R. バダウィ『混ざるか、分けるか』


1000 Lashes: Because I Say What I Think

11. 混ざるか、分けるか

父方の祖母は、素朴で実直な農家の暮らしについてぼくに語ってくれたものだった。農民の女たちは、仲間の男たちと肩を並べてものごとを共に取り決めていたという。南部出身の祖母はぼくに、かつて女性たちは生活のあらゆる場面に居場所を持ち、参加していたのだと説明してくれた。仕事の場でもお祝いの席でも、意思決定の場でも、その他の何でも。彼女の昔話は、村落のコミュニティが解放的で文化的な社会であることをぼくに示してくれた。誰であれ、その構図の中に織り込まれていない者はなかったのだ。

祝祭の喜びについても祖母は話してくれた。「フトゥワ(ステップ)」として知られる楽しいフォーク・ダンスがある。今では再定義されてしまった「伝統」のひとつではあるけれど、これに女性たちが加わろうが誰も反対しなかったのはそれほど遠い昔のことでもない。経済の場においても、彼女たちはほぼすべての技術や職種の場で男たちと共に働いていた。30年前、ぼくたちが勝手に作ったこの「男女混淆」という幻影を目にしてはたと立ち止まり、考え込んでしまう者なんて一人もいなかった。

問題なんて何ひとつありはしないのに職場での男女混淆を却下するというのは、本当に矛盾だらけでぼくには全く理解できない。それでいて当のエスタブリッシュメントたちは高級な住宅街に身を置き、巨大なモールに出入りしている。そういうところにいる女性たちが、誰かに煩わされたりすることなんて滅多にない。

その一方で、いわゆる下層階級として知られる地域にある小さな会社のほとんどは、女性が働くのを許そうとはしない。そうした会社のうちどこかひとつでも、敢えて女性を雇ったりしようものなら、女性と彼女を雇った職場の両方とも、待ち受けているのは制裁と責任追及だ。男性と女性を一緒に雇ったところで明白な罰則や当局の規定があるわけではないという事実にも関わらず、毎日、こうしたことが起きている。

それと同時に、病院では女性が男性と一緒に働くことを許可する法があったりする。病院は女性がステップアップし、正当な地位を獲得するための場所なのだ。

この矛盾はいったい何なのだろう?いつになったら解決するのだろう?まるで迷路のような堂々めぐりの思考回路を、あてもなく正解を求めてさまよう終わりなき探求。どうしたら終わらせられるだろう?

単純な答えならここにある、「公共の場で働く女性と男性には何の違いもない」。男性がそうであるのと同様に、彼女だって仕事を必要としている。時には彼女の必要の方が、彼のそれよりももっと切実なことだってある。いったいいつまでぼくたちは、不公正なこの女性嫌悪を理想として掲げ続けるつもりなんだろう?いったいいつまでぼくたちは、この理想を正当化しようとあれこれ言い訳し続けるつもりなんだろう?ぼくたちはこの先もずっとサウジの女性たちに敵対し続けるのか?彼女たちはただ生計を立てようとしているだけなのに。

女性たちの生活にこうした制限をかけ続けていれば、パンを得るために、道徳に反する道を選ばざるを得なくなる人だって出てくるかもしれないのに。


[以下、めも]ライフ・バダウィ『1000 LASHES』から”Mixed or Divided”を読みました。いいな、おばあちゃんの昔話。

だって生活かかってるんだよ?、というのにはもう何も言うことがありません。言えない。だってすごく「素手」なんですもの……それと、サウジにいるのは石油王ばかりではない、というのがさらっと現されているあたりにも意識を向かされます。すごく当たり前で、当たり前すぎて何なのですけれども。別に長々と「サウジの低所得層は云々」とか説明しているわけでもなく、真意が何であれ書いている本人は、言葉の上ではあくまでも「女性に対する不公正」を主題としており、貧困についてはその遠景として配しているだけのつもりのようですが、その遠景がリアルです。

サウジアラビアの貧困層についてはこんな記事がありました:“In Saudi Arabia, unemployment and booming population drive growing poverty”