御本の記録:第3四半期 (2)

昨年(2014年)の Şeb-i Arus の様子。

ルーミーの年忌にあたるとされている日の旋回舞踏の儀式。存命中に「聖者」と呼ばれていたような人々の命日は、しばしば「婚姻の夜( Şeb-i Arus )」と言いあらわされ、これ自体は特にメヴレヴィーヤの皆さんにはじまったことではありません。

“Reunion Anniversary International Commemoration Ceremonies of Hz. Mevlana”と題されたこの行事、主催はコンヤ県文化・観光局ですが、動画をアップロードしているのは2年前から Youtube にチャンネルを開設しているトルコ宗務庁でした(ちなみにわれらが東京ジャーミイも、去年のちょうど今頃にチャンネルを開設しています。わりと政治的に踏み込んでるな思いきってるな、とも取ろうと思えば取れるような動画もアップロードされており、なかなか目にしみます。まあ「ちなみに」と書いたとおり、まったくの余談ではあります)。

上記の動画は3時間あまりの長大さですが、最初の1時間はエルドアン氏やギョルメズ氏といった公職にある人々のスピーチで、それから歌曲の演奏があり、旋回舞踏者(セマーゼン)たちの入場は1時間40分前後から。旋回舞踏の開始前に鑑賞者たちへの注意事項が言い渡されます。いわくフラッシュを使わないでくださいであるとか、拍手はご遠慮くださいであるとか……、これはあくまでもエンターテインメントではなく、本来は信仰にかかわる儀式なのであるからそうした行為はふさわしくない、ということを言いたいのでしょう。

ここで、先日になって手にした『トルコの旋舞教団』という御本から引用してみる:

semazen閉鎖、再開、そして”その夜”
……ケマル・アタテュルクの改革は、”国教としてのイスラム”規定廃止から始まる。フェズ帽や一夫多妻制の廃止、ラテン文字の採用などもあるが、何より大きいのは宗教団体の解体(1925年)であった。
旋舞教団にとっても、1925年12月が最後の旋舞祈祷(セマー)となった。新しい法律第677条によって、教団解体、旋舞祈祷所閉鎖が実力行使された。憲兵隊が旋舞祈祷所に乱入し、托鉢僧(デルヴィッシュ)たちは裸足で逃げ出し泣き叫ぶ。憲兵隊長は「以後、旋舞祈祷所における会合禁止、墓守り人及びシェイクの事務所は閉鎖」と法文を読みあげ、旋舞祈祷所の閂(かんぬき)を釘で打ちつけた。

このあたりは以前から読みかけの”Sufi Cuisine”の、シェルベトの項でもほんの少しだけふれられていました。と、いうか、誰が何をどうしたといった経緯にはふれず、ただ昔そこにあったそれはとてもきれいだった、ということを伝えるほんの短いセンテンスでしたけれども……それにあちらでふれられているのは「ミゥラージュの夜」であって、こちらの「婚姻の夜」とは祈念の内容が全く異なりますけれども。

 1927年、なんとかコンヤのルーミー廟が”博物館”として公開を認められ、その所属物品の保存、奉仕人の兵役の免除が許されるが、旋舞祈祷そのものは禁じられたままだった。
しかし、個人的な信仰の炎は焼きつくせるものではない。1943年、イスタンブールの太鼓親方(クドゥム・ゼンバシ)だったサデッディン・ヘペルと葦笛(ネイ)の奏者だったハリル・カンがコンヤ市長に接近、旋舞再開を望む。長い交渉の末、「宗教教団としての集りでなく、トルコの生んだ偉大な詩人を追慕する記念集会ならいい」という許可を得る。
1953年12月、観衆(信者ではない、あくまで観衆)がコンヤの一映画館に集まった。28年ぶりの旋舞祈祷(セマー)が実行された。が、淋しい陣容、楽団員三人、旋舞者二人のものだった。1956年に会場がコンヤ図書館に移り、アンカラでも同様な集会が行われた。
復活初期の集会は、単なる記念行事か宗教行事かの判断が悩みのタネだった。ある時は、「老人の旋舞者が旋舞中に祈祷した」とチェックされた。教団側は「彼は老年で歯がないので激しい動きのうちにひとりでに口が動いた」と言い逃れた。ある時は幼い旋舞者がいるのを見て「宗教教育の復活だ」との注意を受けた。教団側は「ただ踊りを倣っただけ」と弁解した。
「観衆」が増えたので、1956年からは、会場が体育館に移った。が、1967年の旋舞の際、地元新聞カメラマンが旋舞のあまり近くでフラッシュ撮影をしたので、一人の教団員が「出ていけッ」と怒鳴ったところ「やはり宗教行事ではないか、以後、旋舞は中止だ」と、コンヤ観光局が言った。教団側は「あんな接写は「記念集会」の進行を著しく妨げる」と申し立て、集会続行について、観光局、教団双方が合意に達した。
現状は、両者が、それぞれ自分に都合よく解釈している段階、といえる。教団側は、建前としては記念集会なのだが、内容は真の旋舞祈祷なのだと思う。観光局側は、極力、宗教的要素を無視して、観光行事だと判断する。世界中から三万人近くも集まる現実を無視できないのである。
(トルコの旋舞教団 (1979年) (平凡社カラー新書 ― 聖域行〈4〉)

井筒俊彦翁は『ルーミー語録』の解説の中で「今日、トゥーリズムの要請でコニヤの舞台で演じられるいわゆるマウラウィー・ダンスは演出された贋物である。本物は一種の地下運動として盛んに行われているが、普通の人には見物できない」と仰っていますが、その「贋物」というのはだいたいこんな感じだったみたいです。これが35年前。現在は年間を通じて約200万人がコンヤを訪れており、12月のこの儀式には約10万人が集まるとも言われています。それを受けて「これはいける」とふんだのか何だか、さらに最近ではこの旋舞祈祷(セマー)専用のMevlana Cultural Centerなんていう立派な箱までできてしまいました。井筒翁が知ったらニセモノ呼ばわりどころじゃ済まなそうです。

この御本、新書サイズにカラーの写真があちこちにはさまれていて、それ以外にも全ページの下段に画像込みの注釈が細かくついていてなんだかすごくお得感。またこの写真がいい具合に時代がかり始めてて好きです、こういうの。メヴレヴィーヤたちの姿ですとかルーミー廟を訪れる人の姿ですとか、巡礼に出発する貸し切りバスと見送りの人々の姿ですとかが見られます。「1979年6月8日 初版第1刷発行」とありますから、隣国イランではイラン・イスラーム革命がずんずんと進行中だった頃ですね。翌年1980年9月12日にはトルコでも軍事クーデタが起きてたりなんかもしてたり。

「……イスラーム系政党の国民救済党も、アタテュルク以来の国是である世俗主義原則を公然と否定するようになり、クーデター直前の1980年9月6日には、コンヤでシャリーア体制の樹立を求める大規模な集会を開催した」とwikipediaさんにはありますが、この巡礼バスの周囲に集まってるオトウサンやオニイサンたちの中にも集会に参加した人が絶対いるよなーなどと、あれこれ想像をしながらめくるのがいい感じの御本でした。