新月観測観測、再び

なんか今週はもうラマダンなんですってね。おまえマジでもうマジかよ〜

IHC orders halting transmission of ‘circus shows’ during Ramazan
イスラマバード最高裁が聖月の間のTV放映コンテンツを一部規制、という記事。

最高裁はまた、情報省、内務省、およびPEMRA(パキスタン電子メディア規制委員会)に対し、以下を確実に遂行するよう指示した:

・外国製の広告、ドラマ、映画、特にインドのは完全に禁止。
・外国製TVコンテンツの10%は前述の幹事ならびにPEMRA委員長の承認を条件として放映されるものとする。委員会は、放映予定のコンテンツがイスラム教、PEMRAの規定、行動規範ならびに最高裁の判断と矛盾しないよう万全を期すること。
・聖月の精神を乱す番組は禁止。この月は聖コーランの月であらねばならない。コーランの意味とメッセージを各地の方言を用いて宣伝せよ。
・すべてのTV局は1日に5回、礼拝の呼び出しを放送すること。
・断食明け開始前は最低五分間、広告を放映してはならない。かわってドゥルード・シャリーフ(サラワート。預言者への祝福祈願、祈祷)を放映し、パキスタンの連帯と繁栄、平安と平穏と全国民の幸福と寛容と赦しと(中略)宣伝せよ。

特にインドのはあかん、って。あんた名指しでそんな。まあ色々と思うところがないわけではないが、記事のタイトルが堂々のRAMAZANであるとこにはヨシッてなった。わたしにはそこがいちばんのみどころです。

Ruet-e-Hilal Committee to Meet on Subject of Moon Sighting of Ramadan
新月観測委員会が会合してます、っていう記事。
Ruet-e-Hilal Committee to Meet on Subject of Moon Sighting of Ramadanいい写真だ。いい顔だ。でも見出しがRAMADANだからヨシッてならなかった・・・わけではないけど、ここはひとつRAMAZANでいってほしかった。

Ban ‘private’ moon-sighting committees, PHC urged
「私的な」新月観測を禁止するよう、ある弁護士さんがペシャーワル高等裁判所に直訴してます、という記事。

ラマザンも間近、弁護士約1名が月の始まりと終わりに巻き起こる混乱に終止符を打つために、民間のいわゆる「新月観測委員会」を禁止するよう高裁に訴えた。

ムハンマド・フルシド高等弁護士は金曜、ペシャーワル高等裁判所に、こうした民間の委員会が地域の人々を分裂させ、どの聖職者が正しいのか、また誰が間違っているのかも分からないまま多大な苦痛にさらされていると主張する申立書を提出。

申立書の中でフルシド氏は「イスラム国家においてはイードとラマザンについての新月観測ならびに観測結果の公表は国家の機能である」「この地域には数十にも及ぶ地元の観測委員会が存在し、それぞれが公然と国家秩序を乱し、素朴な大衆を分裂させる聖職者によって率いられている状態である」と述べた。

「お互いに反目しあっているせいで、毎年イードとラマザンが同じ地域で異なる日に行われているのが見受けられる。こんな珍事がイスラムの伝統だといえるのかについても議論の余地がある」「彼ら(聖職者)は同じ地域に住むムスリムを分裂させた。この国には、そんなことを看過していられる余裕はないはずだ」「政策もダメなら、誤った権威から権限を剥奪するだけの政治力もない。そして貧しい人々ばかりが、いつもそのツケを払わされている」

引き続き、経過を観察していきたい案件。

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唐突に話を変えるんですが、先月の終わり頃ですか、代々木上原でメヴラーナについてお話をしました。以下はそのときに紹介した小話です。ここにあげておきます。『精神的マスナヴィー』5巻に収録されているものです。あとでこれの前後と合わせて、母屋の方にもあげておこうと思います。『マスナヴィー』、読み進めてはいるのですがなかなか更新に手をつけられず。

異教徒の土地で、祈りの時刻を知らせていたひどい声のムアッズィンと、彼に贈り物を持ってきた異教徒の話

あるムアッズィンがいました。彼はひどい声のムアッズィンでした。異教徒の土地で、(礼拝の時を告げる)呼び出しをやっておりました。

彼ら(ムスリムたち)は、たびたび彼に言いました。「礼拝の呼び出しをやめてくれないか。さもないと争いのもとだ、(私たちへの)敵意が生じてしまう」。

彼は(仲間のムスリムたちを)拒み、礼拝の呼び出しを続けました。まったくおかまいなしに、異教徒の土地で。

(ムスリムの)皆は(異教徒たちが)一斉に蜂起して暴動が起きるのではと、怯えて過ごしていましたが、はたしてある一人の異教徒が、外套を抱えてやってきました。

彼はろうそくやハルワ、それに素晴らしく上等な外套を贈り物として持ってきて、親しげな挨拶をしながら近づいてくると、

何度も繰り返しこう尋ねました。「教えてください、あのムアッズィンはどこですか?あの声音、あの叫び。耳にするたび、私の喜びはますます深まるばかりです」。

「あの、ちょっといいですか。あんなひどい声が、喜びをもたらすというのは一体どういうわけです?」。すると彼はこう答えました。「彼の声は、教会の中にいても聞こえるほどですよ。

ところで私には、見目もよく気立ても美しい娘がおります。(結婚するなら、相手は)ぜひ信仰者(ムスリム)を、と望んでおりました。

何人もの異教徒(非ムスリム)が、口々にいくら言って聞かせても無駄で、娘の情熱は掻き立てられるばかり。

信仰への憧れは、娘の心の中で育ってゆきました。それはまるで香炉のよう、私は(その香炉の中で燃やされる)お香になった気分でしたよ。

娘が情熱の鎖に引かれて、(イスラムに改宗して)しまうんではないかと、私は絶えず苦しみ悶えておりました。

これをいやす薬も手立てもない。そう思い込んでいたのです、あのムアッズィンがアザーンの声を張り上げるまでは。

(アザーンを聞いて、)娘は言いました。「何かしら、この忌まわしい騒音は。耳がきしむようだわ。

こんなひどい声、私たちの集まりでも修道院でも、今まで一度も聞いたことがない」。

すると彼女の姉妹がこう言いました。「この祈祷の声はアザーンというの。(ムスリムに、礼拝の時刻を)知らせる、信仰者どうしの合言葉よ」。

(にわかには信じられず、娘は)他の者たちにも、同じように質問しました。するとその人も、「その通りでございますよ、旦那様」。

(それが)本当だと知ったとき、娘の顔は青ざめて、イスラムに対する熱もすっかり冷めきってしまいました。

私は不安と苦悩から解放されました。おかげで昨晩は久しぶりにぐっすりと眠れましたよ。

彼の声が私に喜びをもたらしたというのは、こういうわけです。感謝のしるしに、この品々を贈り物として持ってきました。さあさあ、会わせてください。彼はどこですか?」。

彼は彼(ムアッズィン)に会うと、こう言いました。「贈り物を受け取ってください、あなたは私の恩人だ、救いだ。

あなたがしてくださった親切のお礼に、私は一生あなたのしもべになりますよ。

もしも私が大金持ちで、モノもカネも有りあまるほど持っていたら、あなたの口に黄金をぎっしり詰め込んでやれるのですが!」。

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色々、これでも考えてこれがいいだろうと思って選んだんです。配布用に訳文を夜中に整えながらひとりで「ぷぷぷ」と笑っちゃうくらいおもしろいなあと思ったんですよ。選んだときはね。でも実際にこれを礼拝堂併設の文化センターで朗読してみるとなると、いやあ。気まずいことこの上なかったですね。まあ今更「気まずい」も何もないんですが。お集まりくださっていた皆様はそういう気まずさも含めて全体としては楽しんでくださっていたようではあるので、結果オーライということにしておこう。

でも、まあ、こうして改めて眺めてみても、このお話はとてもおもしろい。好きです。登場人物がそれぞれ非常にリアルで。時報係をやるくらいには宗教的な訓練を受けているのかいないのか、ともかく実践が致命的にまずいムアッズィン。実践としてアザーンはそりゃあやるにこしたことはないが、地元の異教徒の心証を損ねたくない、宗教実践と近所づきあいを秤にかけて、ここはひとつムアッズィンに折れてほしいムスリムの皆さん。もうとにかく波風立てたくない。「穏健派」っていうあれですね。そして異教徒のこの土地で、肩寄せ合って暮らしている少数派の宗教に興味津々の嫁入り前の娘さん。すてき。あれが「ほんもの」の信仰なのね。ああいう「ほんもの」の信仰者のお嫁さんになりたいわ。夜も眠れなくなるほどお父さんを心配させるくらいの情熱を傾けてはいながら、その宗教の実践については何ひとつ知らない娘さん。周囲の人に教えてもらって、やっとはじめて知るくらい。そしてはじめて知ったその時点で、好きか・嫌いか、きれいかきれいじゃないかといった、自分のいわば主観で切り捨ててしまって、それより先に進むのをやめてしまった娘さん(ちなみに文中にある「旦那様」という呼びかけはママです。嫌味まじり・冗談まじりでそう言ったんでしょう、といったところです)。

お父さん良いですね。好き。ちゃんとオチまでつけてくれて。

「異文化交流」だとか「多文化共生」だとかといったものは、別につい最近になって発見あるいは発明された営みではないというのがわかる、という点だけでも注目されてほしいと思いました。八百年前にも、それは大変に重大なことであったのだなと。放っておけば解決するというたぐいのことではなく、みんなでその時々で知恵をあわせて具体的にコミットするべきこと、少なくともこうしてメヴラーナが、後進の教育(宗教教育!)のために執筆した自分の御本の中でねたとして取り上げるだけの価値はあると判断したということ、取り組まれるべき課題としてみなしていたということ、と、いうふうに受け取っていいんじゃないかなと思います。

アザーン置いときますね。数年前の聖月の季節に、英国の公共テレビ局チャンネル4で放映されていた夜明けのアザーンです。

Channel 4 Ramadan – Muslim call to Prayer: The Adhan from Trunk Films on Vimeo.