『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
刺青を彫り損ねた男
さあさあ、語り部の語る昔話に耳を傾けるとしよう - カズウィーンの人々の間に伝わる流儀や習慣についてはご存知かな?彼らは鋭い針を使い、青い染料を用いて、その体や手、肩などに青い刺青を彫る。刺青を彫っておけば、怪我や災厄に苦しめられることがない、と彼らは信じている。
ある日のこと。カズウィーンの男が床屋へ行き、こう言った - 「おい、刺青をひとつやってくれ!とびきり上等の、うんと芸術的なやつを頼むぜ」。「これはこれは、ご立派な旦那!」、彫り師(伝統的に理髪師が彫り師を兼ねている)は言った、「剛胆でいらっしゃいますねえ。何を彫りましょう?」。
「吠えまくる獅子がいいな、凄まじく恐ろしい奴を一頭」、男は答えた。「おれは生まれ月の星座も獅子なのさ。獅子の刺青を彫ってくれ。染料も針もけちるなよ、たっぷり使って、真っ青にしてくれ」。
「どこいらへんに」、彼は尋ねた、「彫ったらよろしいので?」。男は言った、「肩のあたりだ。肩甲骨の上にちくりとひと刺し。奇麗にやってくれよ」。そこで彼は針を刺し始めた。たちまち激痛がやって来て、そのまま男の肩に居座った。我らが勇敢な英雄どの、たまらずうめき声をあげた。「痛い、痛い。彫り師さんよ、刺青の名人さんよ。あんた、おれを殺す気か?一体、何を彫っているんだ」。
「何を彫っているのか、って」、彼は言った、「獅子を彫れ、と言ったのはだんなじゃあないですか」。「そんなことは分かっている」、男は言った、「獅子の、どのあたりを彫っているのかと訊いているんだ」。「尻尾から始めたところですよ」、彼は言った。
「なあ、兄弟」、男は泣きだした、「尻尾抜きでやってくれ!尻尾と尻のせいで、息が止まるかと思ったぜ。獅子の尻に鼻の穴を塞がれてみろ、苦しいなんてものじゃあないぞ。獅子に尻尾は要らねえ、尻尾抜きでやってくれ。でなけりゃ、あんたの針が獅子を描き終わる前に、俺の心臓が止まっちまう」。
そこで彼は気を取り直し、染料をたっぷりと含ませた針を、男の肩の別の部分に - 遠慮も無く容赦も無く、無慈悲に - ぐさりと刺した。客が悲鳴をあげた。「今度は何を彫っているんだ?!」。「獅子の耳ですよ、好い男のだんな」、彼は答えた。
「先生、頼むよ」、男は言った、「耳など無くたってかまうものか。あんた、床屋だろう?耳なんざ切り落としちまえ。ああ、それからついでに、たてがみも短く刈り込んでやってくれ」。そこで彼は、さらに別の部分を彫ろうと針を刺し始めた。カズウィーンの英雄どの、再び呻いて泣き声を放った。
「これで三度目だぞ。一体、今度は何を彫っているんだ」。彼は答えた、「獅子の下腹ですよ」。「下腹抜きの獅子にしてくれよ」、男は言った。「たかだか刺青の獅子じゃないか。ものを食うわけでもない、絵に描いた獅子に下腹は必要ないだろうが」。床屋はうろたえた。大いなる困惑が彼を包み込んだ。彼は指を歯に当てて、しばらくじっと考え込んでいたが、やがておもむろに針を床へ叩き付けて言った -
「世界中の、どこにこんな馬鹿げた話があるものか!尻も頭も腹も無い獅子など、いるならいっぺん連れて来てみろ!神様ご自身だって、そんな獅子を創った憶えはないだろうよ!」。
- さて、同胞諸氏よ。自我の外科手術は激しい痛みを伴う作業だ。しかしその痛みに耐え抜けば、やがて自我そのものの発する毒から解放される。おのれの自我に隷属する者など、どこの誰が重んじるだろうか?自我から解放された者にこそ、空も、太陽も、月も、皆うち揃って敬礼し奉仕する。誰であれ、非道な自我を殺しきった者にこそ、太陽も雲も命ぜられた通りに従う。
心の中に、愛と知のろうそくがある。このろうそくに明かりを灯すすべを習得した者を、太陽が焼き焦がすことは出来ない部分に注意を払いつつも部分に拘泥せず、なおかつ部分を通して全体を見ようとする者、さらに全体を通して調和を見ようとする者。そうした者の目に対しては、バラの棘も美しく映ろうと努めこそすれ、刺して傷つけたりはしないだろう。
神を賛美し、その栄光を称えるとは如何なることか? - それはおのれの卑しさを知るということだ。おのれなど、塵も同然の役立たずであると弁えるということだ。神の調和に関する知識を得るとはどういうことか? - おのれを、唯一の御方の裡に滅しつくすということだ。
昼の輝きを欲するのなら、自我という夜の暗がりを燃やしつくせ。
錬金術師の手に委ねられた銅のように、自我を溶かしつくせ。
存在を育みたもうのも、また支えたもうのも御方。
存在の養い手である御方の裡に、おのれを消しつくせ。
- このように語ると、その両手に「私」と「私達」をきつく握りしめ、決して離すまいとする者が必ず出てくる。二元論がそうさせているのだ。二元論がもたらすものは、ただ魂の荒廃のみであるというのに。