じまんばなし

世界最強の男―ムハマッド・アリ自伝 (1976年)

おれの心は、初のゴールデン・グラヴ大会で、出場順番を待ってベンチにすわっていたときへとかけもどる。ルイヴィルとちがいシカゴの広さには度肝を抜かれ、見知らぬ土地からくる未知の選手たちと対戦するのかと思うと、おれは圧倒される思いだった。顔のつぶれた元ボクサーで、”脳障害(パンチドランク)のドン”と呼ばれる男が、うしろの床を掃いていたが、おれのひざのふるえに気がつくと、左の耳元にかがんでささやいた。「こわいものから逃げちゃいかんぞ、坊や」
だが、いまのおれにとって、こわいものはなにか。タイトルを剥奪されたら失うものだろうか。刑務所にはいったら、あるいはリングを追われたら失うものだろうか。世界チャンピオンの優雅で贅沢ではなやかな暮らしを失うおそれだろうか。
(略)
なぜためらうのか。宗教的理由もむろんあるが、しかし、シカゴであの政治家がいったことはうそではない。おれは軍隊へ行ったからといって、《回教の民》から追放されるわけではないのだ。「なんの資格あって裁くのか」と、政治家は言った。おれはきょうが日まで、いつも〈白いアメリカ〉が裁くのを見てきた。だが、いま裁くのはだれなのだ。いまから要請される一歩を踏み出すことが、正しいか正しくないか、判断するのだれなのだ。おれでなかったら、いったいだれだ。
(略)
中尉がおれの左どなりの男を入隊させたところで、だれもが気をひきしめたようだ。室内に物音ひとつなく、中尉はじっとおれの顔をみつめる。彼は将軍閣下が、市長閣下が、ヒューストン徴兵センターの全員が、この瞬間を待っていることを知っているのだ。自分もあらためて姿勢をただす。
なにかがおれに起こる。まるで全身の血が入れかわりつつあるようだ。不安がすーっとひいて、そのあとに怒りが奔流となってはいりこむのを感じる。
またも政治家の声がきこえる –– 「なんの資格あって裁くのだ」しかし、この白人にはなんの資格があるというのだ。おれより年若く、またべつの白人に命じられたにすぎぬ男ではないか。ホワイトハウスのあの白人から順々に命じられているだけではないか。いったいなんの資格があって、おれにアジアへ、アフリカへ、あるいは世界のどこかへ行って、おれにもアメリカにも石をなげたことのない人人とたたかえと命じるのだ。この奴隷の主人の子孫になんの資格あって、その同胞とたたかえと命令するのだ。
いまはもうはやく名前をよばれたい。〈はやくしろ!〉と、胸の内でせかす。おれは相手の目をひたと見すえている。待ちきれず身をのりだす者もいてか、かすかなざわつきが起こる。
「キャシアス・クレイ –– 陸軍!」
部屋はしんとしずまり返る。おれはまっすぐ立って身じろがない。白人青年のひとりはおれに向かってうなずき、一部黒人青年の顔に小さな笑みがよぎるのを、おれは視界の端に見てとる。自分たちを家庭と肉親からひきはなそうとする権力に対して、ひとりの男が反抗するのを見て、彼らはひそかに溜飲を下げてるみたいだ。
(略)
中尉はいまいちど声をはりあげる。「キャシアス・クレイ!一歩前に出て、合衆国軍に入隊しなさい」
なにもかわらない。彼は困惑顔にまわりを見やる。ようやく、書類をいっぱいにはさんだノートを手に、先任将校のひとりがそばへ行ってなにか手みじかに話してから、おれのほうへやってくる。四十代後半といった年配の男だ。髪にはグレイがまじり、なかなかの威厳がある。
「あー、ミスター・クレイ……」いいかけてから気がついて、「それとも、ミスター・アリ」
「はい」
「わたしの部屋にきてくれないか。よかったら、すこしふたりきりで話したいことがある」
要請というよりは命令だが、やさしげな声で、しゃべりかたもていねいだ。あとについてはいったところは、一面ペール・グリーンの部屋で、壁には陸軍将校連の写真がならんでいる。おれは椅子をすすめられたが、すわらない。彼はノートから書類をひきだしたと思うと、にわかにそれまでのものやわらかさをすてて、単刀直入にきりだす。
「きみはいま自分がとった行動の重大さを認識していないのかもしれん。あるいは、しているのかもしれん。しかし、わたしの義務としてことわっておくが、これがきみの最終的決意であるならば、きみは刑法違反に問われ、禁固五年ならびに罰金一万ドルを科せられることになる。同様事件の他の違反者とまったくおなじ措置である。なにがきみをしてかような行動をとらせたのか知らないが、わたしの権限において、きみに再考の機会をあたえる。選抜徴兵規則により再度の機会があたえられるのだ」
「せっかくですが、それにはおよびません」
「規定により –– 」相手はしゃべることも、書類に目をあてることもやめない。「きみは徴兵室にもどり、講壇の前に立っていまいちど点呼をうける」
「どうしてまたもどるんです。時間のむだじゃ –– 」
「規定だ」と、相手はさえぎる。「どうしろこうしろとはいわんが、規定にはしたがわねばならん」
(略)
「ミスター・キャシアス・クレイ」もういちどはじまる。
「一歩前に出て、合衆国陸軍に入隊しなさい」
ふたたびおれはうごかない。
「キャシアス・クレイ –– 陸軍」中尉はくり返す。最後どたんばの翻意を期待するかのように、黙って待っている。ついに、手をふるわせながら、彼は一通の書類をさしだす。「この申告書にサインして、入隊拒否の理由を書きなさい」声もふるえている。
おれは手ばやくサインをおえて廊下へ出る。最初におれを徴兵室へ案内した大尉が近づく。「ミスター・クレイ」びっくりするほど敬意のこもった声をかけられる。「下まで送ろう」

自伝の中盤くらいのところ、1966年の徴兵拒否の場面。これの四年後の1970年、一度は下された禁固五年と罰金一万ドルの判決を、最高裁は「八対〇の全員一致でくつがえす」ことになるのですが、モハメド・アリはそれを「目下はこれはわが生涯最大の勝利だ。どんな代償を払っても惜しくないものをおれはかちとったのだ」と書いています。


悲しいのでじまん話をしますね。ひさかたぶりに、めくっていた御本のはなしです。

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「礼拝とアル=イスラーム」。礼拝の作法、文言、浄め(ウドゥ)のやり方、ズィクルのやり方、神の九十九の美名、などなどが解説されています。著者のワリースッディーン・ムハンマドさんはネイション・オブ・イスラムの創始者イライジャ・ムハンマドの息子にあたる方で、
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本文の前にお父上への献辞があります。文中、”Bilalian (African-American),” ビラーリアンとあるのは、ビラール・ビン=ラバーフの名に由来する、当時のいわゆるブラック・ムスリムが自称した呼び名のひとつです。

この御本はわたしの舅(故)にあたるひとが、わたしが礼拝の仕方やコーランを習いにモスクへ通いはじめたとき、それをとても喜んでくれて、ごそごそ、クローゼットの中から出してきてごほうびにくれたものです。表紙をめくると、

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舅にあてた、アリのサインが入っているんだい。

舅は「アリとわしはなかよしなのだ」と自慢していましたが、なかよし、というののなかみがどういうものだったのかは、まあ、あのくらいの年齢の、ルイヴィルの黒い男のひとどうし(もっとはっきりと言うとルイヴィルの、あまりおかねもちではない地区で生まれ育った黒い男のひとどうし)は、誰もがだいたいなかよしというか。姑(故)と、アリ氏の母上は地区の父母会であったり、婦人会であったりでご一緒する機会も多かったと聞いています。

一緒にはさまれていたのはユース・ボクシング大会のチケット。

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「ヤフオクに出してみよう!」という声が聞こえてきましたが、しかしヤフオクなどに出したところで、そんな高値になるものでもないと思います。何かしら、機会さえあればお宅というお宅をチャンプ自ら出向いてもりもりと配っていたというようなはなしも耳にしたことがあるので、この御本ももしかしたらルイヴィルじゅうの黒いひとたちのご家庭に一冊づつあるんじゃなかろうか(たぶん)。

そんな感じで悲しいのがじゃっかんなおったところで、じまんばなしをおわります。