「ルーミー詩撰」で紹介している一聯「希望の歌」について

各位
毎々お世話になっております。首記の件につきご連絡申し上げます。

過日、弊サイトにてご提供させて頂いております「ルーミー詩撰」の中の一聯、「希望の歌」の一部が、弊サイトからの引用である旨の明記なく某書籍に転載されていたことが判明いたしました。

当該書籍出版元様に確認と対応を求めたところ、「確認ミス」により明記すべき引用元を明記しないという結果を招いた、との状況のご説明と共に、謝罪の意を伝える回答を頂戴しました。

また併せて解決策として、出版元様ウェブサイトにて本件にかかる告知とお詫びを掲載する、とのご提案を頂きました。脳内会議の結果、ご提案におおむね異存はない旨を先方にお知らせしましたところ、本日付にてご提案通り告知がなされた旨が確認できましたため、本件を落着とすることと決定いたしました。

本件にかかるご報告は以上となります。
引き続き、ご愛顧賜りますよう心よりお願い申し上げます。

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誰にともなく解説を加えておきたいと思います。該当書籍の引用箇所には

ルーミーの作品「希望の歌」には次の一節がある。

という著者氏による前置きがされているのですが、ルーミー翁には、「希望の歌」という「作品」はございません。該当部分は正しくは「精神的マスナヴィー」3巻の抜粋・抄訳にあたります。ご覧頂ければ分かる通り、「ルーミー詩撰」はR. A. ニコルソンが「精神的マスナヴィー」をほぼ全巻英訳し終えたかどうかという時期に、それ以外の「シャムス・タブリーズィー抄訳」や「ルバイヤート抄訳」などを取り混ぜて編んだ抜粋集であるSelected Poems of Rumiという一冊を底本にしており、「希望の歌」というのはその中のひとくだり、R. A. ニコルソンがnothing venture nothing win(虎穴に入らずんば虎子を得ずっていうんですかね)と題した部分訳に、映画の邦題的に「希望の歌」と名づけてみたものです。

勝手に引用された!とか騒ぎたいのではないです。そういうことを望んでいるのではありません。だったら黙ってりゃいいじゃないかというむきもあろうかと思いますが、でもそれよりやっぱり、そうではなくて、ただでさえ「これは一体どこのルーミー?」というような、真偽も出所も分からない言葉がルーミーのそれとして語られているのが常態になっているところへ新たにもうひとつ、正体不明の「ルーミーの言葉」を増やしたことにはからずもなってしまった、なってしまっているのではないか、というのが自分としてはより耐えがたいことだと思いました。何だか説明がへたくそでほんとすみません。とりあえず「精神的マスナヴィー」3巻からこの「希望の歌」の前後を、以下に読み下しておこうと思います。

「精神的マスナヴィー」は、何行めから何行めまではこれ、次の何行めから何行めまではこれ、といった具合になっている場合もあれば、そうではなく大きな物語がここからここまであって、その中にこの物語が入っていて、さらにその中に……といった具合の入れ子状になっていることが多々あり、この部分もやはり大きな物語の中に入れ子になっている小さな物語の部分、という感じです。

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神は告げたもう、「やがて使徒たちが失望したとき」。不信の徒に否定された預言者たちが、いかにして希望を失ったかについて。*1

預言者たちは自らの心に問いかけた、「いったいあとどれくらい、あの人を諭したり、この人をたしなめたりといったことを続けなくてはならないのか。いったいあとどれくらい、冷えきった鉄の塊をたたくような、空っぽの鳥かごに息を吹きこむような、的はずれなこの努力を続けなくてはならないのか。」

被造物の動き(行い)は神のさだめ、神のめぐり合わせによるもの。(飢えの痛みに)胃の腑が燃えてこそ、牙もするどく尖るというもの。最初の魂が駆り立てられれば、(影響された)次の魂がその後につづく。魚は頭から腐るもの、尾から腐るものではない。しかしこれを知るあいだにも、矢のように速く飛び続けよ。神が命じたもう通り、「(神の啓示を)運び、伝えよ、(それを避ける)逃げ道はない。」これらふたつのうち、自分がどちらにあたるのかは知る由もない。自分が何ものであるかを知るには、長い努力が必要となる。

あなたが船に乗り込み、荷物を降ろしたとき、信頼の名の下に冒険は始まっている。船旅の途中でおぼれて死ぬか、あるいは生きて無事に陸へと帰るか、ふたつにひとつのどちらなのか、あなたには知る由もない。「私がどちらにあたるのか、それを知るまでは慌てて船に乗り込み、海原に漕ぎ出したりするものか。この旅で私は助かるのか、それとも沈むのか、私がどちらにあたるのか教えてほしい。私は他の連中とは違うのだ。疑いを抱えたまま、確信も持てないまま、この旅を始めたりなどするものか。」

そう言い続けるようなら、あなたの旅は未来永劫始まることはない、何故ならふたつの面(可能性)の秘密は、目に見えぬ領域に属するのだから。臆病者、気弱な心の持ち主の商人では、旅に出たところで得るものもなければ失うものもない。いや、実際には喪失に苦しんでいる、(幸運を)はぎとられ、卑しめられて。炎を喰らう者のみが光を見出す、何ごとも希望あってこそ成就する。(希望のひらめきを得るには)宗教こそ最上の源、これによりひとは救済を勝ちえるかもしれないのだから。

扉は(何度もしつこく)叩けばいいというものではない、希望の他に扉を開くものはない、そして神は正しい道を最もよくご存じ。

ごく普通の信仰者の信仰を成り立たせているものが、恐怖と希望であることの解き明かし。

あらゆる取引の動機となっているのは希望と、「ひょっとして」という見込みである、たとえ絶え間ない苦しみにきりきりと締めつけられ、まるで紡錘(つむ)のように首が細ろうとも。(商人が)毎朝、自分の店を開けに行くとき、彼を走らせているのは、生計を立てる見込みと希望である。もしも生計が立つ見込みがなければ、どうして店に行くだろうか。行っても、得られるのは失望だけかもしれない。そんな恐怖をものともせず、どうして強く(自信を持って)いられるのだろうか。

食べるものを得ようとしても、永遠に見つからないかもしれないという恐れ、永遠に得られないかもしれないという失望が、探求においてあなたを、弱き者にしていたということはないか。あなたは言うだろう、「失望の恐怖が目の前にあろうが、無為に過ごすことの恐怖の方がより大きい。(糧を得るために)働いているとき、(糧を得られるだろうという)私の希望はより大きくなる。何もせずにいることの方が、よほど危険な冒険だ。」

日々の糧でさえそうであるのに、ではなぜ、おお、弱き者よ、ことが宗教に及んだ途端に「失うかもしれない」という恐れにとらわれ、一歩を前に踏み出そうとしないのか。それとも目にしたことはないのか、われらのバザールに集い、取引を行うあの人々を、預言者たちを、聖者たちを。(霊的な)店が軒を連ね、どの店を覗いても宝が山と積まれている、知らないのか、このバザールで彼らが、何をどのようにして得たのか。

あの人には炎が従う、足首を飾る輪のように。その人には海が従う、海の肩に乗りどこへでも出かけてゆく。あの人には鉄が従う、まるで蝋のように自由自在に。その人には風が従う、まるで奴隷のように意のままに。*2

(「精神的マスナヴィー」3巻3077行めから3103行めまで)

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*1 コーラン12章110節。「やがて使徒たちは失望して、自分たちが嘘つきあつかいされているものと思ったとき、そのとき、われらの助けが彼らに臨み、われらの欲する者は救われたのである。……」

*2 「あの人には炎が従う」=イブラーヒーム(アブラハム)。「その人には海が従う」=ムーサー(モーセ)。「あの人には鉄が従う」=ダーウード(ダビデ)。「その人には風が従う」=スレイマーン(ソロモン)。