転載:ウイグル族の三大自然崇拝

「ウイグル族の三大自然崇拝」 アブリミテリィ・バッスル
古代突厥・回鶻文献と現代 古代ウイグル言語と文化についての研究

はじめに
Tanri(天)、Umay(ウマイ:女神)、Iduq Yer Subi(聖なる地、水)
古代ウイグル族の史料やイスラーム化以前から残る習俗と現在のウイグル族の生活に見られる習俗を比較した研究は,今日まで系統的に行われてこなかった。その原因は,ウイグル人以外の研究者たちが現在のウイグル族の習俗を詳細に観察する機会がなかったことに求められよう。

今日のウイグル族はイスラームを信仰しているが,イスラームと関係のない生活習俗も数多くあり,ウイグル族の中で長期間生活していなければ,これらをよく理解することができない。あるウイグル人研究者は現代ウイグル族の生活習俗をある程度研究したが,古代ウイグル族が残した多くの文献は,大体中国の国外に保管されているため,これらをお互いに比較して研究することができなかった。*1

そのため,ウイグル人の習俗の由来については,深く研究することができていない。多くの外国の研究者たちは古代ウイグル族の習俗と宗教についての研究を行ったが,現在のウイグル族の生活習俗との比較はなされていない。*2

このように,古代ウイグル族の文献と現在の生活習俗を比較する研究はまだ行う余地が残されている。そこで,本稿では7〜8世紀の古代突厥碑銘(碑文)を用いて文献の中に見られる古代突厥,回鶻の三大自然崇拝と現在のウイグル族の生活習俗に存在する自然崇拝の意味を比較し,現在のウイグル族に見られるいくつか習慣の由来を解明することを試みたい。

古代の三大自然崇拝
原始社会においては,人は,ある自然物や自然現象の中に霊魂や神秘的な力が存在すると信じていた。それらが人間の運命を決定すると信じて,それらを崇拝していた。ウイグル族の生活の中に見られる自然崇拝と関係する習俗の中には,実際は大昔から行われ続けてきたものがある。

文献によると突厥人には最初テンリ Tanri(天),ウマイ Umay(女神),イドゥク イェル スェビイ Iduq Yer Subi(聖なる地や水)といった主要な三つの信仰があった。突厥の三つの信仰対象は,それ以前のチュルク語系各民族の神話や伝説の中にも存在する三つの偉大で聖なる神であった。モンゴル国のホショーツァイダム Khosho Tsaidam 碑文(いわゆるキョル=テギン Kol Te gin 碑文)とビルゲ=カガン bilga Qagan 碑文には以下のような序文が見られる:

Tanritag, Tanrida bolmis Turuk Birga Qagan, bu odka olurtim.
Tanriyarliqaduq (ucun,o) zim,olurtuqima, (tort bulundaqi) boduninetdim, yaratdim.
Uza Tanri, asra Yar yarliqaduq uc (un,man,) kozun kormaduk,
qulqadin esidmaduk, bodunimin, ilgaru kun (torsiqina,) bargaru
(kun ortu) qa, qurinaru (kun batsiqina, yirnaru tun ortuqa qaz
nanu betrim.)
Uza Turuk Tanrisi, Turuk Iduq Yani Subi anca tamis:”Turuk.Bodun yoq
bolmazun!” tayin, “Bodun bolzun!” tayin, qanim Elteris Qaghanin,
ogim Elbilga Qatunin, topasinta tutip yagaru koturmis arinc.
Umaytag ogim qatun qutina, inim Kol Tegin ar at bolti.
Tanri, Umay, Iduq Yar, Sub basa berti arinc.

天の如き,天より成りたる チュルクのビルゲ=カガン,
このときに 治めたり。
天が 命じし ため,我に自ら,治めしとき,四隅なる
民を作れり,我れ,整えたり,我れ。
上にて 天,下にて 地が命じし ため,我れ,
眼もて見ざりし,耳もて聞かぎりし(までに),
我が民とともに,前(東)には日の生まれる地へ,
右(南)には日の真中なる地へ,西には日の沈む地へ,
左(北)には 夜の真中なる地へ,克ちえたり,我れ。
上にてチュルクの 天,チュルクの聖なる地,水,かく言えり:
『チュルク民無くならざれ!』とて『(再び)民たれ!』とて,
我が父エルテリシュ=カガンを,我が母,エルビルゲ=カトゥンを,
天は,その頭上にて取りて,高きに 持ち上げ たりき。
ウマイの如き我が母カトゥンの幸のため,
我が弟キョル=テギン成人名を得たり。
天,ウマイ,聖なる地,水,(我れを)力強くおさえたり。*3

この他,モンゴル国のバインツォクト Bain-Tsokto にあるトニュクク Tonuquq 碑文にも以下のような序文がある。

Tanri anca tamis arinc: kan bartim.
Tanri yarlikaduk ucun, ukus teyin koorkmadimiz (Tun,40-41)
Tanri Umay, Iduq Yar Sub:basa barti arinc…

天が かく言えり たりき: 『カンを与えた 我れ。』
天が 命じし ため, 敵はそれほど恐れない 我々。
天 ウマイ,聖なる地,水:(私たちを)援助した ・・・*4

古代突厥碑文にはこのような実例が存在する。私がここで解明したいのは,古代突決の人は自然崇拝のときに「天」(Tanri),「ウマイ」(Umai),「聖なる地,水」(Iduq yer,sub)を一番気高いものとして崇拝していたということである。上記の序文の内容からわかることはもし,古代突厥のために天,ウマイ,聖なる地,水,がなければ,あるいはその神々が恩恵を与えなければ,突厥の民たちはきっと全部なくなってしまうであろうと彼らが信じていたことである。その神々がいないならば突厥人は自らの国を成立することができず,突厥の民は繁栄することもできないと信じていた。つまり,もし,その神々の恩恵がなければ突厥人は何にもできないということである。

Tanri 「天」
「天」(tanri) を崇拝する習慣はさらに以前の匈奴時代にも存在した。中国の歴史書『北史』巻九八『高車伝』には「高車 其語略与匈奴同,而時有小巽」(高車の言語と匈奴の言語は大体同じであるが,若干異なる点もある)と書かれている。『北史』巻九九『突厥伝』では「突厥者_匈奴之別種也」5(突厥と呼ばれている人々は匈奴の別種である)と記述されている。中国の歴史書『北史』に記録されている古代高車 kankil の言語は実際は突厥の言語の一種である,すなわち匈奴の言語と突厥の言語はほぼ同じ言語であるともいえよう。トルコ人研究者タラート・テキン Talat Tekin 氏は漢代に帝国をうち建てた(紀元前206年から紀元後220年まで)匈奴の言語を研究して,匈奴の言語はウラル・アルタイ語族に属するという見解に賛同した。6

研究者たちが研究している古代匈奴の言語のうち我々に残されたものは、『史記』と『漢書』の『匈奴伝』に書かれている十九個の単語と十個の漢字によって構成されたひとつの詩だけである。漢字に転写されたこれら匈奴の言語のはじめには「chengli」と言う単語がある。研究者達は,この「chengli」は古代突厥語の Tanri と同様の単語であると判断した。これについては疑問の余地がない。タラート・テキン氏は匈奴語の「chengli」(Tanri)は実は匈奴の神である「天」(Tanri)であると考えている。*7

実際に”Tanri”と言う言葉はウラル・アルタイ語の中では発音と意味がほぼ同じである。例えば,モンゴル語で”Tan’gir”と言うのは「天」を意味する。各チュルク系言語においても,”Tanri”と言う言葉の発音と意味はほぼ同じである。例えば,ウイグル語でTanri,オスマントルコ語とアーズハル語でTanri,トゥルケメン語でTanri,ヤーケト語でTanara,チゥワーシ語でTuriと呼ばれている。古代突厥語のTanriと言う言葉には二つの意味がある,一つは「天」の意味であり,もう一つは「神」という意味である。例えば;

古代突厥の『ト占書』(Irk Bitig)には Er bususlun, tanri bulitlin bolti (男の心は悩んでいる,天は曇になる)と言う一文があり,この文では “Tanri” は「天」の意味である。*8

Tanri yarliqaduk ucun…と言う一文では “Tanri” は神の意味で用いられている。

古代突厥や回鶻の文献で時々 “Tanri” と言う名詞の前に “kok” と言う修飾語が使われることがある。 “kok” の意味は「天」,「空」,「青い」などであるが、一番最初は「青い」と言う意味で用いられた。 “kok Tanri” (青い天)は天の神を表す。古代ウイグル族により伝承されて来た英雄オグズカガンについての叙事詩である回鶻の「オグズナーマ」には Kok Tanri と言う神の名前が見られる。

現在ウイグル語においては,kokは「空」を意味し,Tanriは神を意味する。現在のウイグル族はムスリムであるが,それでもTanriと言う言葉をイスラームの唯一神であるアッラー(Allah)を意味する言葉としてよく用いている。例えば,人々は困難にある時,あるいは不安な時に空を見て両手を胸にあて

Ah, kandakmu kilarmen, Tanrim mana asanlik bergeysen…

と言って天(実際は Tanri)に祈る。また,今もウイグル族の民謡の中に以下のような詩の一節がある。

Tilak tila Tanridin 天に祈願しなさい,

Ocuk kilar yolun ni 天が道を開けてくれます。

Tanri enik korsitar 天はよく教えてくれる,

senin on hem solun ni 君の正と誤を。

ウイグル族の実際の生活の中にはこのように天を讃えたり,天に頼ったり,願いをかけたりするような言葉づかいの実例が実にたくさん存在する。これらは古代ウイグルの文化から残されたものである。これらはイスラームとは関係がないため,現在のイスラームの聖職者たち(イマームやアホンやモッラーなど)は,このTanriと言う言葉の使用を禁止している。しかし,これらは長い間から絶えず使われ続けてきた言葉であるため, 簡単に変えられるものではない。

この他,ウイグル族は大昔から絶えず青色を好んだ。地方で,特に東新疆(クムルやトルファンなど)のウイグル族はこの青色を一番重視している。例えば,これらの地方のウイグル族は住んでいる家のドアや窓や門を青いペンキで塗装する。また,赤ん坊の揺り籠も青いペンキで塗られている。青色は『空』の色であるため『天』を崇拝したウイグル族は大昔から青色を神聖な色と考えてきた。

天に対する崇拝には太陽崇拝,月崇拝,星崇拝なども含まれている。古代突厥の自然崇拝によれば,天上には複数の神が存在した。その中でも一番偉大な神は太陽であった。太陽神は古代突厥語でオルケン “olkun” と呼ばれている。現在でもカザフやキルギスなどにはオーリキン “olkun” と言う言葉があり,この言葉は「大きな」「偉大な」と言う意味である。しかし,現代ウイグル語にはこの “olkun” と言う言葉は残っていない。実際に “olkun” と言う言葉の語根は “ulu + kun” 「偉大」な「太陽」である。*9

今も,南,東新疆で暮らしているウイグル人(特に農村に居住するウイグル人)の日常生活において大昔の太陽崇拝に由来する習慣がある。例えば:

ウイグル人たちは住宅の窓を太陽の光が見える方面に向けて,あるいは東向きにして建てる。その上,屋上に必ず天窓(tunluk)を開く。特に,老人は天窓がない家には泊まらない。なぜなら,老人たちにとって日が当たらない家で死ぬことはたいへん恐ろしいことだからである。かれらは天窓がない家には天使や祖先の霊が入れず,良い霊魂も入れないといって心配する。また,ウイグルの女性たちは太陽に向けて髪を結ってはならない。

明らかに,これらは大昔の太陽崇拝の習慣が残ったものである。この他,ウイグル人は東の方向に向かって排泄することを禁忌とする。これも大昔から継続して来た太陽に対する敬意のあらわれである。さらに,ウイグル人たちはお互いに誓いを立てる時に,

「空に太陽(kun)がある,もし,私が自分の誓いを裏切ったなら,太陽が私に罰を与える」(wadamdeturmisam kun ursun!)

と言う習慣がある。ウイグルの老人たちは毎朝,日の出前に起きる。その理由は「もし,誰かが日の出の前に起きなければ,きっと罰があたる。アッラーもその人の罪をゆるさない」と考えているためである。

古代の文献にもかつてのウイグル族の祖先の太陽崇拝に関するものが多く残されている。中国の史書『史記』の匈奴伝には「匈奴の単干(Tanrikut)10 =『天の子』は,毎朝テントから出て太陽をおがんでいた。」11 と書かれている。

古代突厥,回鶻文献で Kagan (突厥語で『君主』の称号)たちはときどき自分の名前の前に “Kun Tanridin bolmis…” (日の天から生まれた…), “Ay Tanridin bolmis…” (月の天から生まれた…)という称号を使っていた。ある研究者は Tanri と言う言葉の語根は Tan (曙)であることをあきらかにした。また,古代の突厥文献『ト占書』には以下のような叙述がある:38-39*12,13

Tan tanladi, udu kun tordi,
udu yir yarudi kamiruze
yarur bolti tir, ancalilin adgu ol.

空が明るくなった,偉大な太陽が登った
偉大な地が照らされた
民の上に光があった,・・・

古代ウイグル族の歴史叙事詩『オグズナーマ』(Oguznama)の中でオグズナカガンの案内者として描かれている狼(具体的には蒼狼 kok bori)は空からあたった青い光の中から出現している。オグズカガンは一番目の皇后から生まれた三人の息子たちの長子に太陽(kun)という名前を付けた。*14

古代ウイグル族のトーテムであった狼も実は太陽神から生まれているため,オグズカガンは一番年上の息子に『太陽』という名前をつけたのである。

ウイグル族のある伝説によると太陽神は月と星の間に住んでいる。太陽神の宮殿(太陽神の宮殿は空であるとする伝説もある)に至る道には七層の障壁がある。男性のシャーマン(saman,古代回鶻語で kam と呼ばれる)が顕われた時その障壁は開かれる。七層の障壁は『太陽神の七人の息子』と呼ばれる。七人の息子たちはそれぞれカラシィーテ(Karasit),ボグラハン(Bograhan),ヤシルハン(Yasilhan),ボルチャハン(Burcahan),カラタル(Karatal),バフティハン(Bahtihan),エルカーニム(Erkanim)などである。*15太陽神の七人の息子たちとは,実際は七つの惑星なのである。

現代ウイグル族の生活において「七」と言う数字は神秘的な数字である。現代ウイグル語には,神秘的な数字である『七』に関するたくさんの諺や比喩が存在する。例えば:

Yatta kat kok kahridin yekilip cusmak
(七層の空から倒れて落ちる。大失敗の意)

Yatta kunluk alam
(七日の世界。とても短い命の意)

Yatta tastin yatmis yaskica
(七歳から七十歳まで。すべての人々の意)

Yakilgan yarga yatta tazim
(転んだ所で七回おじぎする。勝利者に服従するの意)

Barmayman digan tugmanga yatta ketim beriptu
(粉屋に行かないと言いつつ七回も行った。望まないことばかりがいつも起こるの意)

Yatta baslik yalmavuzdak adam
(七個の頭を持つ悪魔のような人。一番悪い人の意)

Yarnin koliri yatta qat
(大地は七つの耳を持つ。どんな秘密も隠しとおすことは出来ないという意)

この他,ウイグル族の男子は七歳になった時に割礼を行う。また死体を墓地に埋葬する時,その死者の長男が墓地に七回土を注ぐ。さらに人は逝去した後,七日目にその人の魂が家に還ってくると考えられている。そのため七日目に,死者の家で祭祀(ウイグル語では “Nezir” と言う)を行う。このような習慣はイスラームとは関係がなく,むしろウイグル族の,あるいはウイグル族の祖先が行っていたかつての自然崇拝と関係するものである。

太陽神の七人の息子に太陽神と月神を加えると九大神となる。伝説の中では,太陽の神には九人の娘がいると言われている。このことを理由のひとつとして,現在のウイグル族の生活においては「九」もまた神秘的な数字とされる。『オグズナーマ』のオグズカガンとオグズカガンの二人の皇后,そして二人の皇后から生まれた六人の王子をあわせると九人の家族になる。また,このような逸話も存在する:オグズカガンのもとには一頭の天馬がいた。ある日,その天馬が逃げて山の中に入った。その時オグズカガンは九日間かけて天馬を見つけて来たという。*16このほかにも,ウイグル族の生活習慣において「九」と関係がある諺や比喩は数多く存在する。例えば:

Tokkuzi tal
(九個の完全な。すべて整っている状態,あるいは何でもある,何でも持っている状態を指す。)

Tokkuz kinznin tolriki bir kunda tutuptu
(九人の女性の陣痛が同じ時間に始まった。いろいろな煩わしいことが同時に起こるという意。)

Tokkuz olcep bir kas
(九回計ってから切れ。慎重にゆっくり考えてから決断した方がいいという意。)

Men kilarmen ottuz, Hudayim kilar tokkuz
(私が三十回行えば,神は九回だけ行う。人よりも神の力は強いの意。)

Tokkuz ogulning bir guli
(九人の男の中で一人だけが花。男の中の男,あるいは一番優れた男の意。)

この三十年間に新疆ウイグル自治区で発見されたものの中には太陽神に関係する遺跡も多くある。1979年,新疆ウイグル自治区博物館の考古学者たちは南新疆のコンチ川 Konci deryasi のほとりで広大な墓地を発見した。この墓地は,三千八百年前のものであるにも関わらず,墓地の中に埋葬された物の保存状態は良好だった。その墓地群の回りには同心円の形で七層に杭が打たれていた。それを,外から見れば,光を放出している太陽のように見える。実際にこれは太陽を表わしている。*17

北新疆のアルタイ Altay の東方でもこのような墓地群が発見された。アルタイにある墓地の中には,石を並べて太陽の形を作っているものが多数存在する。ある墓地の中には,太陽の絵が描かれている。*18これらは大昔からその辺で暮らしていた人々の太陽神への崇拝を意味している。また,現在ウイグル族の生活習俗にも大昔から残された太陽崇拝の例が多く存在する。

Umay 「ウマイ(女神)」
ところで,十一世紀のカラハン朝時代の有名な言語学者マフムード・カシュガリー(Mahmut Kasigari)は『チュルク語大辞典』(Divanu Lugatit-Turk)と言う著作でウマイ Umai について説明している。マフムード・カシュガリーによると『ウマイ』は胎盤であるという。女性がウマイを崇拝すれば必ず男子が生まれると信じられていた。ところがウマイとは突厥における地母神である。60本の黄金の毛髪を持ち,それが太陽光線のように見えると言われる。

新生児を守るとともに,夫婦が子宝を授かることを促すと言われ,イマイないしマイと呼ばれることもある。その起源は,モンゴルの火の女王オトと同じ女神だったと考えられている。19,20

『ウマイ』と言う言葉の意味や語源は突厥研究者の間では,まだ明確にされていない。ある研究者は古代インド神話のヤマに由来すると看做している。また,ある研究者はウマイは古代ペルシア神話のハウマから来たのではないかと主張している。21また別の研究者はウマイは一番古い神として,中国の漢民族の神話の女神『西王姆』の一つであると看做している。22

ウマイはその由来や意味に関わらず,突厥人が崇拝してきた神であったことは間違いない。すでに述べた例(ビルケカガン碑文)においてもウマイは偉大な神として看做されていた。『チュルク語大辞典』によると,ウマイと言う言葉はイスラームの初期にもウイグル語の中に残されていた。古代突厥の文献によるとウマイはまず女神(女性)であった。キョルテキン碑文には,下のような叙述がある:

Akanim kagan ucdukda inim kol tigin yiti yasda kalti…
Umaitag ogum qatun qutina inim kol tigin ar at boldi.*23

私の父 カガンが逝去した時 私の弟 キョル テギンは 七歳だった。
ウマイのような 私の母 おかげで 私の弟 キョル テギンは 偉大な人となった。

この叙述でウマイは変わらず女神であることが分かる。原始社会にはまず母系氏族に基づく社会制度が現れた。その社会制度に即して表れた神々もおそらく女神だったと考えられる。以後,母系氏族の社会制度は父氏社会制度に変化し,女性の社会的地位は男性よりも低くなった。そして父氏社会制度の神々は男の神となった。つまりウマイは母系氏族社会が生んだ神とも考えられる。太陽神は男の神であるため,ウマイは Ulgun (偉大な太陽)よりも古い可能性がある。そのため,現在のウイグル族はウマイという神をすでに忘れ去ってしまった。現在のウイグル人はもはやあまりその言葉を使わない。

しかし,ウマイに関係する習慣は特定のウイグル地方ではいまだ存在している。例えば,南新疆の辺境では,今も妊娠している女性たちは出産する時に産院へは行かず,自分の家で出産する。それぞれの村には,経験に富んでいる産婆(togut anisi)がおり,妊婦の陣痛が始まった時にその産婆を呼ぶ。産婆は妊婦の頭上に線香をかざしながら神に祈る。

産婆は神に祈る時「Ah, rebbim Allah asanlik bergin! Ah, Umay ana asanlik bergin!」(ああ,アッラーよ,恩恵を与えたまえ!ああ,母なるウマイよ,恩恵を与えたまえ!)と言って安産を祈願する。出産の後,産婆は胎盤を誰にも見せないで埋葬する。もし,誰かが胎盤を見てしまうと罪人になると信じられている。私は一度,新疆のピチャン piqan 県のある村に住んでいる有名な産婆に『ウマイ』とはどのような神かと聞いたところ,産婆は『ウマイは一番最初の産婆だ』と答えた。

明らかに,この習慣は大昔のウマイへの崇拝に由来する習慣である。我々は二年前に全新疆で全面的な実地調査を行って,多くの資料を収集した。ウマイに関する習慣は以上のように残されている。

Iduq Yer Subi 「聖なる地・水」
最初に述べたように,水の神(Iduk yer sub)もウイグル人が昔から崇拝して来た崇高な神である。古代の突厥,回鶻の文献の中においても地水神と空(天)の神が同時に見られる。ビルゲカガン碑文にはこのような一文が書かれている:

Uza turuk Tanrisi, Iduq Yari Subi anca temis…*24
上から チュルクの天 チュルクの聖なる 地 水 かく 語る・・・

古代突厥文献「ト占書」にもこのような文がある:

Titir burramen, orun kopukumin sacarman, uza tanrikatagir, asra yirka tagir tir…*25
私は 良種の 雄駱駝 私は 白い 泡を捲く 上は 天に至り 下は 地に至り・・・

明らかに,かつては地水神も空(天)神と同じように突厥人の偉大な神であった。突厥人は地と水が同時に生存していると信じていた。そのため,ある古代の突厥文献では『聖なる地水』と記述されている。*26

現代ウイグル語では『Iduk yer sub』(聖なる地水)という言葉は存在しないが,現在ウイグル族の日常生活では地水神と関係のある多くの習慣がある。例えば,東新疆のウイグル人はお互いに誓いを立てる時に『もし,私たちが自分の誓いを裏切るなら,地が私たちを呑み込んでもいい!』と言う習慣がある。人々はお互いに売買する時,もし,相手との交渉の末,合意に達すると右手を地面に擦りつける。これは地の神が証明者であるという意味である。ウイグル商人たちは毎日最初に手に入れたお金をまず地面に投げて,その後お金を保管箱に入れる習慣がある。これも商人たちが地の神からの援助を祈願することの現れである。

現在のウイグル族の習慣では水も神聖なものである。水の中にゴミのようなよごれたものを投げ入れることは絶対に忌避されている。水を汚染するのはとても恐れるべき事であると考えられている。水に排泄することも絶対に禁止される。

特に地方では泉の湧き出る場所(ウイグル語で “koz” すなわち,人間の目と同じ単語を用いる)を特別に保護する。泉が湧き出る場所でものを洗うことや,あるいは手を洗うことなどは忌避されている。ウイグル族の村へ初めて来た漢民族は,ウイグル族のそうした習慣をよく理解していなかったため,新疆で大きな民族衝突を起こした事もあった。

ある研究者は古代の突厥人が木を崇拝するっことも一種の自然崇拝であり,これは聖なる地水神を崇拝することの一部であることを明らかにした。*27

古代ウイグル族のある伝説では,人は木から生まれたと言われる。例えば:

『オグズナーマ』では,オグズカガンの二番目の皇后は木から生まれた。オグズカガンはその皇后が産んだ三人の王子たちに,それぞれ Kok(空),Tar(山),Taniz(海)という名前を付けた。*28

地神と木神は同一のものと考えられる。現在も地方のウイグル人は桑の木,楡,柳,くるみの木などを保護する。その種の木を切ることも忌避されている。そのため,特に南新疆では樹齢500年以上のそうした木が多数存在する。農村のウイグル人はもし誰かが長期間生きてきた木を切るならば,きっとその人は中風などの病気になると信じられている。南新疆の地方では樹齢千年と言われる古木も存在する。

この他,ウイグル人は古木の枝に白い布の小片を縛ってしるしにする。これはその木を切ることが禁止されているという意味である。老人達はしるしが付されている木の前に来た時,必ず馬やロバが引く荷車から降りて通過する。*29

古代の突厥文献でも桑の木,楡,柳,くるみの木などは神聖なものと考えられている。『ト占書』には以下のような一文がある。

Bir tabilru yuz bolti, Yuz tabilru min bolti, min tabilaru tuman
bolti tir, anca bilinlar, asir bar, adgu ol.
Kok buymul toran kusman, yarakliy uza tusupan yaylayurman,
tir, anca bilinlar, anyir adgu ol.

一株の柳が 百株になった 百株の柳が 千株になった 千株の柳が 万株に
そのことを知りなさい それは益をもたらす 良いこと
私は 青い色の 鶻の鳥 くるみの木の 園の上で ついばむ
私のことを見つけなさい それは良いこと だから

明らかに,ウイグル族は昔からある種の木を神聖なものとして崇拝してきた。

この他,山を崇拝することもある。現在のウイグル語で “Yer kucari – tar, yarkucaribar” (地の胸は山だ,親友の胸は園だ)という諺がある。つまり,ウイグル人にとって地と比較して山は大変大切なものである。さらに,ウイグル人は山は天(空)に近いものであると考え,天(Tanri)に近しいものとして崇拝されてもいた。

古代突厥文献碑銘*30によると,昔のウイグル人たちはAltun yis(金山),Qadirqan yis(興安嶺),Curay yis(山陰),Utukan yis(ウトュケン山)などの山々を尊重することがあった。(これについては,山田信夫先生の『北アジア遊牧民族史研究』に詳しく説明されている。)現在ウイグル族の長い歴史を持つ墓地は,その大部分が高い山に近い場所か,あるいは山麓に位置している。新疆にある山々の名前は神聖な意味のものが多い。例えば:

Tanri tag(天山),Han Tanri(『カガンの天』あるいは『天の可汗』峰),Evliya cokka(聖人の峰),Yalruz han(一人の可汗),Muztar ata(氷山の父)など。*31

終わりに
以上のように,実際の史料から理解されることは,大昔から残されて来たウイグル族の習俗の多くが,時代を越えて現在にも伝承されてきているということである。本稿では,専ら古代の突厥回鶻文献にある三大自然崇拝が,現在のウイグル族の日常生活に残した文化素因の一部について述べた。もし,更に広く,詳しく研究するならば,多くの問題が明らかになろう。この観点からも,現在ウイグル族の習俗と古代の突厥回鶻文献について,宗教学や文化人類学の角度から具体的な研究を行うことは,大変重要な意義がある事であると思われる。


注:

1) アブドケリム・ラハマン:『ウイグル族の習俗』 新疆青少年出版社,ウルムチ,1997

2) IBRAHIM KAFESOGLU:『ESKI TURK DINI』 Ankara,1980

3) 護雅夫:『古代トルコ民族研究 I』 山川出版社,1967
『突厥碑文剳記 – 突厥第二可汗国における「ナショナリズム」』 東洋史研究 第34巻,1976

4) TALAT TEKIN:『TUNYUKUK YAZITI』 TURK DILLERI ARASTIRMALARI DIZISI-5,Ankara,1994

5)『突厥語言文化研究』:中央民族大学出版社 北京,1999

6) TALAT TEKIN:『HUNLARIN DILI』 Ankara,1993

7) TALAT TEKIN:『HUNLARIN DILI』 Ankara,1993

8)

9) ABDULKADIR INAN:『TARIHTEVE BUGUN SAMANIZM』 Ankara,1954

10)TALAT TEKIN:『HUNLARIN DILI』 Ankara,1993

11)司馬遷:『史記』匈奴伝,巻110 新疆人民出版社,1989

12)『ト占書』原文の行番号

13)バスル・ショーコル:『古代突厥文献ト占書と古代ウイグル族の原始宗教観』 新疆人民出版社,2000

14)耿世民,トルソン・アーユフ:『ウグズナーマ』 北京民族出版社,1980

15)バスル・ショーコル:『ウイグル民間叙事詩 Ak olamberdihan とシャーマニズム』 新疆人民出版社,2000

16)耿世民,トルソン・アーユフ:『ウグズナーマ』 北京民族出版社,1980

17)アブディカユム・ホジャ:『西域と古代文明』 新疆人民出版社,1995

18)新疆社会科学研究所編:『新疆宗教』 新疆人民出版社,1988

19)B.ATALAY:『DIVANU LUGATIT-TURK』

20)山本史郎,山本泰子:『世界の神話百科 東洋編』 原書房,1999

21)ABDULKADIR INAN:『TARIHTE VE BUGUN SAMANIZM』 ANKARA,1954

22)クルバン・ワリ:『私たちの歴史文学』 新疆人民出版社,1983

23)HUSEYN NAMIK ORKUN:『ESKI TURK YAZITLARI』 ANKARA,1987

24)護雅夫:『突厥碑文剳記-突厥第二可汗国における「ナショナリズム」』 東洋史研究 第34巻,1976

25)バスル・ショーコル:『古代突厥文献ト占書と古代ウイグル族の原始宗教観』 新疆人民出版社,2000

26)BAHAEDDIN OGEL:『TURK MITOLOJISI』 ANKARA,1995

27)BAHAEDDIN OGEL:『TURK MITOLOJISI』 ANKARA,1995

28)耿世民,トルソン・アーユフ:『ウグズナーマ』 北京民族出版社,1980

29)バスル・ショーコル:『古代突厥文献ト占書と古代ウイグル族の原始宗教観』 新疆人民出版社,2000

30)山田信夫:『北アジア遊牧民族史研究』 1989

31)『天山』は新疆の中心に位置する山脈で,カガン峰は天山山脈の一番高い峰のひとつです。『聖人の峰』は新疆チャブチャル県の山峰。Yal ruzhan (可汗唯一の可汗)は南新疆アートシ・テグレマトに位置する山峰です。Muz tar ataは南新疆ターシィコルガン県に位置する山の名です。