試訳:イスラムにおける精神生活

「イスラムにおける精神生活」
サイイド・ホセイン・ナスル

 

S. A. ナスルとは・・・

1933年テヘランで生まれた科学史・哲学史家である。アメリカで幅広い教育を受け、1958年にはイスラム宇宙論に関する論文でハーヴァード大学から博士号を授与された。その後の活躍はめざましく、テヘランのアーリア・メール工科大学学長職にも就いたが、先のイラン革命で亡命を余儀無くされ、現在はアメリカで教鞭をとっている。
(「イスラムの知的概念(『東方の知』所収)」より引用)

ナスル氏には多くの著作があります。ここで紹介するのはThe Interior life in Islamと題された論考のさわりの部分です。

 

宗教の働きとは、人生に秩序をもたらすことにある。「外面的」な生活に指針を与え、「内面的」な探求との両立を図り、調和させ、人間の、旅とも呼ぶべき根源への回帰を可能にする。

諸宗教全般に通ずるこうした働きは、そのままイスラムという全人類に啓示された最後の宗教の、最大の特徴でもある。イスラムは、人間に対し社会生活における規範を示すが、同時に人間の魂における規範をも示す。日々の外面的な生活と同時に、内面的な生命を生きるすべを教える。これによって魂は、やがて来る創造主との再会と、神的美の極致に他ならない楽園を目指して備えるのである。

神は始まり(al-Awwal)であると同時に終わり(al-Akhir)であり、また外側に在る(al-Zahir)と同時に内側に在る(al-Batin)。神が外側に働きかければ、世界にはさまざまな違いや、個性と呼ばれるものが生じる。神が内側に働きかければ、人々は違いや個性を離れて、根源へと回帰する。宗教の意義は、この回帰、この旅を、望みさえすればいついかなる場合でも可能にすることにある。またこの旅を通して、人はこの神への回帰、神への旅の過程において創造の目的を知り、世界を新たに捉えなおし、創造の目的に沿って人生を再構築する。

このように宗教とは、外面的な部分と同時に、外面的な部分を基礎とする内面的なもうひとつの部分から成っている。イスラムという啓示宗教は、これらの側面をシャリーア(Shariah:聖なる法)、タリーカ(Tariqah:道)、ハキーカ(Haqiqah:真理)と呼び、また別の視点からはそれぞれをイスラーム(islam:服従)、イーマーン(iman:信仰)、そしてイフサーン(ihsan:美徳)と定義してきた。

コーランによる啓示は全て「イスラム」と呼ばれる。だが前述した視点に立てば理解できる通り、伝統的に「イスラム」と呼ばれる段階を踏襲しているとしても、その人物が真の信者たる「ムウミン:mu’min」、すなわち「イーマーン(iman:信仰)」を保持する者であるとは断言できない。また同様に、全てのムウミンが「イフサーン(ihsan:美徳)」すなわち宗教の持つ内面的な意味に到達し、これを深く理解するのに必要不可欠とされる倫理を保持しているとも断言できないのである。

イスラムという啓示宗教は、内面的な生を生きることを運命づけられた人にとって深い意義を持つ。だが全ての人が、内面的な生を生きる道をたどるとも限らない。至福と共に楽園に迎え入れられるためには、イスラムの実践、すなわちシャリーアに従い神の命ずるところに服従しつつ生きればそれで十分なのだ。

だが、そうではない者たちもいる。彼らは神に憧れ、神を愛し、神の真理(al-Haqaiq)が、「今」、「ここ」で彼らに対して明かされることを切望する。イスラムの啓示は、こうした人々にも歩むべき道を指し示している。神への熱烈な思慕が、イスラムの実践のみならず、イーマーン、イフサーンを通して神の美を感得する道、地上にいながらにして神へと至る喜びの道を切り開くのである。

シャリーアとは、動かしがたい神の意志の反映である。それは人間の肉体ならびに精神に対して具体的な指針を与える。シャリーアそれ自体がそもそも外側に向かって開放された性質を持つ以上、それは外面的な働きを成している。

一方で内面的な道というのは、私たちが通常、魂と呼ぶものに対する指針である。これは非常に難解にならざるを得ない。なぜなら魂というものは不可視であり、外面的な日常から乖離しやすく、従ってその行き先について知りがたい。私たちはしばしば魂の存在を忘れがちであり、キリスト教徒が呼ぶところの「堕落」の状態にある。

スンニー派イスラムでは、こうした魂に関する諸問題を取り扱うのがタサゥウフ(tasawwuf)すなわちスーフィズムであると考えてよかろう。シーア派イスラームにおいては、スーフィズムに加えて、シーア派教義と信仰実践のなかに外面ならびに内面に関する規範が分かちがたく混合している。

同時にスンニー派イスラムにおいてさえ、外面ならびに内面に関して混合されている領域が存在することは否めない。宗教的規範や教義のうち、明らかに外面的な事柄に属すると思われる教条や記述でさえ、それがスーフィズムという豊潤な体系の内側で育まれた教えから派生したものではない、と断言できるものなど何ひとつないとさえ考えられる。

実例として、『Dalail al-khaliyat』を筆頭に、スンニー派の世界に数多く存在する礼拝の手引書のほとんどがスーフィー導師によって書かれたものであることが挙げられる。またシーア派の世界には、四代目イマームであるザイヌル・アーバディーン(アーベディーン)の『al-Sahifah al-Sajjadiyyah』などが挙げられよう。いずれもが神秘主義者により記された内面的な教えと外面的な教えの双方を兼ね備えており、それらは相互に補完し合っている。著作の中で、シーア派イマームの言葉を引用するスーフィーもいれば、スーフィーの著作を援用するイマームもいる。スーフィーの著作の中には、シーア派のあるイマームによる礼拝方法にも影響を及ぼしているものもある。

さて、以下に引用するのは、ヘラート出身の偉大な聖者アブドゥッラー・アンサーリーによる『Munajat』の一節である。ここまでで述べた内容の全てが凝縮された、心の最も奥深くから沸き起こる終わりなきこの祈りは、宗派を超越して信仰する者に共通する普遍の祈りであると言えよう。

 

わが主よ、かけがえのない御方よ
私はあなたにのみ仕えましょう
私はあなたをのみ讃えましょう

心を授けてください
あなたへの感謝で満たすために

命を授けてください
あなたの創り給うた世界に捧げるために

わが主よ、理性を授けてください
道に惑うことのないように

光を授けてください
過ちを犯すことのないように

わが主よ、両の眼を授けてください
あなたの栄光のみを映すために

意志を授けてください
あなたの命ずるところに喜びを見出すために

魂を授けてください
あなたの知恵の美酒に酔うために