『直観』
著 アフマド・ガッザーリー
訳と解説 ナスロッラー・プールジャヴァディ
序
慈悲あつく温情ふかき神の御名において。
神に称賛あれ、諸世界の主たる御方。1そして物事の結果はすべて正しき者に属する、2不正を為す者に属する憎悪を除いては。3我らが主人ムハンマドならびに彼の正しき一族の上に祝福あれ。
(1) ここに記されるいくばくかの章は、愛 ‘ishq に関する(神秘主義者の)思考 ma’ani を、私の言葉を用いて著したものでである。実際には、愛は言葉で表現できるものではなく、文章を連ねたところでそこに宿るものではない。愛に関する思考とは、いわば処女のごときものであり、言葉による手指では、処女たちを隔てている幕の裾にも届かない。この状態においては、仮に我々に課された務めが、処女たる思考と文筆を生業とする者による、言論という名の私的な寝所における婚姻であったにせよ、語られる論がまとう外向きの表現 ‘ibaral は、様々な思考についてのほのめかし程度に留まらざるを得ない。さらにこの(言葉の)曖昧さは、「間髪入れずに味わい dhawq たがる」人々以外のためにのみ存在する。ここから、思考の根は二方向へ伸びてゆく。すなわち外向きの表現に覆われたほのめかしの意味について、ほのめかされた意味がまとう外向きの表現についてである。たとえ言葉の深奥に隠されているのが鋭い剣の刃であったとしても、それを感知できるのは内的感覚のみなのである。故に(本書における)章に理解不可能な言及があったとしても、それもまた思考の一部分とみなされたい。神は最も良くご存じであられる。
(2) 私が筆を取るにあたっては、(道を同じくする)同胞のうち私にとり最も愛すべき親友 –– サーイヌッディーンの名で知られている –– の勧めがあった。即興で私の思いつくままに、(神秘主義的な)愛の持つ意味について著された二、三の章からなる書物があれば、愛との近しく親密な交わりを欲しつつ、嘆願の両手が合一の裾に届くこと叶わずにいる者も、書物を読むことによって(彼自身の)慰めを得、4また記された語句の意味を通じて(愛の在り様の)疑似体験を得られよう、とのことである。
(3) (友人として)彼の期待に応じようと、それが創造主にも、またいかなる被創造物にも帰されるものではないという条件の下で、私はいくつかの章の執筆に同意した。それは特定の見解や事実、5状態、ならびに愛の目的を助長するためではない。(私がこの書を記したのは、)友がどうすることも出来なくなったときに、章と章の間に慰めを見出せたならという、ただそれだけのためである。古くからの言い伝えにもある通り、
あらゆる人間の医者は薬を処方する、しかし
ライラの言葉以外に、汝を癒せるものはない6
あるいはまた、
彼女の口から流れでる水に渇き、
それを得ることが叶わぬならば、
おれはかわりに葡萄酒をあおる
しかし葡萄酒が水の代わりになり得るだろうか? –– とは言え、心の痛みを和らげる程度ならできるかもしれない。
1. コーラン1章2節.
2. コーラン7章28節.
3. コーラン2章193節.
4. 動詞 ta’allul kardan は、より正確には、真に欲する対象ではないが、それに代替する何かによって自らを慰めることを意味している。
5. Haqaiq – i’ishq は、ここでは「愛の属性」を意味しているといえる。
6. 「愛する者」として名高いマジュヌーンの恋人ライラは、「愛される者」の象徴である。