引用:D・ホサム『トルコ人』

turk……トルコ人は、すぐれた資質を数多くそなえている。威厳、気高さ、正直、誠実、親切、他人にたいする歓待好き、剛勇、忍耐強さなどである。うるさいほどの多弁さで人をうんざりさせる近隣の諸族に較べ、彼らが比較的無口なことさえ、しばしば高く評価されてきた。こうした寡黙さにもかかわらず、彼らは、生来、雄弁な民族なのである。彼らは、普通、多くの詩をいつでも暗誦することができる。彼らは、内部に、激しくロマンティックな、激情的でさえある気質を秘めている。彼らの胸中は、はるかいにしえの英雄に関する伝説で充ち満ちているように思われる。きわめて鈍重に見える人びとが、この時という重要なさいには、我々にはまったく場違いとも思えるような、途方もない民族主義的感情にあふれた演説をぶつのである。ほとんどすべてのトルコ人の演説は、型通りの熱のこもった結論といった話し振りで行われる。
(『トルコ人』 著:デイヴィド・ホサム 訳:護 雅夫)

通常、こういった「OO人」「XX人」という御本はほとんど読まない方です。いや、むしろつとめて「読まないようにしている」と言った方が正しいかもしれません。仮に自分の知人・友人が『日本人』なんていう御本を読んでいるのを知ったら、そこに何が書かれているかを確認する前に反論の姿勢を取ってしまうでしょう。と、いうか「何が書かれているか確認するまでもなく、そこにかかれているのは嘘八百だ」くらいのことは言いたくなるでしょう。

しかしこれは読んでしまった。そして面白かった。本当に、書影をひっぱってきたいというためだけにアマゾンにアカウントを作成したというのにこれもまた no image だった。THE TIMESの特派員として60年代の8年間、アンカラを中心にトルコに滞在したという英国のジャーナリスト氏のトルコ観察日記的な御本です。訳者の護氏があとがきで、70年代初めにこの御本を手にし、

さっそく一読したところ、「著者覚書」にしるされた通り、トルコで八年間暮らして、トルコ語に通じ、あらゆるタイプ・階層のトルコ人と接して情報を得、多くのトルコ語文献を読破するのみならず、ほとんどトルコ全域に足跡を印したジャーナリストの手になるものであるだけに、一九六○年代までのトルコ人、およびトルコについて、ほぼ正確な知識を提供していることを知った。

と記しており、半世紀前のトルコがどうであったか、もちろん私には確かめようもないのですが護氏がそういうのだからまちがいはないでしょう。「OO年後のトルコはこうなる」的なことが書かれているわけではないですが、淡々と見聞したことや見聞したことについてちょっとした暗示的な感想などが加えられており、それがまた気が利いていていろいろと考えてみたりするのにいい案配です。ちなみに冒頭で引用した一文はこんなふうに続きます。

……典型的なトルコ人は、快活でも激情的でもなく、また、陽気な外向的人間でもない。トルコ人は、一連の無害な小爆発というよりもむしろ、長い間活動を停止していたのち一気に凄まじい噴火を起こす休火山にちかい。このことを示す一例は、トルコの国会で時折見られる暴力的光景で、それは、まさに奇観と称すべきである。
あの広大な議場で、一刻(いっとき)、くつろぎ、にこやかで、夏の日の穏やかな海さながらに静かである。ところが、つぎの瞬間、何か挑発的な言葉が発せられると、そこは、まるで、大暴風が水面を吹き荒れたかのごとき光景を呈する。議員たちは、いっせいに、百個の席からとびあがり、こぶしが振りまわされ、書類カバン、書物、靴、椅子、眼鏡などなど、飛び道具と呼べるものなら何であろうと、音をたてて飛びかう。何とも言いようのない大騒動、紛れもない人間の大渦巻が起こる。普通、それは、ものの数分間も続く。それから、始まった時と同じように突如として終ってしまう。金切り声をあげる暴風雨はおさまり、波は静まる。全くの静謐さが戻ってくる。数分前には互いの鼻をなぐりあっていた議員たちは、何事もなかったかのようになごやかに隣りあって席につく。分別くさく厳(いか)めしい静けさのなかで、立法手続きが勧められていく。

御本の後ろの方には「これらの問題について筆をとるのは微妙であり、私は、そうすることで、きっと多くのトルコ人 –– 私の友人すら –– の感情を害することになるだろう」という前置きで始まるギリシア人、クルド人、アルメニア人とトルコについてのあれこれも記されています(ここで最初の、「何が書かれているか確認するまでもなく、そこにかかれているのは嘘八百だ」にもどる)。引用し始めると長くなってしまうので〆の部分だけにしておきますが、「……一方、トルコ人は、クルド人問題にたいして、前よりもいっそう神経過敏になっていて、それに火をつけるかもしれぬような外国の干渉または影響に疑心暗鬼の念をいだき続けている」。

日曜日、この上なくいい感じに晴れあがった青空の下で洗濯物を干しながら、「トルコ大使館前 乱闘騒ぎで9人けが」なんていうニュースを耳にしていちばん最初に頭に浮かんだのは「熱いね」「盛り上がってるね」というような感想でした。それから、「これが渋谷でよかったね」と思いました。「よかったね」というのはすごくおかしく聞こえるかも知れませんが、いきなり催涙弾ぶん投げたりとか放水したりとかしないのは本当にいいことだ。あ、それから今日になって双方の側から「反省してる」的な声明らしきものを出してるぽいのもよかったねと思いました。

個人的には、もしかして今この地上で一番まじめに主体的に「民主主義」に取り組んでいるのはトルコなんじゃないか、などと時々わりと本気で思ったりします(「民主主義」じゃない、「世俗主義」だとしかられそうな感じもしますけれども)。何というか、ソリューション志向とでもいうのか。何がどうでも折り合いをつけていくぞ、というあの「感じ」。

「トルコにおける民主主義達成のための努力が、長期にわたる、きわめて粘りづよいものであることは、記録にとどめられるに値する(p93)」というのはその通りであると思っています。