何故にアリーは剣を捨てたか

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

何故にアリーは剣を捨てたか

誠実であることについてはアリーに学べ。神の獅子アリーには、欠片ほどの偽りも無かった。彼が異教の騎士と戦場で往き合った時のこと。敵を討ち取ろうと、彼は素早く剣を抜いた。すると男はアリーの顔に唾を吐いた、全ての預言者と聖者の、誉れである彼の顔に。月さえも腰を低く屈めて拝もうというその顔に、男は唾を吐きかけたのである - 何という侮辱!

ところがアリーは、すぐさま剣をその場に捨て、漲っていた戦意を和らげたのである。事を起こさず、容赦と慈悲を示そうというその振る舞いに、さしもの騎士も仰天した。彼は言った、「あなたは鋭い剣を振るい上げ、私を叩き切ることも出来た。それなのに、何故にその剣を脇に捨てたのか。

何故に、私の命を惜しむのか。私を追いつめ、私を殺すことを押しとどめる何があるというのか。私と戦うことの他に、より優れた何があるというのか。まるで雷光のよう、光ったと思えば一瞬にして消え失せてしまった - あなたの戦意を失わせるほどの、何をあなたは見たというのか。

私の心は、魂は、憎悪の炎をまき散らしていた。それなのに、何をあなたは見たというのか。この世の事象を離れ、空間を離れて、何をあなたは見たというのか。それは命よりも良いものか? - そうか。それであなたは、私の命を取り上げなかったというのか。その勇猛さゆえに、人はあなたを主の獅子と呼ぶ。しかし誰が知るだろう、あなたの真の優しさを!

あなたの寛大さは、まるでモーセの雲のようだ。比類無きパンと、食物の載せられた皿を砂漠へ運ぶ」。雲は小麦を人の手に運ぶ。人は額に汗して小麦を挽き、菓子やパンを焼く。だがモーセの雲は違う。モーセの雲は慈悲の翼を拡げて、何の労苦も無く食べるばかりに焼き上げられた料理を、甘い菓子を与える。

恩恵を授かるにふさわしい乏しき者達のためにこそ、雲はその慈悲を旗印として高く世界に掲げる。四十年の間、割り与えられる日々の糧、その気前の良さは、希望に満ちた人々の期待を裏切ることは無かった - やがて彼ら自身が堕落し、葱や緑の香草を、ちしゃ菜を求めるまでの間は(コーラン2章61節)。

ムハンマドに続く誇り高き人々よ、あなた方は知っていよう、神の糧には終わりが無いことを。「私は主と共に夜を過ごし、食べる物、飲む物を与えられた」と預言者が言うとき、そこには一抹の比喩も無い。小賢しい解釈は不要だ、ただこの言葉をあるがままに受け入れれば良い - ただ飲み干せ。そうすれば乳や蜜のように、心地よくのどをうるおし通ってゆく。

そもそも解釈とは何か。それは届けられた贈り物を突き返す行為だ。贈り物の持つ原初の意味を、不完全であると考えるところに解釈が始まる。解釈する者は、新たな意味を付加し、変更しようとする - 不完全と看做すのは、贈り物そのものではなく、解釈する者自身の理解が脆弱であることに起因する。

全的知性は核であるが、私達一人ひとりの個的知性は殻のようなもの。知恵は種子のようなもの、理性は殻に過ぎぬ。書き換えるならばあなた自身を書き換えよ、預言者の伝承ではなく。批判を加えるならばあなた自身の思考に加えよ - 手には届かぬ、捉えることもかなわぬ薔薇園ではなく。

「アリーよ、知力そのもの、視覚そのものの人よ。あなたが見るものの、ほんの片鱗だけでも知らしめてくれ。穏やかさというあなたの剣は、私の魂をまっぷたつに断ち割った。あなたから流れ出た知識の水は、私の泥を洗い流した - さあ、教えてくれ!私には分かる、これぞ御方の神秘、これぞ御方の御業。

剣を持たずして胸を断ち割るとは。手も無く道具も無しに、贈り物を創造するとは。耳も目も、未だ知ることの無い百の葡萄酒を味わわせるとは。教えてくれ、天のために狩る鷹よ - 創造の御方を通して、あなたが知り得たことを、さあ、教えてくれ。封じられた目を持つ者と違い、あなたの目は不可視の世界を見、不可視の世界に学んでいる」。

ところが視覚も聴覚も、私から逃げ去り汝の上に留まり続ける - これは夢か、幻か?それとも御方の隠したもう素晴らしい御業か?汝の上には狼の毛皮が、私の上にヨセフの美貌が。一万八千の世界が在ろうとも、全ての者が一万八千の世界を見渡せるものではない。

「アリーよ、秘密を知らしめてくれ。神に受け入れられし者よ、悪き巡り会わせの後に訪れた良き運命よ。あなたの心に見えているものを明かしてくれ、私も明かそう、私の目の前で輝いているものについて - その輝きは、あなたから溢れ出しているものだ。どうして隠し通せるだろうか?まるで月のよう、語ることも無く光を投げかける。

しかし月の球面が語るならば、夜を渡る旅人もより早く導かれよう。過誤と不注意から、その身を守れよう。月の声は悪鬼の声に優る。声無き月は道を照らす、だが月が声を持てば、光の上に光が重ねられよう。知識の門よ、降り注がれる暖かき太陽の光よ。あなたが門ならば、さあ、開いてくれ。

探し求める者に向けて、開いてくれ、その門を。殻を打ち砕き、核に辿り着かせてくれ。永遠への門を開いてくれ、神の知識へ、『比類無き者(コーラン112章4節)』へと至る門を」。大気と、舞散る微粒子の全てが神の顕現する場。だがこうも長く閉じられていては、誰が言おうか、「これぞ門」、と。

扉を見張る者が扉を開けぬ限り、思考の種は芽吹かない。だが一度その扉が開かれれば、たちまち驚愕と共にそれは芽吹き、希望の翼へと育つだろう。翼が育てば、思考は飛翔を試みるようにもなろう。漫然と過ごしてきた者が、偶然にも廃墟で財宝を見出す。そしてそれ以来、ありとあらゆる廃墟を巡るようになる。

だがたった一人のデルヴィーシュから真珠を一粒得られるものならば、それ以降は他のデルヴィーシュを探しまわる必要も無い。見識や議論というものは、どれほど長いこと流布され続けようが、それ自体の鼻先より遠くへは飛べぬ - 申し述べた者自身の立つところよりも、更に優れたところへと至ることは無い、ということだ。

- さて。正直なところ、自分の鼻以外のものを見たことはあるか?自分の鼻よりも遠くを見たことはあるか?自惚れに鼻を膨らませていては見えるものも見えないだろう。不可視の世界の芳香を嗅がずして、鼻より先を見た、などと言えるだろうか?剣を捨てたアリー - 神よ、彼を嘉したまえ! - に、敵方の騎士はなおも食い下がって問うた。

「語ってくれ、信者の長よ、貴公子よ。あなたが語れば、私の体内はかき混ぜられる。かき混ぜられれば魂も凝り、胚のように育つだろう」。胚を胎児へと育てるのは七つの惑星、天を巡って順番にこれを養う。やがて全ての惑星が役目を終えると、最後は太陽の出番だ。胎児が精神を宿す時、太陽がそれを助けるのである。太陽に引き寄せられて胎児が動く。

運動の環に連なれば流転が始まる。恩恵が、勢い良く太陽から注ぎ込まれる。その他の惑星が残すものと言えばただ軌道の足跡に過ぎぬ、だが降り注ぐ太陽の輝きは暖かな恩恵、恩寵そのものだ。しかしこの連環はどのようにして起こるのか?子宮の暗がりに居ながらにして、どのようにかの美しき太陽と繋がることが出来るのか?

- ヒトの目では見ることの出来ぬ、隠された道がある。私達ヒトの感覚からはかけ離れた、隠された方法がある。天に輝く太陽には、ヒトの与り知らぬ多くの道を持っている。その道を辿れば、鉱山の奥深くに眠るそれが黄金にもなる。その道を辿れば、ただの石ころが宝石にもなる。その道を辿ればルビーは赤い光をきらめかせ、蹄鉄は稲妻を帯びて火花を散らす。

その道を辿れば果実は熟し、その道を辿れば臆病者も勇猛果敢な騎士となる - 「語ってくれ、輝ける翼を持つ鷹よ。王の腕を止まり木とし、王の傍で多くを学んだ者よ。語ってくれ、アンカー(不死鳥)を捕える高貴な鷹よ。援軍の助けも無しに、敵軍を討ち取る者よ。

共同体というものに属すならば、私はあなた一人で十分だ - あなた一人で、百人、千人もの味方を得たも同然だから。さあ、語ってくれ。私はもはやあなたに捕えられた獲物に過ぎぬ。何故に、復讐ではなく慈悲を選んだのか。何という道をあなたは辿ろうというのか、竜の手に自らの手を重ねるとは」。

彼は言った。「私が剣を用いるのも、神の命ずるところに従ったまで。私は神のしもべであり、肉体の命ずるところに従う者ではない。私は神の獅子だ、激情の獅子ではない。私の行為の一つひとつが、私の宗教の証言者となる。戦場にあって、この私が明らかにすべきはただ真実のみ。『汝が射止めたとき、射止めたのは汝ではない。神が射止めたもうたのである(コーラン8章17節)』。

私は剣に過ぎぬ、操りたもうはかの聖なる太陽だ。自我という荷物はとっくに捨てている、真に在るのはただ神のみ。主が太陽ならば私は影。私は幕のこちら側で侍る従者だ。幕のそちら側に居るものでも無ければ、幕となって遮るものでもない。私は合一の真珠が散りばめられた者、宝石で飾られた短剣のように。

私は殺すために戦場へは赴かぬ、生かすために赴く。私の剣の輝きを血で覆うことは出来ぬ - どれほど激しい風だろうと、私の雲を吹き飛ばすことは出来ぬ。私は山だ、藁ではない。私は山だ、寛大と忍耐、そして正義の山だ」。 - 風に吹き飛ばされるのは、藁くずや塵の類いだ。いちいち動じて何になる、逆風の吹かぬ処などどこにも無いというのに。

礼拝を遠ざけて過ごした者ほど、怒り、欲望、貪欲の風が吹けば、たちまち吹き飛ばされてしまう。「私は山であり、私という存在を建てたもうは御方である。もしも私が藁くずとなれば、私の風となるのは御方の風だ。私の熱情をかき乱すものは何も無い、ただ御方の風を除いては。私は指揮者というものを持たない、ただ唯一の御方への愛を除いては。

君臨する諸王の上にあって、彼らを支配するのは怒りだ。だが私は、その怒りをこそ支配し征服した者。私は怒りを、おとがいの下へ結び付けてやった - 忍耐の剣もて、私はわが怒りの首を討ち取った。神の怒りが私の頭上に落とされようとも、私にとっては注がれる慈悲のようなもの。

屋根はすっかり破壊されて崩れ落ちるが、私は光の中へとたたき込まれる。ほこりまみれのブー・トゥラブ(『塵の父』の意)のような姿になってさえ、私は庭園そのものになる。 - 神以外の何ものかが私の思考に入り込んできたならば、剣をさやに収めるのが私に課された義務というもの。

名を呼ばれるならば、『神の道において愛する者』と呼ばれたい。私が制すべき我欲とは『神の道において憎む者』だから。『神の道において与える者』でありたい、見ての通り私は『神に寄り添って離れぬ者』だから。出し惜しみするのも、気前良く与えるのも神のため。全ては御方あってのこと。

私は神に全てを委ねている。私は完全に神に属し、他の何ものにも属さない。そして私が『神のために』と何ごとかを行うとき、理屈や合理などのためではない。私は夢想に従わぬ、私は空論に従わぬ - 下されし直観以外の何ものにも従わぬ。理論や推測は私には無用だ。

私の袖は、神の衣の裾に結わえてある。もしも私が空を飛べば、私はいと高き処をこの目に焼き付けるだろう。もしも旋回すれば、私は旋回の軸をこの目に焼き付けるだろう。そしてもしも重荷を背負う時があれば、私はこう言おう - 『私は月だ。そして私の導きは、私の目の前をゆく太陽だ』と。

人々と理解し合おうとするならば、これより他に最上の手立てはあるまい - 川では、海を収めきることは出来ない。人々に話しをするとき、私は(彼らの)理解に見合った話をする。話の度合いを、高くも低くもする。これは過誤では無い、預言者の習いだ。

「私には、私利私欲の持ち合わせはありませぬ。自由民の口から、その証言を聞いて下さい。何故なら奴隷の証言には、稲穂二本分の価値もありません」。我らが宗教の法は、奴隷の証言は訴訟の場、裁決の場において何の価値も無いと定めている。何千もの奴隷があなたのために証言をしようとも、法はその証言に藁ほどの価値も認めていない。

神の御目は、従属させられた召使や奴隷よりも、自ら欲望に従属する奴隷の方をこそ低き者、悪き者と捉えたもう。召使も奴隷も、雇い主がたった一言発するだけで、たちまち自由の身になれよう。だが欲望の奴隷はそうは行かない。生は彼らにとり甘いものとなろう、だが彼らの死は酸っぱく苦いものとなろう。

欲望の奴隷には解放の手立てがまるで無い、ただ神の恩寵と、そのご加護以外には。彼らは自分自身を底無しの穴に突き落とす、自分自身の罪の穴に - これは自分自身が犯す過ち。定命による落下でもなければ、運命が掘る穴でもない。自らが招いたことだ。彼ら落ちた穴の中へ綱を投げ入れてみても、はて。底までどれほどの深さやら、私には見当もつかぬ。

この辺で終わりにしよう。この話を更に語り続ければ、心どころか岩までもが血を流すことになろうから。こんな話を聞かされて、血を流さずに(痛みを覚えずに)いる心などあるだろうか?(もしも)血が流れ出ぬようならば、それは心の堅牢さゆえではない。混乱と耽溺のまっただ中にあるというだけのこと。

やがて血が流れる日が来るだろう、彼らにとって彼らの血が何の役にも立たず、価値も持たなくなった頃に。 - 血を流すならば、価値のあるうちに流さねばならぬというのに。

奴隷の証言は受け入れられぬ。欲望という悪鬼の奴隷に成り下がった者など、証言者として認められぬ。御言葉にもある通り、「われらは汝を使わした、一人の証人として(コーラン33章45節)」。神が預言者をして証人たらしめたもうのも、彼が地に在るものへの欲望から解放されていたが故のこと。

- 「怒りには、私を繋ぎ止めることは出来ない」、アリーは言った。「私は自由の身、私を見よ、神の性質以外の何ものも顕われることのない『場』を見よ。さあ、入れ!入るがいい、主の慈悲は主の憤怒にも優る。入るがいい、神の恩寵は汝を解放したもう。汝はついに自由の身となったのだ。

躊躇するな、さあ、入れ!危険を逃れて、門をくぐれ。汝はかつて石であった。だが聖なる吐息によって、汝は今や宝玉となった。不信の茂みに生じた一本の棘よ、薔薇となって咲くが良い、糸杉の揺れる『Hu(それ)』の庭で。 - 彼我を超えよ、祝福されし者よ!汝は我なり、我は汝なり。おまえがアリーなら、どうして私がアリーを死なしめようか。おまえの反逆、おまえの罪は、信じる者の従順と善行をはるかに凌ぐ - おまえは瞬く間に天を渡ったのだ!」。

このような罪こそ、まさしく幸運と呼ぶべきもの。薔薇も棘に囲まれてこそ、やがて花も咲くというもの。最初にウマルが預言者を訪れたのも、預言者を殺すためであった。しかしその罪こそが、彼を許しの門へと導いたのでは無かったか。ファラオが魔術師達を招いたのも、彼らの魔法をあてにしてのことであった。しかしその招きこそが、魔術師達を魔法から遠ざけ、魂の糧を得るに至らせたのでは無かったか。

彼らの魔法、彼らの(モーセに対する)否認こそが、やがては彼らをファラオへの反逆へと導いたのである。彼らは杖を見、奇跡を見た。彼らの犯した罪こそが、彼らに神を見せたのだ。神への反逆は、やがて神への服従をもたらす。神は絶望の首を討ち取りたもう御方、罪と反逆を服従へと転じたもう御方。

神はこのように正しき行い、悪しき行いを入れ替えることも出来る御方。中傷者どもが何を言おうが、神の慈悲は呪われた悪魔を追い払いたもう。悪魔は私達に罪を売りつける。だが神が罪を買い取り、徳と転じる様を見れば、やがて嫉妬で一杯になり、最後にはひび割れてまっぷたつに引き裂かれよう。

悪魔は私達を罪へと誘い、あの手、この手を用いて私達を穴へと連れ込もうとする。だが罪を犯して道を踏み外したはずが、服従の姿勢へと転じるのを見れば、落胆へと突き落とされるのは彼の方だ。

- 「入れ!私は扉を開こう、おまえのために。私に唾吐いたおまえに、贈り物を与えよう。見えるだろう、私は頭を垂れている。仇なす者への、これが私からの贈り物だ。善をなす者への贈り物は如何ばかりであろうか。それは永遠の財宝、永遠の王国だ」。