十六. お辞儀について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

十六. お辞儀について

お辞儀、もしくは挨拶の様式として頭部と手を用いる動作について、これが「逸脱」であるという観点に基づく論争がある。他国や他の信仰に属する民は、それぞれに独特の挨拶の流儀を持っている。そしてそれがイスラムの及んだ地域の様々な階層における慣例となり、それがそれぞれの身分に応じて異なる挨拶の様式となった。本当のところ、イスラムの初期においては「サラーム(平安あれ)」という言葉が一般的な挨拶であった。しかし後になって、それぞれに異なった諸儀礼や慣例を持ったイスラムの君主による王朝が出現した。国家と地域と習慣の多様性は、預言者とその貴い教友たちの時代の、ありし日の姿をそのまま残してゆくには不利に作用した。彼らの間で実践されていたことのほとんどは忘れられた。それらをすべて模倣したり遵守したりすることは慣例に反することとなり、ゆえにそれらは伝承の書物の中で、言葉としてのみ生き存えてきた。

たるんだ放縦が、宗教的義務の遵守においてさえ許されるようになった。これは前代の民、前代の信仰にも当てはまる。今に至るまで、それが神の慣行である。預言者の民のうち、彼の実践のすべてを詳細に渡って最初から最後まで実践しえた者はこれまでにもただの一人として存在しなかった。造られては滅びさる現世においては、永遠不変のものはあり得ないのである。コーランの訓令「挨拶を受けたときは、もっと丁寧な挨拶をするか、せめて同程度の挨拶を返せ(4章88節)」そのままに、預言者が生きておられた時代においては年端も行かぬ少年でさえ「アッサラームアレイクム(あなたの上に平安あれ)」と言い、それに対して預言者も、「ワアレイクムッサラーム・ワ・ラフマトゥッラーヒ・ワ・バラカートゥフ(あなたの上にも平安あれ、そして神の慈悲と祝福あれ)」と答えていたのである。最初の四人のカリフの時代には、すべての教友も一般のムスリムも、こうしたあり方に則って互いに挨拶を交わしていた。その後イスラムの王侯の時代になって、独特の慣習が姿を見せるようになった。誰もかれもが異なる挨拶の仕方をするようになり、それがすっかり根づいてしまった。

現在、たとえばオスマン帝国においては、スルタンの前では挨拶として地面に接吻したり、宗務や公務における上位の者、特にウレマーに対しては、上体を屈めてお辞儀をしたりするのが慣例となっている。下位にある者たちはといえば、「おはよう!」と互いに声をかけ合ったり、あるいは「神に愛されし者よ!」と言う者もあったりである。だがほとんどの者は、スンナに従って「サラーム!」と言う。

さて、こうした習慣はスンナに反するがゆえに捨て去らねばならないとの見地に立ち、人々に議論を挑み戦うのはまったく馬鹿げている。しばしば述べてきたことではあるが、人間の習慣を変えるのは難しいことだからである。この種の問題においては、そこに公衆にとっての害や、あるいは秩序のびん乱が存在するか否かを見極めねばならない。

まず第一の例というのは、慎みぶかい人々が自分たちの上司なり、為政者なり何なりに対し、地面に接吻することによって敬意を表するというのがその内実である。そこへ誰かがしゃしゃり出てきて不毛な信心を盾に大騒ぎし、「おまえはたった今、不信仰の者になり下がった、おまえは災禍の元凶だ!」などと言い立てる。言われた方の者は、あわれにも恥の大やけどを負わされる。どちらが異教徒でどちらが災禍の元凶か、改めて問い直すまでもない。不信仰なるものが成立するのに不可欠な前提条件とは、造られたものを崇拝するという意図をもって「七つの仲間たちと共に」1、「神に栄光あれ」と三度唱えるに十分な時間をもって跪拝することである。「敬礼としての跪拝」は、前代においては合法とされていたが、しかしイスラムの下においては廃止された。誰であれ地面に接吻する者は、あまり長い時間をそのために割くべきではない、というのが方法としては明白である。ここに不信仰と災禍の含まれる余地などあるだろうか?せいぜいが、地面に接吻したり膝を屈したり、お辞儀をしたりといった挨拶としては異なる表現であるというのがスンナに反しているというくらいで、習慣と慣例に対する違背にはあたらないとの理由から、いたって許容されるものである。上位にある者の前に立たされてただ「アッサラームアレイクム!」とだけ言い放つというのは、一般的には無礼とみなされうる態度である。それゆえ人々は習慣に従い、礼儀正しく丁寧なふるまいの諸規則に従っているのである。

ゆえに学徒は師の前に立ったなら、上体を傾けてお辞儀をするか、それが出来ないなら口を閉ざしているべきなのである。近頃では単に「平安あれ」とだけ言う挨拶が、階級や年齢の平等のしるしとなっている。だがそれにより昨今では下位と上位の序が乱れ、礼節の慣習は守られず、師が公然と侮辱されるようになった。

「正しきを命じ、悪を禁じる」勧善懲悪を実践せんとする学者諸氏におかれては、こういった繊細なる真理についても知りおいて頂かねばなるまい。諸氏は慣れ親しんだ道から人々を引き離そうと、無駄に時間を費やすべきではない。一回くらいなら、自らの主張を申し述べるのも結構なことである。だが無知の罪を暴くにはそれで十分である。それで効果がないようなら、更なる苦言を呈するのは無駄なざれごとであり、そこには何の利も益もない。

 


1. 「はじめに II. イスラム的背景について」参照。