さわりのところ(2)


Sufism: A Beginner’s Guide (Beginner’s Guides)
チティック先生の『スーフィズム:ビギナーズ・ガイド』。の、以下は4章のさわり(これもまた、ほんのさわり)のとこ。さわりのところ(1)はこっちからどうぞ。


第4章 セルフ・ヘルプ
スーフィー導師たちはコスモスと魂の整合性ある描写を差し出し、人々を神に連れ戻す軌道を説く。人間の置かれた状況についての彼らの見方は、ハディースによって要約できよう –– 「この世界は呪われている。その中にあるものも呪われている、神の想起を除いては」。世界もその中にあるものも、神的な根源から切り離されている。太陽が沈んでしまったがために歪んで暗く、混乱している。しかしこの同じ世界、同じものが神のしるしであり、昇る太陽の輝く光線であるともみなされるのである。西としての世界は呪われているが東としての世界は神の想起という歓喜の歌であり、もの見る人々をしてあらゆるものの幸福の賛美にさし招く。

自分や、あらゆるものの中に神を認識する方法を学ぶには、絶えず神を意識する方法を学ばねばならない。他の人々なら真夜中に覆われているととらえるだろう光景の中に、昇る太陽の輝ける光を見出さねばならない。イスラムとスーフィズムにおけるあらゆる実践が、あるひとつのゴールに集中している –– すなわち、人々が自らの目を開けてものを見るということである。数々のコーランの章句と預言者に帰された言葉が、豊富なイメージと表現をもってこのゴールにつて説いている。そのうち最も簡潔で、かつスーフィー導師たちがしばしば言及しているのが、神への道はtazkiyat an-nafsである、というものである。通常、このフレーズは「魂の浄化」と訳されている。

このフレーズはコーランの章句に由来する。若干おこがましくはあるが、以下の通り訳出してみよう:「魂と、それを形づくった御方において。それの堕落と、それの神への畏怖とを示唆した御方において。それを浄める者には成功があり、それを葬り去る者には失敗がある(91章7-10節)」。この章句によれば「成功」をおさめるのは、自らの魂を浄める人々のみである。コーランの文脈はこの成功が来世に関するものであり、現世の成功とは無関係であることをはっきりと示している。魂を浄めることができず、かわりに自らの魂を「葬り去る」 –– まるで自らの魂を土の下に隠してしまったかのような –– 人々に成功はない。むしろあちら側の最後の故郷へ移るとき、自分たちはこちら側で成功していると考えるか否かに関わらず、彼らは不幸を味わうことになる。

コーランの章句の翻訳がすべてそうであるのと同じように、この翻訳にも問題がありあくまでも仮訳に過ぎない。まず第一に、tazkiyaを「浄める」と訳してしまうのは実に紛らわしい。どれを参照しようがあらゆる辞書にはtazkiyaには2つの意味があることが示されている。どちらの意味の方がより基準的かについては辞書の編纂者たちは意見の一致をみていないにしても、である。この動詞にはひとつには浄化であったり、洗い清めるといった意味があり、そしてもうひとつには拡大、増加といった意味がある。それゆえtazkiyat an-nafsには、コーランの解説者たちも認める通り、nafsを「浄化する」ともnafsを「拡大する」とも理解できるのである。解説者たちの大部分が、明らかに神学上の理由から一番めの意味を強調する。結論からすればムスリムたちの主要な義務は自らを神に隷従させることにあり、それは神の意にそぐわないことを避けない限り成立し得ない。これを「浄化」と呼ぶことはできるだろう。しかし同時に魂もまた発達し、神の援助の下に大きく成長する必要があることも明白である。この成長をもたらす働きもまた、tazkiyaと呼べるのである。このように2つの事柄が生起する必要がある。そしてそのどちらも –– 浄化と増加 –– が tazkiyaの一語によって意味されているのである。あるいは浄化について、それは魂の成長と拡大と同時に起こるものであるととらえることもできよう。かくしてひとつの語が持つふたつの意味が合致するようになる。

これらふたつの意味の相補性を、tazkiyaという単語の使われ方の中にいくらか見出すことができる。辞書には種を植える、家畜を育てるといった場合にこの語を用いることだできると示されている。どちらも浄化や増加という意味ではないが、しかし2つの意味が混合した何かではある。大地に植えられるときの種はあらゆる異物から浄められ、土、水、日光といった神の恩恵を浴びる。これは種が強まり成長するための手段を用意するということである。これは種を「浄化」するのでもなければ「増加」しているのでもない。むしろ種が育ち、みのり、その可能性を引き出せる状況に置いてやるということである。このようなわけでtazkiyat an-nafsには、「魂の浄化」ばかりではなく、育ち、成長していけるように魂を神の恩寵へと開け放つことをうながすという意味もあるのである。訳すならば「魂を耕す」とした方が、より良いといえるかもしれない。

人間のセルフ
動詞tazkiyaは、コーランにおいて12回使用されている。通常、主語は神にあり人間は目的/対象である。これらの章句の大部分は、ちょうど引用した章句が示すように、プロセスにおいて重要な役割を果たすのが人々であるにせよ、その要点は人々を浄化し祝福するのは神の恩恵と導きであるということである。これとは対照的にnafsという語は、コーランにおいては約300回使用されている。多くの章句において、この語はシンプルな再帰代名詞であり、そのため人間にも神にも、そして他のものにも使用することができる。その再帰的機能からすれば明らかに「自己(セルフ)」と訳すのが最もすぐれている。再帰代名詞としてではない語の使用もコーランには見受けられるが、しかしこの用語は「魂」とするよりは「自己(セルフ)」とした方がまだ良訳であるといえる。例として、コーランにはイエスが以下の言葉を用いて神に呼びかけたとする章句がある:「おお、神よ。あなたはわたし自身の中にあることを知っている。だがわたしはあなた自身の中にあることを知らない(5章116節)」。加えてコーランではこの語を、どのような名詞に再帰させることもなく、単に一般的な人間自身を指すのに使用してもいる。こうした文脈において翻訳者たちは「自己」とするかわりに大抵の場合「魂」と訳している。つまりコーラン中のnafsという語は常に「自己」でありながら、しばしば「魂」と翻訳されている。

「魂」と「自己」に関する問題のひとつに、人々がこれらを、特に前者を具象化する傾向にあるというのが挙げられる。言い換えるならばまるで魂が、肉体がそう思われているのと同様の、有形で具体的な物質量を伴った「モノ」であるかのように語りがちだということである。あるいは一例として、人々はしばしば人間には魂があるか否か、あるいは動物には魂があるか否かについて議論することがある。こうした議論において魂は決まって有形かつ具体的な物質量として想定される。これは彼らが言うところの「科学的な」条件において魂を説明しようという際には特に顕著となる。科学的思考とは、そもそも近視眼的なものである。イスラムのテキストで使用されているnafsのような用語には対処のしようがない。少なくともアラビア語ならびにコーランの語法はあらゆるものがnafsを持つのを当然のこととして要請している以上、アラビア語で魂の存在について議論するのは、特にnafsという語を用いてしまうと馬鹿げたものとして聞こえるだろう。

コーランの用語ではあらゆるものがnafsを持つため、人類がnafsを持つか否かは問題とはならなり。問題となるのはこれである:人間のnafsとは何か。またそれは神のnafsとどう区別されるのか。あるいは動物のnafsや岩のnafsとどのように違うのか?神がnafstazkiyaする必要がないのは何故なのか?神がどの天使にも動物にもnafstazkiyaを実践するよう命じていないのは何故なのか?ここでペルシャのことわざが正しいことを言っている。「冷たい鉄を打つのは」、ペルシャ人たちは言う、「ロバの耳にヤースィーンを聞かせるようなものだ」。コーランの第36章にあたるヤースィーンは、常に特別な力と天恵を秘めているといわれてきた。ロバのnafsは人間のnafsとは明らかに異なる。もし人間の耳にコーランを聞かせてやったなら何かしらの役に立つかもしれない。しかしロバはずっとロバのままだろう。

では実際に人間のnafsについて、明確にはいったい何が異なるというのだろうか?この問いに対するイスラム的な基本解は、この質問に対する精密かつ正確な回答はそれを受け取る私たちの能力の範囲内には存在しない、と言うよりも人間のnafsに特有の本質とは、その深い根本のところでは特有の本質を持たないということである。これについては、いくらか説明が必要である。

「鏡の中の自分を見る」と言うとき、私たちは肉体的なフォルムの反射を指す意味で言っている。しかし私たちが鏡の中に私たち自身を認める、というまさにその事実が、単なる肉体的なフォルムよりも、多くは自己に向けられていることを示している。アラビア語の単語nafsと英語のselfは物理的な肉体と自身という意識を含めてその他あらゆる「私たち」全体を指している。しかし、この他に何が含まれるだろうか。人間が自分で考えている以上の何かである、何故なら「無意識」を持っているからだとする考え方は今や当然となっている。しかし私たちは、自己とそれ以外を区別する正しい境界線はどこに引かれているのだろうか?自己について語ることの真の問題とは、私たちが私たちについて何も知らず、大ざっぱな間に合わせの感覚以上には何ひとつ知り得ないという点にある。自分たちが何ものであるか知っていると思うなら、それは間違っている。

ほとんどの人は自分自身については考えさえもしていない。そしてこれがコーランがその重要な用語のひとつであるghafla、すなわち不注意という語によって指摘しているというのはほぼ明白である。自分自身について考えを巡らせた上で、自分が何者であるかという問題を解決したと言う人があれば、その人は混乱しているか嘘を言っているかのどちらかである。著名な小説家ウォーカー・パーシーがその著書“Lost in the Cosmos: The Last Self-Help Book”で取り上げているのもこの点である。色々な意味において、この書は街角の書店の棚に必ず置いてあるあらゆるセルフ・ヘルプ系書籍のパロディである(が、パーシーは自著がそうしたたぐいの書籍と勘違いされるのを草葉の陰で喜んでいるに違いない)。

(中略)

預言者の知識
人間が自分たち自身を知ることができない。この点については、ムスリムたちにとってより納得がいく証明のひとつに、神が預言者たちを遣わしたという事実がある。もし人間が自分たち自身を知ることができるなら、何が自分たちにとり良いことなのか、また悪いことなのかを自分たちだけで見出せたはずである。しかし実際のところ人間たちは、身体ひとつに対してさえ何が良く何が悪いのかよく分かってはいないのである。ましてや自分たちの全体像については言うまでもない。私は何も一般大衆のみに限って述べているのではなく、これは高度な専門家たちすべてにあてはまる。たとえば私たちにとり何が良く何が悪いのか、医師たちの意見は相当に高い頻度でころころと変わる。

預言者たちの目的は人間に対し、自分というセルフ全体にとり何が良く何が悪いのかを伝えることにある。たとえ始まりがあるにせよ、セルフには終わりはない。預言的な知識はセルフをその永遠性において取り扱う。この観点からは身体的な死は、それが重要な境界線を示すものではあるにせよ、むしろ取るに足らない。死後の人々には、もはや神の導きを選び取るか拒むかの自由はない。ただ神が望むがままに、神に仕えるのみである。何故ならこれ以上無知を隠れ蓑に、セルフを「埋める」がままにしておくことが出来なくなるから、ということになっている。

預言者たちが人間にもたらした導きは、人間が何であるかについてはさほど語ってはおらず、人間が何でないかについて語るものである。人間という存在は限定的かつ固定的な、完結したアイデンティティを持たないし、また人間は絶対にそうした存在ではあり得ない。もしも人間に最終的な限界に達することが可能であるなら、それは神と寸分違わない(それは不可能である)か、あるいは現実の経験に終止符を打つということにおいてである(これも不可能である)。はっきりと述べれば刹那の生を生きると同時に、変化のプロセスを永遠に生きるのが人間なのである。人間は自分たちだけでは今日という日のその先を見通すことはできない。ましてや死後のこととなれば尚更である。預言的な知識はセルフにとっての善悪を教える。このセルフには終わりも、特定のアイデンティティもない。


ところでウォーカー・パーシーの”Lost in the Cosmos: The Last Self-Help Book”、どなたか訳していただけませんか。

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