『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
モーセとファラオの秘密について
モーセとファラオについて語っておこう。結論から言えば、彼らは二人共、二人ながらに神の御意志のみしるしだったということになる。光あるところに闇があるように、薬あるところに毒があるように - 孤独なファラオは人知れず神に祈った、彼の名声が地に堕ちることを恐れて。
犯した過ちを悔いて赦しを請うこと、それが神の道に生きるということ。すなわちムスリムになる、ということである。御方は慈悲深く、その愛には限りというものがない。すでに存在するもの、未だ存在せぬもの、どちらもが常に御方の愛に満たされている。森羅万象、御方の愛から一瞬たりとも離れない。
不信も信も、ふたつながらにかの偉大なる御方を恋い慕ってやまぬ。銅も銀も、ふたつながらにかの偉大なる錬金術師に仕える身だ。光と闇がそうであるように、薬と毒がそうであるように、モーセとファラオもまた、二人ながらにかの偉大なる実在に仕える身、御方の、御意志の顕われであったのだ。
なるほど外面だけを見たならば、前者は正しく導かれてその身を守り、後者は道を誤って滅ぼされたということになろう。明るい昼の日差しの中で赦しを請うたのがモーセなら、夜の暗闇の中で孤独にすすり泣いていたのがファラオだ。彼は嘆いた、「神よ、わが首に巻き付けられたこの鎖は何なのか?この鎖のせいで、苦しくて苦しくてたまらない!だがこの鎖が無ければ、私は私ではなくなってしまう。私が私であることを知らしめるのものまた、唯一この鎖の重さ、冷たさのみなのだ。
神よ、あなたはその御意志もてモーセを光り輝く者となされ、また同じ御意志もて、私をまがまがしく暗い影となされた。モーセは、まるで夜空を明るく照らす月のよう。だがきらめく彼とは裏腹に、私は蝕だ、月の顔に暗い影を落とす蝕だ。月のごとき彼の上に定められた星は吉兆、私の上に定められた星は凶兆。日々、満ちることなく欠けてゆくばかりの蝕であるこの私に、何の救いがあるというのか!
私が一言、『汝らの主は私だ』と言えば、奴隷達は太鼓を打ち鳴らして褒めそやす。だがそれが一体何になるというのか。あれらは私を敬っているのではない、蝕に興奮しているだけだ。あれらは何ひとつ分かっていない。欲するところをただ雄叫びさえすれば、月が望み通りになるとでも思っているのだろう。
私はファラオ、多くの民の上に君臨する者。私の民が私に与えた称号は『いと高き王』、だがこれほどまでに私を打ち砕き、私の魂を迷わせた言葉はないだろう。民が私をそう呼んだ瞬間から、私の凋落は始まっていたのだ。
御方よ。モーセと私は、さながら双子のように共にあなたに仕えた。御方よ、あなたはまるで森の番人のように斧もて木を刈り、邪魔な枝は容赦なく切り落としたもう。ある枝は、よく手入れされて大きな幹に育ち、またある枝は、見向きもされずに枯れて朽ち果てる。
御方よ!あなたの斧を前にして、枝ごときに何ができるというのか?枝が、斧に逆らえようか?私は一本の枝に過ぎぬ、私はそのことを知っている。あなたが、あなたの森の木を丹念に手入れしていることも、またあなたが、丹念に手入れ『していない』ことも。だが枝に過ぎぬ私に何が出来ただろうか!
御方よ!何故私を打ち捨てたもうたのか!
何故その斧もて我が過ちを正さなかったのか!
御方よ、あなたの斧、あなたの力にかけて、私は乞い願わずにはおられない。我らを追いつめたもうな、これ以上我らに罪を犯させたもうな。導きたまえ、我らが罪を犯す前に」。それからファラオは続けて言った、 - 「こいつは傑作だ!この私が、一晩中『主よ!主よ!』と、祈り続けて過ごすとはな!
知らぬ間に、秘密の裡に、どうやら私は畏怖というものを身につけていたようだ。しかもそれは私と調和している、畏怖を抱くことに私は抵抗を感じていない。一体これはどうしたことだ。 - モーセか。あれに出会って、私が変わったのか」。
贋金は、十重に二十重にめっきを塗り重ねていかにもそれらしく造られる。
だが一たび炎の傍に近づければ、めっきはたちまちどろりと黒く溶けてはげ落ちる。
「なるほど、そういうことか。この身、この心、知ると知らざるとに関わらず、どちらもが御方の法則に従っているということか」。殻であれ、と命ぜられれば殻に、核であれ、と命ぜられれば核に。「畑となれ」と命ぜられれば緑色に、「枯れよ」と命ぜられれば褐色に -
「ある時、御方は私に『月となれ』と命じて私を月とした。そして今、御方は私に『欠けよ』と命じて私を蝕としたのだ」。全くもって、御方のみわざとはまさしくこれ、この通りだ。御方が「在れ(コーラン2章117節他)」と命じて打てば、私達は打たれた球となり空を切って飛ぶ他にすべはない。
- さて。モーセとファラオをふたいろに分かち、異なるものとしているのは色付きのガラスだ。色付きのガラスを通して物事を見るな、無色透明なガラスを通して見るがいい。無色透明なガラスを通して見れば、モーセとファラオが互いに補完し合い、調和すらしていることが見てとれるはずだ。
ここまで解き明かしてはみたものの、もしもあなた方がこれを疑うならば、この話はおしまいにしよう。理解せぬ者を相手に、議論を続けても意味がない。だが理解出来る者ならば、次に浮かび上がるであろう問いはこうだ - 無色透明たる根源から、どのようにして色なるものが生じるのか?油も水も同じ液体でありながら、何故に油と水は混じり合うことをせず正反対の方向を目指すのか?
薔薇の花には棘がある、棘は薔薇の花に寄り添う。同じ根を持つ者同士でありながら、何故にこうも違うのか?花びらは棘を憎み、棘は花びらを憎む、同じ根を持つ者同士でありながら。それとも、真には憎み合ってなどいないということか?私の目には戦と映るそれも、真には戦ではないということか?
これは御方の御意志の反映か?あるいはロバを売る商人の、見物客を煽らんがための口上か?それとも、これが惑いというものか? - いやいや、宝捜しとはこうしたものだ。簡単に見つかるものなぞ、そもそも宝でも何でもあるものか。惑って惑って、惑った者のみが真の宝に辿り着くというものだ。そこのおまえ、おまえがこれぞ宝と思い込んでいるそれ。そんなものは捨ててしまえ。ぼんやりと無駄な想像を働かせている間に、真の宝が逃げて行くのが見えないか。
どれもこれも聞き飽きたぞ、見飽きたぞ。手垢のついた議論も、実体のない空想も、どれもこれも聞き飽きたぞ、見飽きたぞ。すっかり手入れされた畑の真ん中に座していて何になる。耕されつくした畑になぞ、宝が埋まっているはずがないだろう。そこにあるのは、延々と続く農作業の他には、つまらぬ縄張り争いくらいのものだ。しがみついていたところで、新しい知見に出会えるはずもないだろう。
既知なるものと未知なるものは相容れぬ。何故なら、未知なるものは常に既知なるものを凌駕し、既知なるものはただ恥じ入る他にないからだ。かと言って、既知なるものが未知なるものを避けているのではない。むしろ逆だ、未知なるものの行く手を阻もうと、既知なるものは未知なるものに近づこうとさえする。
「未知なるものになど興味はない。むしろ私は、未知なるもの、不確かなものを避けて過ごしている」。何を言うか。おまえが避けているのではない、未知なるものの方がおまえを避けているのだ。気紛れな妄想を弄ぶばかりのおまえの手に渡ることを、新たな知見の方が避けているのだ。
上っ面だけを見るならば、未知なるものはおまえに向って手招きしているかのように見えるだろう。だが内側では、未知なるものはおまえに向って棍棒を振り回し、こちらに来るな、と、おまえを追い払っているのだ。追いかけることも出来ぬよう、足跡を変えて去って行くのだ。
冷静な心を持つ者にならば理解出来るだろう。さあ、これが「未知なるもの」が残した靴の片方だ - ファラオの反逆の、真の因はファラオの側にあったのではない。それはモーセによって引き起こされたのである。ファラオが抱いた憎悪とは、すなわちモーセが抱かせた憎悪でもあったのだ。