『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
続)商人とオウム
やがて商人はインドの地に辿り着き、気付けばさらにインドの最果ての地にいた。商人は、どこまでも広がる草原にオウムの群れを見た。彼は深く息を吸い込み心を鎮めた。それから、声を張り上げて彼らに挨拶し、彼らに決して害なす者ではないことを知らせ、彼らの信用を得ようと試み、それからオウムの言葉を伝えた。すると彼の言葉を聞いていたオウムのうち、一羽が激しく震え出した。それから地面に落下して、そのまま息絶えてしまった。
それを見て、商人はそしてオウムの言葉を伝えたことを悔やんだ。彼は言った、「なんということだ。はるばる遠くへ旅をして、私が仕出かしたことときたら、小さくかよわい生き物を死なせることだったなんて。このオウム、きっと私の飼っているオウムの縁につながる者であったのだろう。二つの体が一つの魂を分かち合うように、近しい者であったのだろう。
一体、私は何ということをしてしまったのか。何故伝言など預かり、何故それを伝えてしまったのか。これを善良などと呼ぶだろうか、正直などと呼ぶだろうか。哀れな生き物の命を奪った、ただの粗野でそこつな乱暴者ではないか」。舌なるもの、これは火打石でもあると同時に火そのものでもある。舌は絶え間なく火の粉をまき散らし、あちらこちらに火を点ける。今日はあちらで噂話の火を燃やし、明日はこちらで自慢話の火を燃やす。
火打石を無駄に使うな。石と鉄とを、むやみにこすり合わせるな。周囲は一面の綿畑だ、無知という名の暗闇にいるおまえは知るよしも無かろうが。否、否、無知だからこそ、おまえは綿畑の真ん中に火打石を持ち出して、平然と使ってのける。無知という名の暗闇で、乱暴者は目を見開こうともしない。闇に怯えていっそう目を固く閉じ、四方八方に虚栄そのものの言葉をまき散らす、「怯えてなどいるものか」と言わんばかりに。
まき散らされた言葉が、火となって綿畑に燃えうつる。綿畑は炎を吹き上げて燃え、やがては世界に飛び火して、一面を火の海にしてのける。世界を燃やし尽くそうと思えば、たったひとつの言葉で事足りる。言葉というもの、死んだ狐を獅子に変えてさえのける。
イエスの呼気に触れよ、イエスの言葉にまじわれ。イエスの言葉には、再生の力がそなわっている。原初の生命にも見出される、治癒の力がそなわっている。イエスに平安あれ。初めてふれるとき、イエスの言葉は深い傷となるだろう。だが次にふれるときには、傷をおおい包む石膏となるだろう。
肉体というヴェイルを取払い、精神そのものが語るなら、あらゆる言葉は救世主のそれと寸分もたがわぬものとなるだろう。精神そのものが語る言葉は、砂糖そのものの甘さを持つ。砂糖が菓子を欲するだろうか?砂糖は、それ自体が甘さそのもの。混ぜ物入りのあれだのこれだのを、欲するはずもないではないか。
子供というもの、未熟な者は甘いものを制限なく欲しがる。大人というもの、成熟した者は甘いものを知っている、その素晴らしさを知っている。その上で、自制することを知っている、物事の限度を知っている。自制を知る賢い者は、楽園にいたる上昇のはしごをのぼる者。菓子を際限なく欲しがる愚かな者は、下降のはしごをおりる者、一段降りるごとに楽園から遠ざかる者。