼吸している空気だ。それは知識人たちの思考の火を燃やす燃料だ。過去の何世紀にも渡って、国家と社会は、そこに住まう知識人たちの仕事を通じて前進してきた。彼らが、その思考や哲学を提示してみせる。そののちに人々は、どのような知的流儀が自分にふさわしいか、様々な視点をたたえたプールの中から選び取ることができた。望むならそのプールを、さらなる知識と発展、文明と繁栄の深い海へと変容させることだってできた。

多くの文明社会、多くの人権団体や組織が、言論の自由は人間の基本的な権利であると考えている。言論の自由の問題というと、彼らはアラブの体制に方針を改善するよう呼びかける。人間として、きみにはきみ自身を表現する権利がある。思考を追いもとめて旅をする権利がある。信じる権利もあれば、過ちを犯したら償う権利もある、ちょうど愛したり憎んだりする権利があるのと同じように。リベラルになる権利も、イスラム主義者になる権利もある。

実際には、あらゆる一神教的な宗教は言論の自由を強く謳っている。

例としてイスラムを挙げよう。コーランにはこんな一節がある。「言ってやるがいい。『真理はあなたがたの主から来るのである。だから誰でも望みのままに信仰るなり、拒否させるなりしなさい』」。

この節に込められている意味を探すのに、懐中電灯なんか必要ない。読んだ通り、誰の目にも太陽の光のように最初から明らかだからだ。

アラブの思想家たち、特に自由思想の精神を授かってしまった思想家たちは、行そのものよりも行間を書いたり、自分たちの言葉と手を取り合い、その種の話題の周縁をまわって踊ったりするのにすっかり慣れきってしまっている。彼らにしてみればそれだけが唯一の手段であり、自分たちの哲学を手渡しするにはこれ以外にやりようがないのだ。とりわけ啓発的な理論で知られている人物であればあるほど、冒涜的な無神論者とみなされてしまう。アラブ社会は、あらゆる自由思想的な考え方を道徳的退廃とみなすようプログラムされてしまっている。そういうのはすべて反宗教的なふるまいであり、正しい道からの逸脱だと思われている。

これってふつうのことだろうか?まさか!そんなはずがないだろう。アラブの思想家たちも、彼らが属しているその社会も、両方そろってその最も根源的な自然に反する行為にふけっている。たとえ彼らの思想が不完全であるにせよ、あるいは「現状」 –– 言い換えるなら、宗教が影響力を握っているこの現状 –– に対して批判的なものであるにせよ、主題が何であれアラブの思想家たちは、あらゆる場面において自分たちの思考や哲学をもっと勇気を持ってはっきりと語る必要がある。

その一方で社会の側もその集団的意志を、あらゆる思想や信条に対して開かれたものにしてゆく必要がある。社会はそこで暮らす人々に、他者の意見にも耳を傾ける機会を与えることができるようでなければならない。何ひとつ始まってもいない段階であらかじめ拒絶してしまうのではなく、人々が自分たちで批判的に考察できるようにしないといけない。ポジティブな批判的思考に裏打ちされたクリエイティブな対話こそ、アイデアの質を高めたり広げたりできるのだ。

アラブ社会を観察している人たちなら、何が問題なのかを簡単に見抜いてくれるだろう。宗教学者たちの意見におとなしく服従する者にのみ身内としての寛容さを示す神権体制の圧迫の下で、社会全体が小声で不平不満をささやき合っている。

聖職者たちに対する宗教的忠誠の術なら、この社会は間違いなくしっかりとマスターしきっている。学者のファトワ1なり、彼らの説明する宗教の意味なりが絶対の真理だと思われている。そうしたものこそが神聖なのだとみなされている。自由思想の持ち主が、あえて聖なるものと禁じられたものの海を目指す旅に出ようと試みれば、聖職者たちが発する何百ものファトワに直面することになる。そうした学者たちは合理主義者を威嚇し、否定し、背教者として断罪する。

進歩的なアラブ思想家たちが新鮮な空気を求め、宗教的権威者たちの刃を逃れ、このアラブ世界から次々に去っていってしまうことこそ、最も恐ろしいことだとぼくは思うのだが。

1. ファトワとはムスリムの宗教権威が発行する宗教令であり、発行者を権威と認める人々にとっては法的拘束力を持つ。


[以下、めも]2010年8月に書かれた文章。引き続き、ライフ・バダウィ『1,000 LASHES』から。引用されているコーランは洞窟章(18章)の29節です。

Al-Monitor“Who is Saudi activist Raif Badawi?”という記事がありました。書かれたのはバダウィ氏とは六年越しのご友人の方だそうですが、なんかいいなこれ、と思いました。めったやたらな称賛記事ではないところがいいです。何と申しますか。例えばこの御本の前書きを書いてるミスタ・クラウスなんかは、いかにもアメリカ人っぽいすかっとあけっぴろげなニュアンスもへったくれもないヘルシーな感じで(これはこれで寿ぐべきであります)すばらしい!すばらしい!と称賛していますが、ご友人の記事はそういうのでは全くないのがいいです。

彼が夢中になって読んでいたというアブドゥッラー・カースィミーを「だいたいカースィミーなんてああでこうで」とくさしておいて、「そもそも(バダウィは)言うほど読書家ってわけでもなかった」「宗教批判に興味のあるアラブの若造なら絶対読んでるはずのジャブリーとか、タラビチとかシャフルールあたりを全く読んでない」。で、それに続けて

「あいつが読む本っていうのは地元の図書館じゃ絶対置いてないような変なのばっかり。宗教文化系のすごい斬新な本とか作者のはなしは大体あいつから教わった」

のあたり、個人的にはこちらの記事を読む以前に『1,000 LASHES』を読んで著者についてあれこれ妄想していたもので、あーうんやっぱりね、そういう感じしてました、ってなりました。ご友人の観察にじんわりこころがあたたかくなります。サブカル好きで、実際のところ、改革!とかそういうのがやりたいというよりも、どちらかというとおっかない話は抜きに好きなジャンルの話をしてたい感じの、……と、ここまで書いててちょっと泣きそうになった。

本を読んで、友人と貸し借りし合って、ああでもないこうでもない。そういう他愛もないやりとりが、どれほど貴重なものであることか。